何だか昨日調子に乗ったので、おまけを記することにした。小学校低学年でそんなに悪いことはできないが(ドロップキックや銀行強盗や企業のっとりなど)、といっても、黒板消しを教室のドアの上に挟むという古典的意地悪はしなかったが、何をしたか思い出してみると、虫眼鏡でいろんなものを焼く。そのうち、友達の髪の毛を燃やして叱られる、押しピンを天井に向けて投げる。たまに刺さると、もう落ちてくることはない。牛乳キャップの真ん中を押しピンで空け、牛乳口を巻いていたビニルキャップとそのビニルのヒモでくくりテルテル坊主みたいにして、頭から押しピンが出てるダーツをつくり、壁に投げるのが飽きると、人に向かって投げる。輪ゴムを手鉄砲にして撃つ(勿論人に)、まあそのぐらいか。かわいいものだ。
ゆびきりげんまんはよく考えたらやったことがないので、針千本飲まされたこともない。もっと昔には、汚いものを(犬のうんこを踏むとか)みたりしたら、えんがちょ、とか言ったらしいが、我々は、ミッキであった。人差し指と中指を交差させて、うんこふんだやつから離れるのだ。ミッキー、ついでにバーリアとかいって2重セキュリティを施したぐらいであった。
さすがに、蚤虱回虫を飼っている子供は少なかったが、夏には毎日蚊にやられ、冬にはアカギレしもやけにやられた。やられているくせに半ズボンはいてたりなんかして、どうにかしてた。
私は、今とは違ってシャキっとしていたほうなので、鼻水垂らしてはいなかったが、クラスに2,3人の少し頭の弱いヤツは、時代遅れのまま、青っぱなのままで、ジャンパーの袖が常にテカテカという感じであった。あったが、誰もあまり気にしていなかった。でも時代は進みつつあったので、多分女子は嫌っていたと思う。ダラシナイ子だわ!と。
とまあ、子供は風邪の子というぐらいだから、子供は風邪ひくんだと低学年の頃は思っていた。小学校高学年からは高校まで休んだことはなかったが(高校に入っても二日酔いに耐えて会社員のように出かけたが)、小学校低学年の頃は、何度か休んだりなんかした。休むと、急に母が親切になるのが不思議であった。なんか、お菓子だったかフルーツだったかを食べさしてくれるだけでなく、ゴムでできた氷枕まで親切に取り替えてくれたりなんかして、とにかく何より怒られないのが不思議で、母もなかなか優しいのだなと病気のときだけは見直した。
学校の帰りは、一人だと何かと寄り道して、知らない道や路地に入っていったり、わざとドブの中を歩いたり(雨の日ね。どうせぬれているからとヤケクソで)、来た道を戻ったり、そういう子供らしい癖が、考えてみれば、まだ抜けきっていないような気がする。寝たきり青年も楽しいのだが、どうにも、どっか知らないところに行きたい願望は消えないものである、誰もがきっとそうなのであろう。
しかしガキがつるめば、かばん持ちになったりなんかして、これは願掛けで両手をねじって手を組みその手の中の暗い部分を除いてじゃんけんの次を何出すか占ったりしながら勝負に挑むのであった。それが今の勝負師の礎を築いているのであろう。とにかく10人ぐらいになってくると、もはや1回でランドセルなんか持てるはずがなく、電柱から電柱の間が遠いときは、真剣じゃんけん勝負であった。カバン持ち以外では、じゃんけん分で勝ったらその分歩数を進めるのだが、チョコレート(チョキ)、パナップル(パー)、グリコ(ぐー)であり、子供心にグーだけ3歩しか進めないのは不公平だと思ったが、その分、皆がチョキやパーで7歩を目指すのに、小刻みに戦略的にグーという手もあったのかも知れない。ちなみに、じゃんけんは、ぐんかんぐんかんはーれつ、はれつはれつーんぽつ、であったが、面倒なので、ぐんぐんぱん、パンパンチン、とか言っていたと記憶する。まあそんな感じで今日も許しといたるわ。
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