1986年夏、バンコクからソウルに到着した時の所持金は1,000円程度でした。ストップオーバーは5日間。なんとか、学生の家に泊めさせてもらったのであいた。その泊めて貰っていた学生の後輩が、ソウルを案内してくれるという。彼は、彼女を連れてきており、学校では日本語も勉強しており、日本語を少しばかり話す人であり、日本語を学校で勉強しているとのことです。名前は伏せておきますが、ドンボーという名前。泊めて貰っていた家の親父に日本語で毎日、「オマエタベル」とか戦中の名残で怖い言葉で更にニコニコしながら片言の日本語を話してくれていたために、ドンボーの日本語は敬語が散りばめられとても優しく感じました。
「観光しましょう、ソウルタワーに行きましょう。健康のために歩きましょう」
ドンボーの彼女は日本語と英語が出来なく、自分は英語と韓国語ができないので、ドンボーの彼女はニコニコしているだけでした。そこで、素早くドンボーはニコニコしながら日本語で言いました。
「私の彼女は、あまり、うつくしくありません」
自分は少し顔が引きつり、苦笑いをしながらドンボーの彼女の顔を見ました。ドンボーの彼女は微笑み返しで、私に更にニコニコっと笑ってくれました。当時のクルクルパーマが印象的でした。
すこし、顔が凍りついた自分に気がついたドンボーは、更に得意の日本語でいいました。
「そのベンチで、アンパン食べましょう」
ドンボーは、誠にオカネのない自分がいうのも何ですが、彼自身も学生の分際でお金の持ち合わせが少なく、自分に食糧を供給するのに苦労していたようです。是非、日本に来られた時には、酒池肉森全漢千席の世界にご招待したいと心から誓ったのでした。
随分歩いた気がします。でも、僕もまだ10代だったので、元気でした。飲んで徹夜しても、朝また飲めるぐらい元気でした。元気ですが、お金ありませんでした。
ソウルタワーからの景色のことは、今ではすっかり忘れてしまいましたが、そこで声をかけてきた女性が、今まで会った日本語を話す外国人で最も日本語が流暢な人でした。顔もアジア人なので、日本に紛れ込んでも、絶対にガイコクジンとは分かりません。分かったとしても絶対在日韓国人と思われるぐらいの熟練度でした。
(その後、海外に住む人で彼女ほど日本語が流暢な人にまだ出合ってません)
彼女も彼を連れて来ていて、よく覚えてませんが、多分帰りはロープウエイに乗りました。私は、もう3ヶ月ぐらいは髭を剃っていなかったので、ボーボーで、当時は韓国で髭を生やしている若者はいませんでした。しかし、彼女の彼は生やしてました。そのことを指摘すると、彼は特別ですといいました。よく見ると、いや、よく見ないでも、彼女も彼も美女美男子でした。ドンボーとドンボーの彼女は、多分ロープウエイ代を出してもらったこともあるでしょうが(何を隠そう私も絶対出してもらっている筈、だって全財産1,000円なんだから、5日滞在だから1日の予算は200円なんだから)静かでした。
今回、ロープウエイで上りながら、そっか、もしかして歩いて登ってタクシーで降りたと記憶していたのは間違いだったのだ、と気がつきました。しかし、上記以外の、例えば、景色とか、どのくらい人が来ていたのとか、何も覚えてないのですが、今回えらく、賑わっているのですが、何となく、閑散としていたような覚えがありますが、それも間違いかも知れません。あのストップオーバー5日間というのは、金がなかったので、アジアンゲーム会場に連れて行ってもらった、喫茶店に行った、ソウルタワーに行った、映画に連れて行ってもらった以外は酔っ払っているか(他人の金で)、二日酔いで寝ているかだけだったのです。当時は1泊のトランジット以外はビザが必要だったんですよ。学生たちと飲み明かしてる時、本当に、韓国人は、私が自由にアジアを旅行していることを羨ましそうに聞いていたんですよ。海外渡航が自由化されてなかったから。(1989年に自由化された)
二日酔いも何だかよく覚えてないのだが、ある日、学生たちと梯子酒して、最後に、マッコリ買って来て、トラックの上に乗って皆ベロベロ議論していましたなあ。あとは、倒れるだけなんだ。
去年夏韓国に会社帰りに行った時も(翌日カザフスタンに行ったけど)、空港からソウル市内に入ったら、サラリーマン親父がベロベロに酔った週末、男同士肩組んで歩いているのを懐かしくみましたよ。
2012ソウル
26年ぶりのソウルタワー
南山ソウルタワーブロック
テディベアに学ぶ歴史の旅
テディベアに学ぶ現代の肖像
テディベアに学ぶかつてのソウル
テディベア自体の歴史
ソウル軍事博物館1 安重根博物館
ソウル軍事博物館2 軍服
ソウル軍事博物館3 戦時中の生活
ソウル軍事博物館4
ソウルgourmetの旅