7353853 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Category

Freepage List

Comments

Favorite Blog

オオキンケイギクと… New! 隠居人はせじぃさん

日本100名城山中城の… New! オジン0523さん

バイクのオイル交換 noahnoahnoahさん

【薔薇 ピエール-ド・ロンサ… Gママさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Headline News

Archives

Calendar

2020.06.03
XML
一昨日、漸く我が家にも『特別定額給付金に関するお知らせ』が送られて来ました。



「特別定額給付金のご案内
・給付対象者は令和2年4月27日(基準日)において、我がF市の住民基本台帳に
   記載されている方。
・受給者は給付対象者の世帯主。
・給付額は給付対象者1人につき10万円。
・申請方法
 1)送付されて来た「特別定額給付金申請書」の郵送申請
   本人確認書類(マイナンバーカード、運転免許証など)のコピー
   振込先口座の通帳やキャッシュカードのコピー(金融機関名、口座番号、口座名義人が
   わかるもの)を同封する、
 2)オンライン申請(マイナンバーカードを持っている方のみ)
   マイポータル上で特別定額給付金の申請画面から、世帯主及び世帯員の情報並びに
   振込口座情報を入力した上で、振込先口座情報の確認書類をアップロードする。
・申請締切日 令和2年8月31日
   


「特別定額給付金申請書」



給付対象者名の欄の最後に、『希望されない方は「❌」を記入して下さい』と。
無記入の場合や「◯」、「レ」などを記入された場合は全て振込対象とみなします。
と我がF市は非常に丁寧・親切に表現されています。
しかし、手続きで、誤って受給を辞退してしまうケースが懸念されているのだと。
郵送申請書の記入が分かりにくいため、勘違いをして「受給を希望しない」の欄にチェックして
しまう人が少なくないとして、自治体が注意を呼びかけているとテレビのニュースで。
市民が誤って受給を辞退することがないよう、国の標準様式からチェック欄を
外した市もあるのだとも。



「本人確認書類のコピー」の例の説明書。



「振込口座が確認できる書類のコピー」の例の説明書。



「特別定額給付金 Q&A」



「新型コロナウイルス感染症に関わる相談窓口」
そして生活支援:もらえるお金や借りられるお金、支払いの猶予などの一覧表も。



「教育・子育て支援」
「経済支援:事業者が対象の給付金、協力金、融資など」説明書。



そして「記入例」も。



これらの書類は、国の原案(標準様式)に基づき各自治体で独自に作成したものらしい。
そういう意味で我がF市は市民に優しく、記入しやすい配慮がなされていると感じたのであった。

私は1週間以上前にネットで既に申請済みであるが、指定口座に振り込まれるのは、いったい
いつになるのであろうか?
友人の中には既に振込を確認した方もいるのであるが・・・・。

-------------------------------------------------------------------------------------------------------

『旧東海道を歩く』ブログ 目次

京阪電鉄京津線の踏切を渡ると右手に『逢坂』碑そして『蓮如上人旧跡碑』が門前にある
浄土真宗本願寺派の『逢坂山 安養寺』があった。



「逢坂山 安養寺
本堂には、重要文化財阿弥陀如来坐像が安置されている。また、同寺は、蓮如上人の旧跡で、
上人「身代わり名号石」が残っている。なお、境内の「立聞観音」は古く東海道名所図会等に
記載されて有名である。」



『蓮如上人舊跡』碑。
「圓満院宮御抱所 三井寺南別所 蓮如上人舊跡」と刻まれているようであった。
円満院は三井寺内にある門跡寺院。地理的に三井寺の南にあるので南別所もわかるが、
そこに浄蓮如上人旧跡が重なるのは?。



『山門』。



『安養寺 本堂』。
本尊の阿弥陀如来坐像(行基、作)は国指定重要文化財に指定されていると。
蓮如が身代わりに彫ったという蓮如上人や蓮如が身を隠したと伝わる石などがある。



『観音堂』。



『安養寺』の手前隣りにあったのが『うなぎの養殖場』?。
うなぎの生簀(いけす)があったので『仲卸』屋であろうか。



この先に老舗 「かねよ」 という 「うなぎ屋」 があったがそこに卸しているのであろうか。



『安養寺』を後にし更に坂を上って行った。



右手にあったのが『大谷加圧ポンプ場』。
大津市・山上浄水場の水道水配水設備であろう。
45m3/hr✕85m✕18.5kwのポンプで送水していると。
逢坂山の上部まで送水しているのであろう。



前方に『名神高速道路』の高架橋の姿が。



そして右手にあったのが『旧逢坂山ずい道東口』案内板。
この隧道は、日本人の技術者・技能者が主体となって設計・施工を行った我が国初の
山岳隧道である。明治11年(1878)10月東口から、また同年12月西口から、それぞれ掘削を
進めて約1年8か月の歳月を費やして、明治13年(1880)6月に竣工したもの。



