今日は母の17回忌の法事。平成5年2月9日に亡くなった。家事と農業と子育てにあけくれた母であった。父を追いかけるように逝ってしまった。親戚一同が集まってくれ、檀家寺の妙善寺で営まれた法要であった。この檀家寺は日蓮が滝の口の法難にあい命をたたれかけ、その後佐渡に流罪となったがその途中立ち寄ったと伝えられる歴史ある寺である。
法事とは、亡き人を縁に勤められることから"亡き人のため"に勤めるものと思っていたが違うらしい。「故人の霊魂(たましい)を慰めるためにお経を上げる」とか「法事を勤めることによってご先祖を安心させて上げる」といった認識の、いわゆる追善供養の意味合いではないという。
亡き人は如来さまのお救いによって、すでに浄土にいる。よって、亡き人のために善をふり向ける(追善)必要もなければ、またそんなことができる"りっぱな"私でもない。
法事というのは「仏法の行事」ということで、この仏法は、ほかでもない"私自身のため"のもの。すなわち、法事の場に参集した家族、縁者の一人ひとりが仏法を自分のこととして聞き味わってこそ、意義あるとのこと。亡き人を偲(しの)びつつ、この私が仏法を聞く行事-これが仏法の法事とのことだ。