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2010年08月08日
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カテゴリ:昭和初期

第二次世界大戦の時、ナチスから迫害を受けていた多くのユダヤ人を救ったという外交官。
杉原千畝(すぎはらちうね)という人です。

外務省からの指示にも従わず、ユダヤ難民を国外に亡命させるため、
ビザを発給し続けたという彼の行動は、勇気ある人道的行為であったとして、
今や、世界からも称賛されています。

テレビドラマ化されたこともあるので、ご存知の方も多いかも知れませんね。

このユダヤ難民へのビザ発給の話は、杉原がリトアニア領事であった時のこと。
そこで、今回は、彼のリトアニア領事時代の話を中心にして、
杉原千畝の生涯を振り返ってみたいと思います。



杉原千畝は、明治33年(1900年)、岐阜県の八百津町というところで生まれました。

彼の父は、千畝が医者になることを熱望していたようなのですが、
千畝は、これに反発。
結局、彼は、家出をして、独力で早稲田大学に入学します。

ところが、翌年には、外務省の官費留学生として中国のハルビン学院に入学、
早稲田を中退してしまいました。

ハルピン学院では、猛勉強してロシア語を身につけ、
大正13年には、書記生として外務省に採用されることになります。

昭和7年(1932年)に、満州国が出来ると、満州国外交部に配属され、
ここで、めきめきと頭角を現し、次長の地位まで務めました。
昭和10年(1935年)日本の外務省に復帰。
昭和12年(1937年)には、フィンランドへ公使代理として赴任。

そして、昭和14年(1939年)リトアニアの領事館へと転属。
領事代理という肩書きでしたが、実質、ここには外交官は彼しかおらず、
領事館は彼が取り仕切ることになります。
杉原千畝、39才の時のことです。

リトアニアでは、ソビエトの情報を出来るだけ集め、これを外務省に報告するということが、
ここでの、彼の主要な任務でありました。


ところで、
この時期のヨーロッパの状況について、ちょっと、お話しておきましょう。

杉原が、リトアニアに着任した年は、
ちょうど、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦の火ぶたが切られた年。

ヒットラー率いるナチス軍は、ポーランドに続き、
デンマーク・オランダ・ベルギー・フランスと、ヨーロッパの諸国を瞬く間に占領していきました。

また、一方、この時期、
ソビエトとドイツのと間には、不可侵条約が締結されていて、
ポーランドは両国で分割する、リトアニアを含むバルト3国はソビエトの支配下とする、
などという内容の取り決めが、独ソ両国の間で交わされていました。

そうした、情勢の中で、杉原千畝のユダヤ難民へのビザ発給が行われることになるのです。

・・・・・

昭和15年(1940年)7月。

リトアニアの日本領事館の前に、突如として、多くのユダヤ難民が押し寄せました。

ナチスの迫害から逃れるために、ポーランドからやってきたユダヤ人たちで、
ここへ来れば、日本を経由してアメリカに行く通過ビザがもらえると思い、
集まってきたのです。

日に日に、集まる人の数が増えてきて、
このままでは混乱が起こりかねないほどの状況になっていきます。

この事態に苦慮した杉原は、外務省に電報を打ち、この状況を報告するとともに、
集まってきたユダヤ人の中から代表を選んでもらい、まず、彼らの話を聞くことにしました。

領事館に通されたユダヤ人代表は、ナチスによる迫害の実態を杉原に語り、
日本を経由して、アメリカ大陸に逃れるしか手段がないことを訴えました。
外務省に判断を仰いでいるところなので、少し待って欲しい、と回答する杉原。

そして、その数日後、外務省からの回答が届きます。

その内容は、
「渡航先の国からの入国許可を持たないものに、ビザを出してはいけない」
と、いうもの。

しかし、現実には、もう、そういう状況ではなく、
リトアニアから引き上げてしまっている大使館も多く、時間的な猶予もありません。
ドイツと同盟を結んでいる日本政府としては、
ドイツと摩擦が起きるようなことは避けたいというのが、実のところ本音でありました。

杉原は、この対応に悩みます。
この際、難民などは無視して、早々に領事館を閉めてしまいさえすれば、
自分や家族も、そのまま平穏に暮らしていける・・・。

しかし、杉原には、目の前の難民たちを、
このまま放置しておくことは出来ませんでした。

そして、ついに杉原は、自分の判断、領事の権限で
彼らにビザの発行を行うことを決断します。

領事館の門まで出てきた杉原は、ユダヤ難民に向い
「皆さん方に、日本の通過ビザを発行することになりました。」
と、発表しました。

どよめきと、大きな歓声が湧き上がり、抱き合って喜ぶ人たち。

そして、この日から、領事館の入口に臨時のビザ発行所が作られ、
整理券が皆に配られ始めました。

「間違いなくビザは、発行します。皆さん、順番に並んでください。」

膨大なビザの発行枚数になるのですが、
杉原は、休むことなくビザの発行を続け、
その数、一日300枚のペースであったといいます。

そして、そうこうするうちに、
今度は、外務省から、領事館を退去するようにとする命令が届きました。
その指示に対しても、気に留めることなく、そのままビザの発行を続ける杉原。

