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カテゴリ:NK関係
ふぉの? とその単語を聞いた時、それがあの大手レコード会社の名前とは結びつかなかった。何を言ってるんだ、と黙ってハイテンションの兄貴の言葉をしばらく聞き流していた。
お前ちゃんと聞いてるのかよ。 はいはい聞いてます。だから? と私は問い返した。 『だから、メジャーデビューなんだよ』 は。 その時やっと、単語の意味を理解したのだ。そりゃまあ、兄貴が、あの兄貴がこうもハイになる訳である。それがゴールとは言わないが、とにかく彼にとって、「まず」乗り越えなくてはならない一つの壁であったことは確かだろう。 流通とかの面で、今はインディーズとメジャーの差は少なくなってきている、とは言ったところで、やっぱりバックがあると無いでは全然違う。 それはおめでとう、とあらためて私は言った。多少複雑な気持ちではあったが、おめでとうというのは正直な気持ちだ。これだけ私や親やら代々のヴォーカリストやら周囲をかき回しているのだから、それが成果として形になってもらわないと気が済まない。 それじゃまたな、と言って兄貴は電話を切った。ふう、と私は息を一つつきながら肩をすくめた。それがため息なのか、深呼吸なのかは私にもよく判らなかった。 …そんな翌日なのに。何であの子は。 私は仕事に出る服に、サンダル一つ引っかけて、公園へと走った。ストッキングにサンダル、は夏じゃないんだから少し寒い。カッカッ、と音が朝の通りに響く。 公園の入り口に差し掛かった時、彼が立ち上がったのが見えた。急がなくては。 私の姿を認めためぐみ君は、その場に棒立ちになった。 「美咲さん…」 「やっぱりめぐみちゃん? なのよね? どうしたの? こんな時間に」 白々しい程の言葉が私の口から漏れる。こんな時間に、そんな顔して居る、ってことは。二度あることは三度ある、なんて言葉、ここで使いたくはなかったのだけど。 「どうしたの、って…美咲さん、今から会社でしょ? 急がなくていいの?」 ああ全く。この子は一体何を言ってるのだろう。こんな時に私の心配などしなくてもいいのに。 私はふと彼の姿をざっと見渡して、顔を歪めた。これはまずい。 何がまずいと言ったって。服をだらしなく着ていることではない。フローダウン、という奴だ。何でそれに気付かないのか。 「こっち、いらっしゃい!」 私は思わず彼の手を強く引っ張っていた。だらんと力の抜けためぐみ君の手は、思った以上に柔らかかった。そのまま私は彼を自分の部屋まで引きずって行った。 自分の階まで、音を立てて上がって行ったら、隣の扉が開いた。サラダと一瞬目が合う。思わず私は逸らした。 何で逸らさなくてはならないのか、判らなかった。だけど、何となく、そうしてしまった。扉が閉まる気配がした。 「美咲さん」 部屋に入れたはいいが、立ちつくしているだけの彼に、私は慌ててクローゼットを開けて、バスタオルと大きめのTシャツを渡した。 「…どうしたのいったい」 「いいから」 全くもう。この子は自分の状態というのを、本当に理解していない。あれであのまま、通勤通学の人達が通りだしたらどうするつもりだったのだろう。よりによって、今彼が履いているのは、ベージュのチノパンなのだ。 「いいから。とにかく、シャワー浴びて」 彼は言われるがままに、バスルームへと入って行く。 「使い方、判る? …ああ、シャワー出せばいいだけだからね。そうしてあるから、適当に、使って」 それでもまだどうしていいのか戸惑っているような彼に、私は洗濯機横のバスケットを指さし、とどめの一言を投げた。 「脱いだらそこに入れておくのよっ!」 ああ全く。突っ張り棒で作ったカーテンを閉めて、私はキッチンの椅子に座り込む。時計を見ると、そろそろいつもだったら通勤する時間だった。…だが。 何でよりによって、月曜日なんだろう。少し迷って、私は会社に電話を入れた。今の時間で誰か居るだろうか、と少し考えるが、会社が大好きなひと、というのは、だいたい誰かしら一人は居るものだ。 案の定、あのボス的OL様が居た。何と理由をつけようかな、と思いながら、疲れた声でおはようございます、ととりあえす言う。すると向こうの方から、あらひどい声風邪でも引いたの? と聞いてきた。その理由を使わせてもらおう。 「…ええそうなんです、すみません今日一日休ませて下さい…」 普段病気で休むなんてことは無いから、たまの嘘は有効だ。そうなの最近忙しかったものねお大事に、という向こう側の声を聞いて、受話器を置く。そして一度着た通勤用の服を脱いだ。 どうしたものか、と思いながら、とりあえずキッチンに立つ。あの様子では、まだ朝ご飯は食べてなさそうだ。空腹の時に、人間はロクなことを考えない。ごはんは大切だ。とにかくコーヒーを入れる。オーブントースターに、チーズを乗せたパンを置く。卵を割って、塩コショーを入れてよくかき混ぜておく。ブロッコリを小房に分けておく。 そして彼が出てくるのを、コーヒーを呑みながら、新聞を見ながら待った。…ろくな番組が無い。 彼の服は、洗濯機にまるごと放り込んだ。 やがて出てきた彼は、私が部屋着にもしている長いTシャツが何故かぴったりだった。 「乾燥機、もう少しで仕上がるから、もう少しそのままで居てよね」 バスタオルを頭にかけて、ほっこりとした顔で彼はキッチンの私のほうへやって来る。そっち、と私は六畳の方を指した。彼は素直にそちらへ行き、ちょこんと座る。 オーブントースターのタイマーをセットし、スクランブルエッグを手早く作る。ブロッコリもレンジに入れる。そしてその間に、マグカップにミルクを半分入れたコーヒーを入れ、彼の前に置いた。 「…仕事は?」 私の恰好を見て、彼は問いかけた。 「あたしは今日は、いきなり風邪をひいたのよ」 ああそうだ。こんな一枚だけでは風邪を引かせてしまう。私はベッドから毛布をはぎとると、彼をすっぽりとくるんだ。ふっと自分の匂いがそこには一瞬漂ったが、まあ仕方がない。 大きな毛布にくるまれた彼は、いつも以上に小柄に見える。この身体を、兄貴はいつも抱きしめていたのだろうか。私が知っている誰よりも、めぐみ君は大事にされていたような気がする。ステージの上でも、ステージでない所でも。 そう言えば一度、見たことがある。ライヴハウスの廊下で、今日の出来は良かった、という意味りことを言いながら、ぐい、と彼を引き寄せてた兄貴の姿。その力の入り具合が、何だか妙に、うらやましく思えた。兄貴の腕が、ではなく、誰かの腕が、あんな風にぎゅっ、と捕まえてくれることに、何となく。 「ほら食べて。食べるの」 勝手に湧いてくる考えをうち消すように、私は用意した朝食を次々に彼の前に並べた。 何となく首を傾げていた彼は、食欲など無かったのかもしれない。だが、一度手をつけたら、次から次へと彼は手をつけて行った。彼自身、それに驚いているようだった。 私はTVを点けて、音は小さくして、その画面と彼の間に視線を往復させる。朝の番組というのは何でまあ、何処も似たりよったりなんだろう。滅多に見ることがないのに、いつも同じ感想になってしまう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006.02.06 21:53:05
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