原子力研究機関の前で、シュプレヒコールやビラまきは禁止だ!ということだが、誰もいない。
受付の若いおねんちゃんが寂しそうだ。
何の仕事もしてないのに、任務終了、ってなあ・・・
まずは「むつ」の歴史を紐解こうではないか。(ウキペディアより)
1969年6月12日 石川島播磨重工業東京第2工場にて進水式。
1969年6月12日、原子力船進水記念として郵政省から記念切手が発行された。
1970年7月 船体工事完了、定係港大湊へ補助機関のみでの回航。
1971年11月 原子炉艤装工事完了。
1972年8月 日本原子力船開発事業団へ引き渡し。
1974年8月26日 漁船団の包囲網の、台風14号によるスキを突いて、大湊を出港(予定は25日であった)。
1974年8月28日 原子炉が初臨界に達する。
1974年9月1日 遮蔽リングの設計ミスにより、北太平洋航行中に放射線(中性子)漏れを観測する。試験中止。
1974年9月5日 陸奥湾漁民ら、帰港反対を決議。むつの「漂流」が始まる。
1974年10月14日 自由民主党総務会長、青森県知事、むつ市長、県漁連会長の4者、合意調印(2年半以内に母港撤去、半年以内に新母港決定、地元対策に12億円)。
1974年10月15日 帰港、原子炉を封印、係留。
1976年2月7日 長崎県佐世保市に修理港受入を要請。
1977年2月27日 佐世保市で受入賛否両派が集会、反対派デモに右翼が突入。
1977年4月30日 長崎県議会、核燃料ぬきで、佐世保修理受入を議決。
1978年5月13日 政府、長崎県と佐世保市に核封印で修理寄港を要請。
1978年7月21日 長崎県、佐世保市、修理受入協定調印。
1978年10月16日 佐世保入港。
1978年長崎県佐世保で改修工事開始。(~1982年)
1979年7月9日 改修のため佐世保重工ドック入り。
1980年8月14日 大湊の再母港化を要請。
1981年5月24日 政府、地元関係者五者会談、母港をむつ市関根浜に建設で合意。
1981年9月29日 むつ市、大湊仮母港拒否。
1982年9月6日 むつ市大湊港に再入港。
1984年1月17日 自民党科学技術部会廃船決定発表。
1988年1月26日 大湊港を出港。
1988年1月27日 新母港、むつ市関根浜港入港。
1988年8月4日 関根浜港で原子炉の蓋容器開放、点検はじまる。
1989年10月30日 蓋開放点検終了。
1990年3月6日 起動前試験終了。
1990年7月 原子力航行を行う。
1991年2月~12月 実験航海、82000km(地球2周以上)を核動力で航行。
1992年 原子炉停止。
1993年3月 原子炉を解体撤去し、海洋地球研究船への改装工事に着手。
1996年8月21日 海洋地球研究船みらいとして就航。
寂しい船であった。嫌われ者の。初出航してから、いきなり放射能漏れ情報により、帰る港がなくなり、彷徨う。
機械フェチにはたまらん一品である。
勝手に触ってもいいのか、船が動き出したり、原子炉が暴走したりするのか。
たった、一人のおっさんが、真剣に見つめている、計器を探る・・・
何かあっても、すぐ対応できるように。
好きに操作してもいいのか・・・。
当時は、今より、原子力アレルギーがあったような気もする。まだ広島、長崎が生きていたような気がすると思ったら、平成だったのか・・・??
アレルギーが強かったから、マスコミが過剰反応してしまったのか。実情は放射能漏れでなくて、放射線漏れだったらしいが・・・いずれにせよ、いらないものだったね。
取り外した原子炉を展示、ほんまか?
映像
2012年6月 青森恐山エネルギー巡り
昭和大仏
原燃1
原燃2
恐山まで
恐山、地獄から天国へ
恐山、天国から地獄へ
むつへ
原子力むつ
八甲田丸
機内アナウンス