しかし、詰め掛けてきている難民の数は
数千人にものぼっていたといわれ、杉原がいくら頑張ってビザを発行しても、
集まってくる難民の数は、なかなか減りません。

さらに、そのうちに、ビザの用紙を使い果たし、
全てを手書きで書かなくてはならなくなりました。

少しでも手間を省かないと、この調子では、全く間に合わない・・・。
そこで、杉原は、ビザに書き込んでいた、管理番号を記入するのをやめ、
また、発行手数料をもらうことも、やめてしまいました。

来る日も来る日も、ビザを書き続ける杉原。
しかし、さすがに、杉原も疲労の色が濃くなり、
体力も限界に近づいてきました。

それでも、まだ、多くの難民が、ビザの発行を待っている状態で、
疲れた身体に鞭打って、ビザの発行を続けます。

しかし、そうした中、ソビエト政府から、再度、退去命令が届き、
8月末までに、領事館を出て行くように通達されます。
日本の外務省からも、即刻、領事館を立ち退き、
すぐにベルリンに赴任せよ、という、強い口調の命令が届きます。

もはや、ここまで。
杉原は、領事館を閉鎖する準備を進め、
疲れた身体を少しでも癒すために、
数日、ホテルで宿泊することにしました。

ところが、このホテルにもユダヤ難民がやってくるのです。
もう荷物を、詰めて送ってしまっているので、
ビザを発行しようにも、領事印がありません。

そこで、杉原は領事の権限により特別許可証を発行し、
これを手渡すことで、ビザの代わりとすることにしました。

9月1日。
杉原の退去期限の日。

杉原は、国際列車に乗り込みベルリンに向います。
駅には、多くのユダヤ人たちが見送りに来ていました。

しかし、ここでもなお、ビザの発行を求めるユダヤ人の姿がありました。

杉原は、例えわずかでも彼らにビザを発行してあげたいと、
列車の窓からも、特別許可証を記入し続け、手渡していきます。

しかし、とうとう、出発時間となり、列車が動き始めました。

「許してください、皆さん。私には、もうこれ以上書くことは出来ません。
 皆さんのご無事を祈っています。」

そう言った杉原は、深々と頭を下げました。

「ありがとう スギハラ」
「私たちは、決してあなたを忘れない。」

後年の調査によれば、
この時に、杉原の発行したビザにより、救われたユダヤ人の数は、
なんと、6000人にも及んだと云われています。

・・・・・

やがて、戦局はさらに激しさを増し、昭和16年には、ついに日本も開戦。
太平洋戦争が始まります。

そうした中、杉原は、ベルリン-プラハ-ブカレストと、
ヨーロッパ各地の公使館を転々としていました。

そして、昭和20年(1945年)
ようやく、第二次世界大戦が終結。
杉原は、ソビエト軍に軟禁されながらも、シベリア経由で日本に戻ってきました。

帰国後の杉原は、外務省を退職。
これは、GHQによる行政機構縮小によるものということですが、
その一方で、杉原が独断でビザを発行したことに起因する解雇であったのではないか、
とも、云われています。

外務省退職後は、語学力を生かし、主に貿易関連の会社に勤めていました。


そして、それから、時は流れて、昭和43年(1968年)
杉原68才の時。

杉原のもとへ、イスラエル大使館から、突然、電話がかかってきました。
是非、大使館に来て欲しいとのこと。

大使館に行くと、一人の男が、
「これを覚えていますか?」と、
ボロボロになった紙切れを差し出しました。

なんと、それは、かつて、杉原が手書きで発行したビザです。

彼は、ニシェリという名の元ユダヤ難民で、
杉原の発行したビザにより、命からがらアメリカに渡航し、
その後も、このビザを宝物のように大切に持っていたということ。

そして、彼らは、戦後もずっと杉原の所在を探し続けていて、
やっと、杉原を見つけ出したのでした。

涙ながらに、再会を喜ぶニシェリ。
実に28年ぶりの再会でありました。

その翌年。
杉原は、今度は、イスラエル政府からの招待を受け、
首都のエルサレムへと向かいます。

そこで、杉原を迎えた人は、、、
「覚えていますか。
私は、あの時、ユダヤ人の代表として、領事館であなたと話をしました。」

バルハフティックという名の、この男は、
かつて、ユダヤ難民の代表でありましたが、
今では、イスラエルの宗教大臣という政府閣僚になっていたのです。

「エルサレムには、今、ユダヤ人を救った外国人を称えるための記念館が建てられています。」
バルハフティックは、そう言って、杉原をそこへ招待しました。

すると、そこには、杉原の事績が紹介されているとともに、
”記憶せよ 忘るるなかれ”という言葉が刻みこまれていました。

そうなのです。
この言葉の通り、ユダヤの人たちは、杉原のことを決して忘れることなく、彼を探し続け、
こうして、再会を果たしたのでした。

杉原千畝、昭和61年(1986年)に永眠。
享年86才。


その後、イスラエル以外にも、ポーランドから、そしてリトアニアからも
杉原に対する叙勲や顕彰が、色々な国から相次ぎました。

杉原が残した業績は、まさに、
国と国を超えた人道的意識から生まれたもの。

ユダヤ人はもちろんのこと、世界の国々からも、その功績が称えられているのです。






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最終更新日  2010年08月16日 06時55分53秒
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