自分探しが、昔から流行である。何か気取った感じがしているが、吉田ルイ子ファンでもあった私は、それはそうと思っていたのだが、自分探しなんて、大嘘で真っ平なのである。
何故、自分が分からなかったり、見つめなおしたり、探したりしなければならないのだ。そんなことしたって何もない空っぽの自分が分かるだけではないか。
それとも、フロイト風に精神分析的に見ろというのだろうか。しかし、今となってはフロイトの学説も風化しているし、性的抑圧だのリビドーだのあまりに知れ渡っていて、「そうだったのか!」なんていう人は、少なくとも、少し学がある人なら知っていて何の感動もない。
そrえとも、出生の秘密を探ろうと言うのか、先祖を調べていこうというのか。まあ、それは、自分探しというより、自分の血統探し程度であろうか。
まあ、自分探しというのは、いったい何をしたらいいのか分からない、夢がない、このままでいいのだろうか、大変だ、今の自分は本当の自分ではない、といった類のことであろうか。そんなことは、30も後半に差し掛かった私でも、今でも、正直思っているのである。
いったい何をやりたいのか分からないというのは、単純にやりたいことがないだけなのである。或いは、ヤリタイことを調べたり、それに突き進んでいくのが面倒だったり変化していくのが怖いだけなのである。自己実現する自己など、そうそう普通の人間が生来持っているわけでもない。突き詰めれば、やりたいことなど分かりたくないのである。分かれば虚無の自分を知り、ショックを受けるだけである。
自分探しより、面白いもの探しの方がよっっぽどましである。本当の自分などない凡庸な自分を意識して、面白いものを探すと良い。
つまるところ、自分が分からない人は、人に自分のことを聞いて欲しいだけである。それでいいではないか。