練馬区に足を踏み入れたのは、10年はゆうに越していると思う。
西武池袋線の駅を見ると、練馬前後のそれぞれの駅に友達がかつて住んでおり、どの駅も降りたなあ、と記憶が蘇りつつあった。
練馬駅を降りたのも、もう16年ぶりであり、駅が高架になり、駅の位置が若干移動し、デパートができていた。少し迷って、昔と変わらぬ昔から取り残された家があった。
昔は、彼の家の玄関は、バーカウンターから入るようになっていた。今は、そのバーカウンターは彼の経営する花屋になっていた。花屋・・・
就職活動で、実は、私は、大手花屋をいくつか受けたのだ。しかし、私の学歴では、変な話、もう、花屋さんは、面接がない、というか、勝手に特別枠になるのであった。憧れの職業と思うのだが、結局、花ビジネスを何となくひいてしまった私であった。何故か。同じ大学のゼミの奴が、1つだけ単位を落として、留年し、会社の好意により、働きながら、週に1度だけ、その授業を受けさせてもらっていたのだった。私は、最初から留年しているので、なんだか、同じ留年で、先輩になられるのも、シャクだなというか、同じゼミの奴と仲良くしていかねばならないというのも恥ずかしいというか、それより、なんだか、無条件で就職OKってのが気に入らなかったのかも知れない、なんとも、傲慢な、20代の青い季節だった。
大学には喫茶店がいくつかあった。今でこそ、少し古いが生協のなんとかさんって有名になったが、当事も、自由に投稿質問ができて、掲示板に回答が張り出されるシステムであった。結構不真面目な意見にも、真摯に答えてくれるのが面白くて、時々、投稿してみたりなんかしたりしている、屈折した大学生時代であった。
「すみませんが、私は、遅れてきたフラワーチルドレンです。この喫茶店店内を花で埋め尽くしてくだい。お願いします」と投稿しると、掲示板には「貴重な意見、ありがとうございます。できればそういうことをしたのですが、予算の関係上大変難しいのです、云々」との返答が掲示板に貼られていた。
結局、私は、お花屋さんにはならなかった。
彼は、花屋になった。16年ぶりに訪問して、店内に入ってみた。
「まいど、●●くん」
彼もすぐに私のことを分かってくれた。ネットで検索して、なんとなく訪ねてみた旨を伝え、15分ほど話をした。彼も、子供5人を抱えながら、順調に、離婚していた。毎月、大変だよ、と彼は言った。ヘリコプター会社などに勤務していた彼が、花屋を選んだ理由が何となく分かるような気がした。それは、旅行のせいなんだと。大きなウエイトを占めすぎんだ、きっと。
彼と最初に会ったのが、パキスタンのカラチであった。その日、パキスタン航空はギリシアから飛んできて、私と共に、カラチ12時間トランジット組の日本人若人が8人いたことを思い出す。皆、ヨーロッパ帰りで、(彼はエジプト帰り)私だけがアジアを経験していた。私は、陸路でヨーロッパまで行き、お金が尽きてアテネから帰国するところだったので、皆を12時間パキスタン案内へとご招待したのであった。ヨーロッパを満喫してきたりホームステイしてきた人たちが、何故だか、たった12時間のパキスタンが一番面白かったよ、なんてノー天気に言ってたような気がする。男たちはその後博報堂やNHKに就職していった。女たちは青学やフェリスのお嬢さんだったので、その後、それなりのその後だったのだろう。年賀状のやり取りが続いたり、一人は神戸出身で彼女が神戸に帰ってきたときには遊ぼうと言われて遊んだなア。しかし、彼だけは、その後アジアにはまっていき、今は、養育費にさい悩まされながらも、自営業の道を歩んでいる優しい奴だったんだ。
12時間のトランジットで何故だか、パキスタン航空は空港ホテルを用意してくれた。でも、私は、市内に遊びに行かないかと声をかけ、一台のタクシーと交渉した。タクシーのあんちゃんも面白い奴で、一人一日1ドルで交渉がまとまった、といっても、1台のタクシーに運転手含め9人が乗るのである。これはハイテンションにならざるを得ない。前に女の子3人、後部座席に野郎5人。運転手は飛ばす。抜いていく車に、私たちは、イエイエイエイ!と叫び、追い抜かれる運転手も笑顔であった。その気の緩みと、許容を皆は実感してくれたのであはないだろうか。なんとなく、私も嬉しかった。18年たった今でも、きっと、あのときのことを覚えてくれていると思う。きっと。きっと、アジアとは戦争できない、敵対できないと思ってくれていると。(アジアとは戦争してないけど。アジアを支配していた欧米と戦争した)
まあ。私の結論としては、あさみとやり直したいってことぐらいだよ。