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Nov 23, 2009
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つながりや絆ということを題材にぽつぽつと書いてみましたが、「だからどうすりゃいいの!?」って言われると、「はああぁぁぁ」と、言葉に詰まってしまうというのが実際です。

目の前にいる小学生を見ていると、「人はつながっている」という感覚が本当にどんどんなくなってきているように見えます。よくぞここまできれいさっぱりそういう感覚が抜け落ちるものだと妙に関心さえしてしまいます。

「それでも人はつながっている」
ということをなんとか道徳の時間などを使って、あるいは日々の活動の中で分かってもらおうとしているものの、空回りしている感じがするのは否めません。

隣の席の子供と口論になったことで腹を立てて筆箱をゴミ箱に捨ててしまった小学校低学年のS君を指導した時のこと。「友達の筆箱をゴミ箱に捨てたら…」とうっかり「友達」という言葉を使ってしまいました。このごろの子供には「クラスの人=友達」という概念がありません。S君はきょとんとしていました。意固地になって「こんな奴、友達じゃないやい!」と反発しているのではなく、S君は素の状態で、

「えっ、友達?どうして隣の席の○○君と僕が友達なわけ??」

と疑問に思っている顔をします。「とりあえず同じクラスの人は友達と呼ぶ」という前提が成り立たない世界。S君の感覚は私にもわからないでもないし、いろいろな考え方があればいいと思うけれど、小学生の頃からこんな感覚って、どうなんでしょう??小学生時代ぐらいは「とりあえず同じクラスの人は友達と呼ぶ」という感覚を「型」として持っていてもいいのではないでしょうか。青年期になってから、その「型」を疑ったり批判したらいいのではないでしょうか??

生きるとは何なのか。自分とは何なのか。他人とは何なのか(つまり、他人とはどうつながっているのか)。繰り返しになりますが、そんなことを考えるための「型」が何もないままで育ってきてしまっている子供(いや既に大人も)がたいへんな割合で増えているのを実感します。


「型」を与えるのは宗教であったり、地域の規範であったり、親であったり、学校であったり、書籍であったり、芸術であったりしたのでしょうが、それらが「なんとなく」機能しないままであることが忘れられてきたのだと思います。

生きることを考えるためには死ぬことを考える必要があるし、自分を考えるには、「やがて死んでしまう自分」を考える必要があるし、他人を考えるにはやがて自分は死んで他人とのつながりは消えてしまうことを考える必要があると思います。

村上春樹氏が、オウム真理教信者のインタビュー集「約束の地で」のあとがきで、
「多かれ少なかれ私たちのすべてが、自分がこの世界にこうして生きている意味を、そしてほどなく死んで消えていく意味を、できることならこの手で確かめてみたいと思っているのだ。」
と、述べています。
そして、オウム真理教で暴走した信者は、その意味を求めたいがための行為のなかで「ボタンの掛け違え」が始まって、それがエスカレートしてとんでもない場所に行きついた、と述べています。

この「ボタンの掛け違え」が起こっている怖さ以上に、多くの人が「ボタンの掛け忘れ」、つまり、生きること死ぬことの意味を考えなくなってしまっている怖さがあると思います。これをなんとかしていかないと、社会はどんどん危うい状況になっていくと思います。

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「死を通して生を考える」という教育活動があります。デスエデュケーションといって、いくらかの教育実践も行われています。
下の本は、それらの実践を紹介しながら、デスエデュケーションの必要性を訴えています。

 
死を通して生を考える


子供に死(≒生)を考えされる機会を与えていくことは重要であり、上の本の著者、中村博志氏は、「家庭の役割である」としながらも、学校教育の中でも取り入れられないかと模索しておられます。
他に


「死」を子どもに教える

も読んでみました。ある教師の命の教育の記録を中心に死と教育に関しての考察がつづられています。また、


死にカタログ

はデスエデュケーションの本ではないですが、「死に関する」素直な疑問とデータを淡々と、提示しています。どの本も、難しい「死生観」を説いているのではなく、日常にある「死」とその教育について提示しています。

人が死と対峙するという行為が薄れていることをどうにかしなくてはと思っている人は少なくないようです。

学校現場の中で「死」を取り扱う教育実践はあるにはありますが、そんな実践が浸透するには、草の根的な実践の積み重ねだけでは難しい面があるかもしれません。現場を大きく動かすのは大きな組織的な力、つまり文科省からの強力なトップダウンが必要です。

「命の教育をせよ」との声は1990年代後半の少年の殺傷事件が多発したころから言われているものの、これを「死を通して命を考える」という形で進めるところまでは、踏み込めずにいるのが現状だと思います。私だってこんな記事を書きながら、十分なことはできていません。強制されないのであれば、進んでこの重い役割を担おうと思う教師は少ないでしょう(だからこそ、家庭が頑張らないといけません)。

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最後に私が「つながり」をどう考えているかも一部を書いておこうと思います。

自分の中で特に結論が出ているわけでもないけれど、先人の思索と混じり合わせながらだらだらといろいろ考えています。中でも「利己的な遺伝子」は、衝撃とともに考えさせられる本でした(「1Q84」の中でもとりあげられていた本です)。


利己的な遺伝子増補新装版

科学の目を通して見ることによって、生きることがいったいどういうことなのかについて、また違った見え方がしてきます。遺伝子的につながりというものをみれば、こんな風にも考えられます・・・。

個人など、たったの100年を生きることも難しいのです。「人は死ぬ。」だから子孫を自分のコピーとして残すのでしょう。・・・コピーを残すと言っても、個人は、子の代で1/2、孫の代で1/4、ひ孫の代で1/8、

ひひ孫の代になれば1/16にまで薄まってしまいます。

身長160cmの人で、4代後(100+α年後ぐらい?)には

10cm分しか自分を残すことができません。

その上、誰もが子孫を残すことができるわけではありません。考えてみると実に寂しい話です。

その一方で、2人ずつの子供を残していくとしたら、ひひ孫は16人→ひひひ孫は32人→・・・→30代後には

10億人(2の30乗)を突破します。

この逆を考えてみるのも面白いです。一人に2人の親がいたことを考えれば30代前(1代30年としても900年前)には

10億人の先祖がいたとも言えます。

それは人口動態の事実に反するので、相当な先祖同士の結婚(重なり)があるということになります。つまり、けっこう私たちは先祖を共有しているということでしょう。私たちは遺伝子情報をばらばらに交換しながら薄まり、広がり、今までもつながってきた。そして、この先もつながっていく。少なくとも、こういう意味では、人はつながっているのでしょう。なんとかして、つなげていきたいです。






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Last updated  Nov 25, 2009 12:20:22 AM
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