カテゴリ:シリーズ京歩き
伏見区上鳥羽の浄善寺というお寺には、「恋塚」と呼ばれる石塔が残されています。 「恋塚」とは、何ともロマンチックな言葉の響き・・・。 この「恋塚」には、遠藤盛遠(後の文覚上人)と袈裟御前の恋物語が伝えられているのですが、 しかし、それは、そのロマンチックなネーミングとはうらはらに、 悲しくも、そして、残酷でさえある、恋のお話なのでありました。 今回は、この「恋塚」にまつわるお話について、まとめてみたいと思います。 ***** 平安時代の末、院の警護にあたる北面の武士に、遠藤盛遠という男がいました。 年若く血気盛んな、気性の激しい男でありましたが、ある日、一人の女性を見染めます。 その名は、袈裟御前。 やがて、盛遠は、その女性が実は自分のいとこであり、 しかも、今は、同僚である渡辺渡に嫁いでいるということを知ります。 永らく会わないうちに、こんなに美しい女性になって、それが、渡の妻になっているとは・・・。 盛遠の袈裟に対する恋慕の思いは、日に日に高まっていきます。 そうした中、やがて、盛遠は袈裟の家に乗り込んでいき、 袈裟の母に対して刀をつきつけ「渡と縁を切れ」と迫ったりするようにまでなっていきます。 盛遠からの強引な求愛に対し、思い悩む袈裟御前。 そして、悩んだ末に袈裟は、ついに、ある決断をします。 「今夜、寝静まった頃、寝所に押し入って、私の夫を殺してください。」 段取りをつけ、夫を寝かせておくようにしておきますから・・・。 ついに思いが通じたと、喜ぶ盛遠。 袈裟に教えられた通りに、渡の部屋に忍び込んで、ひと思いに刀を振り下ろし、その首をはねます。 しかし、その次の瞬間、盛遠は、自分がとんでもない過ちをおかしてしまったことに気づきました。 自分がはねたのは、なんと、渡ではなく、愛する袈裟の首。 そうです。袈裟は、母と夫を守るため、その身代りとして、渡の寝所に入っていたのでありました。 己の罪深さを思い知った盛遠は、強い悔悟の念におそわれ、 髪をまるめて、出家することとなりました。 ***** その後の盛遠は、文覚と名乗り、修行のため全国を行脚してまわりました。 やがて、都に戻った文覚は、当時荒廃していた神護寺や東寺などの 諸寺を次々に再興。 後白河法皇からも信頼されるほどの名僧となっていきます。 また、当時、伊豆で流罪生活を送っていた頼朝に対し、 挙兵を促したということでも、その名を歴史に残すことになりました。 「恋塚」のある浄善寺です。 この寺は、寿永元年(1182年)袈裟御前の菩提を弔うため 文覚上人により建立されたものと伝えられています。 実際に行ってみると、きれいに清められ整えられている、気持ちの良いお寺でありました。 袈裟御前の首を埋めたと伝えられている「恋塚」。 この五輪塔には、きっと、毎日花が手向けられているのでしょうね。 この悲しい物語に対し、多くの人が、これまで袈裟の供養を続けてきているようです。 文覚上人の供養の思いも、袈裟には通じているのでしょうか。 今も、浄善寺と「恋塚」は、何気ない住宅地の中に、ひっそりと佇んでいます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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