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カテゴリ:旧東海道53次を歩く
『旧東海道を歩く』ブログ 目次 「土山宿問屋宅跡 左手奥に『天理教 碧東分教会』。 『土山宿本陣跡』は修復工事中。 表札には『土山』の文字が。本陣の初代から脈々と『土山家』が続いているのであろう。 『土山宿本陣跡』碑。 「土山宿本陣跡 土山宿は、東海道の基点である江戸日本橋より、百六里三十二町、終点京都三条大橋まで 十五里十七町余の位置にある。 土山宿本陣は、寛永十一年(1634)、三代将軍徳川家光が上洛の際設けられた。 土山氏文書の「本陣職之事」によってわかるように、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山喜左衛門を 初代としてこれを勤めた。 本陣は当時の大名・旗本・公家・勅使等が宿泊したもので、屋内には現在でも当時使用されて いたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。 明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁となり、土山宿にご宿泊されることも しばしばであった。なかでも明治元年九月、天皇幸行の際には、この本陣で誕生日を迎えられて、 第一回天長節が行われ、土山の住民に対し、神酒・鯣が下賜され、今なお土山の誇りとして 語りつがれている。 本陣は、明治維新で大名の保護を失い、明治三年(1870)宿駅制度の廃止に伴いなくなった。」 『土山宿本陣跡』前から街道を見る。 『土山宿本陣跡』の隣りにあった石碑は『哲学者井上圓了の漢詩』碑。 そしてその奥に『明治天皇聖蹟』碑。 『明治天皇聖蹟』碑。 『鈴鹿山西古駅亭秋風一夜鳳輿停 維新正是天長節恩賜酒肴今当馨 土山駅先帝行在所即吟 井上圓了道人』 「漢詩の読み 鈴鹿山の西に、古よりの駅亭あり。 秋風の一夜、鳳輿(ほうよ)停る。 維新の正に是、天長節なり。 恩賜の酒肴を今尚馨る。 土山駅先帝行在所即吟 井上圓了道人 解 説 この漢詩は、大正三年、佛教哲学者で有名なる井上圓了博士がたまたま、土山本陣跡に 来られた時、 第十代の本陣職であった土山盛美氏が、この本陣について説明された中に、 この本陣に明治天皇が明治元年九月二十二日の夜に一泊なされ、その日が偶然にも 天皇即位最初の誕生日に当たり、 次の日この本陣で祝賀式が挙行され、祝として土山の 住民全戸へ酒・肴を御下賜あった事を述べると、井上博士は非常に感激して、 即座に この漢詩を書置かれたものである。」 左手に『土山宿 旅篭 俵屋跡』碑。 『旧本陣➡』 『土山宿旅籠 近江屋跡』の門。 この辺りは土山本陣や問屋宅がある土山宿の中心部。 旧東海道沿いは宿場町らしい往時の面影を留める景観。 『土山宿旅籠 近江屋跡』碑。 『土山宿旅籠 山形屋跡』 『土山宿 旅籠 山形屋跡』。 左手の空き地には何屋があったのであろうか。 右手にも空き地が。 左手に『土山宿 旅籠 山田屋跡』碑。 左手に『土山中央公民館』。 『土山中央公民館』は扁額のごとし。 『林羅山の漢詩碑』。 『林羅山の漢詩と解読と解説』。 「(解読) (意味) (解説) 公民館の中の展示品を楽しむ。 『趣味の焼物』。 『盆栽』。 土山出身の乗物絵本作家『安井小弥太』の作品が展示されていた。 折り紙作品の数々。 お雛様。 『安井小弥太』の紹介も。 美しい青いバラの花は和紙で。 『ようこそ 土山宿へ』。 『歌川広重 東海道五十三次之内 土山 春之雨 』や私の手にもあった『土山宿 絵地図』が。 土山公民館玄関前にある石柱は『宿場のけごみ』と。 「けごみ」とは「蹴込み」のことで、足を止める所・足を休める所という意味。 よって「宿場のけごみ」は、宿場の中の足置場(足を休める所)という意味で 「どうぞ、ここで一服していってください」という意味の歓迎の石柱であるのだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.04.26 06:36:58
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