情報に埋もれ、日々の生活に追われ、あれは何だったんだ、を毎日続けている。
でも、もしかして、若い頃に心中深く刻み込まれた風景や考えは消えないのだろうか。不覚だ。
ホテルに置いてないと、泊まらないとマドンナが怒りだすVOSSウオーターなんかを飲んでみたりなんかして・・・水は冷たくすると、割と舌は馬鹿なのでおいしく感じる。
本なども、読む読まないにかかわらず、ストレス(適度な緊張)開放のために、無差別購入なんかしてみたりなんかする。頭は馬鹿なので、何となく本を買うと賢くなった気がする。
意味もなく、飲んだくれたりなんかもする。しかし、20代の時のように、無差別な時間に無差別な場所で無差別な時間まで飲むといっただらしなさはなくなった。まるで、紳士になったようである。本質的に馬鹿なので、何となくデカダンとか反何々とかがカッコいいと思ってしまったりする。
(京都駅前のこの店に来たことがあり思い出した。サルベージ(底)ってなんやろかと思って入った店であった。おっさんがずっと鍋をかき回しており、誰かが「ソコ!」というと、底の方のドロドロ部分をすくって出す。戦後の闇市のときから、継ぎ足し継ぎ足ししている何かのごった煮なんだろう。なかなかまずかった。何でも食える、どこでも眠れる、ということが最大の旅行者としての資質を発揮したのだが、結構、意地になって食ってたりなんかする。現地に行けば、現地人に誘われ、出されたものを無造作に、食う、それが仲のよくなる瞬間である。これなんだ、というような顔をして、恐る恐る食っている瞬間はすぐに見破られる。出された瞬間に、すぐに口にほりこむ、それが鉄則だ)
何か、そう思い、ご先祖様に会いに行く。
実家は、父方は浄土真宗東本願寺親鸞である。(ちなみに母方は西本願寺である)
もしかしたら、逆かもしれない。
私の家には、墓がない。墓がないので、墓参りをしたことがない。代々、墓は不要と考えているようだ。
でも、実は、墓はある。東本願寺総本山に、共同で入れられている。まあ、仏陀も、墓は不要といった訳だしね。日本葬式スタイルは、本来の仏教ではない。
初めて、来た。
親鸞については、学生時代にいろいろ読んでから、もうさっぱり忘れてしまった。変人だったことぐらいしか覚えてない。肉食の妻持ちで、乞食、シブイ。
何故か、葬式は、暑いか寒いかという記憶が多い。
しかし、インドとはえらく違う。仏教は、優しいのか、あの風土では生き残れないのだろうなあと思う。(昔はもっと温暖だったのか?)いずれにせよ、「世界的宗教」というのは、気候の厳しいところでしか生まれず、広がらないものだ。
ヒンドゥ教って、インドから出ることはできない宗教なのに、人口で見ると、仏教より信者が多いと言うのは、すごいよな。だいたい、多神教のヒンドゥ、仏陀でさえ、ヒンドゥの一派なんだよなあ。神様ポスターにもシバ、ビシヌ、パールバティ、ガネーシャの中に仏陀が入ってるんだよねえ。
天地眼・・・飛んでるよね。ナチュラルにね。何でこんなふうにひねくれてかんがえるようになっちまったのかね。