カテゴリ:シリーズ京歩き
そよ吹く風が心地よい。 保津川の渓谷に沿って縫うように走る、嵯峨野のトロッコ列車。 少し前のことになりますが、嵯峨野から亀岡までトロッコ列車の旅を楽しんできました。 始発の駅のホームは休日とあって、家族連れやカップルなどで人がいっぱい。 トロッコというだけあって、客車は木調のシンプルなつくりになっていて、 それをレトロな感じのディーゼル機関車が牽引していきます。 客車に乗り込み、いざ出発です。 ガタン、ゴトン 列車は、ゆるやかに進んでいきます。 眼下に広がるのは、保津峡の雄大な景色。 時間帯さえあえば、保津川急流下りの舟と遭遇することもあるのだそうです。 この保津川下りの舟というのは、海外でも広く知られているのだそうで、 特に、イギリス王室で人気があり、皇族方も幾度か訪れてこられているのだとか、 確かに絶景で、渓谷の美しさを満喫することができますね。 鉄橋を渡り、やがて、トロッコ保津峡駅に到着しました。 これと並行して走っているのが、JR山陰線なのですが、 もともとの山陰線というのは、今のトロッコ列車のルートを走っていたものであり、 平成元年、新しく線路が敷設され、山陰線の路線が移されたものなのでありました。 でも、この旧線をそのまま放置しておくのはもったいないということになり、 平成3年、ここがトロッコ観光列車の路線として生まれ変わったのでありました。 現在はトロッコ列車が走る線路。 この保津川沿いの鉄道を、最初に開通させたのは田中源太郎という人で、 明治32年のことでありました。 田中源太郎という人は、明治・大正期の京都財界を代表する大実業家で、 その設立にかかわった会社は、30を超えるといい、 現在の「京都銀行」「京都証券取引所」なども、彼が設立したものであります。 政治の世界にも進出し、衆議院議員を3期、貴族院議員も務めました。 そんな源太郎が興した事業のひとつが、京都~園部間を結ぶ鉄道の敷設。 「京都鉄道株式会社」という会社を立ち上げ、鉄道による地域振興を目指し、 建設に取り掛かっていきます。 断崖絶壁が続く保津峡に線路を通すのは、かなりの難工事だったようですが、 それでも、なんとか開業にこぎつけた源太郎。 しかし、それもつかの間、開業8年にして鉄道国有化法が成立して、 京都鉄道の路線は全て国に買収されてしまうことになります。 大正11年のこと。 田中源太郎は、国有化となった山陰線に乗車し、京都へと向かっていました。 ところが、この列車が鉄橋を通過したあたりで、突然、脱線します。 源太郎は、この事故のあおりで保津峡に転落。 コンパートメントから投げ出された源太郎は、帰らぬ人となってしまいました。 この大物実業家の突然の死については、 当時、様々な憶測が飛び交い、暗殺説などもあって、 その真相は、今も、謎に包まれたままです。 山あいを走るように、時には逆巻くようにして流れている保津川の急流。 往時の転落事故の事など、まるで素知らぬように、今も濤々と流れています。 保津峡をめぐるトロッコ列車の旅も、いよいよ終着です。 トロッコ亀岡駅に到着しました。 30分足らずの時間ではありましたが、 雄大な景色とトロッコ列車の旅を満喫することが出来ました。 トロッコ亀岡駅の待合いロビーには、 「トロッコ列車生みの親」として、田中源太郎の肖像画が掲げられています。 自らが建設した鉄道の事故により、命を落とすことになった田中源太郎。 彼の存在自体はあまり知られていなくとも、 その残した業績は、今も、色々なところで息づいています。 亀岡という町は、田中源太郎の出身地。 彼が築いた瀟洒な邸宅跡も残されています。 今でも、それが、料理旅館「楽々荘」として受け継がれていて、 亀岡の観光名所のひとつになっています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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