左が明治13年(1880)建造の『逢坂山隧道東口』で鉄道記念物に指定されている。
現存する最古の鉄道トンネルで石と煉瓦で造られている。
右は明治31年(1898)の複線化工事により増設された上り線の隧道。
両隧道とも大正10年(1921)の線路変更によって廃線となった。
現在は京都大学防災研究所付属地震予知センターの逢坂山観測所として使用されている。
トンネルから出る清水は大津市の水道水として活用されているそうだ。



「旧逢坂山ずい道東口
この隧道は、日本人の技術者、技能者が主体となって設計・施工を行った
我が国初の山岳隧道です。
明治11年(1878)10月5日東口から、また同年12月5日西口からそれぞれ掘削を始め、
約1年8ヶ月の歳月を費やして明治13年(1880)6月28日に竣工したもので、
大正10年(1921)8月1日、線路変更により廃線となるまで、東海道本線の下り線として
使用されていたものです。
全長664.8mに及ぶこの隧道は、当時の工部省(「明治3年(1870)に鉄道・鉱山・工作・
灯台・電信・造船など、殖産興業のための官営事業をつかさどるために創設された中央官庁。
85年廃止。」)の直轄であった生野銀山の労働者が伝統的なノミやツルハシを主体とした
手掘りで掘り抜いたとされています。
こうして完成した逢坂山隧道は、鉄道の歴史に残る記念すべきもので、日本の技術史の上でも
大きな意義を持つものです。
坑門上部にある「楽成頼功」の扁額は、竣工を記念して時の太政大臣・三条実美の揮毫に
よるもので、「落成」は「落盤」に通じる忌み言葉であることから、縁起の良い「楽成」の字を
充てました。」



『旧逢坂山ずい道東口』



トンネルの入口上部には、開通当時太政大臣であった三条実美の筆による
「楽成頼功」の扁額が掲げられていたのでネットから転載。
落成が「楽成」とあるのは、「落」は不吉としてこの字をあて、「功」は「工」の意味とされる。「明治庚辰」は開通した明治13年(1880)をあらわす。


       【http://nostalghia.asablo.jp/blog/cat/otsucity/?offset=34】より

『隧道内部』はこの先で封鎖されていた。



『レンガ作りの天井』。



『近代化産業遺産』の標示プレート。



『京都大学防災研究所 附属地震予知研究センター 逢坂山観測所』の案内板。
当観測所は,1970年に地震予知研究を目的として設立 された。
現在,長さ670mの主坑道(旧逢坂山隧道) とそれに交差する2本の分岐坑道
(観測所設立時に掘削) 内に各種の計測装置を設置して,主として地殻変動の観測を
行っていると。
案内板は至急、交換をすべき。



『逢坂一丁目』交差点を通過。
西近江路(161号線)は、国道1号線と合流した。
西近江路には歩道が無く、1号線の歩道に渡りたいのであったが、車が多くかつ
スピードが出ているために、渡るのに苦労したのであった。



何とか歩道にたどり着き前に進む。
左手に『京阪京津線』の電車が。



左手の山の斜面には墓石群が。



日本橋から485kmの表示であろう。
下の9の意味は?



そしてこちらは見慣れている国道1号線 日本橋から486km表示板。



そして二つの『名神高速道路上下線高架橋』下を通過。



形 式:上路式2ヒンジアーチ橋
橋 長:62.2 m
最大支間長:54 m
完 成:1991年
所在地:滋賀県大津市逢坂1丁目
管理者:日本道路公団
設 計:大和設計・横河工事
施 工:横河工事
特 徴:本橋は名神高速道路完成後25年余り経過し、当初はRC床版の損傷が生じ、
    その後補剛桁、縦桁・垂直材等の鋼部材に亀裂などの損傷が発生し抜本的な対策が
    必要となっていました。改良工はアーチ主構を除くすべての部材を交換するとともに
    橋の剛性を高めるため斜材・対傾構を追加してスパンドルブレースアーチとしました。
    床版はアーチの負担軽減等を考慮して鋼床版としました。



線路沿いの国道1号線、大津市逢坂1丁目を進む。



名神高速道路の高架下を過ぎると右手に『関蝉丸神社上社』があった。



社殿は国道1号線に面した反対側の斜面にあったが、ここは横断歩道があり、
押しボタン式信号も設置されていたのであった。



『関蝉丸神社上社』は、社伝によれば平安時代、嵯峨天皇(809-23)のときに
猿田彦・豊玉姫をまつり、円融天皇(969-984)の代に蝉丸を合祀したと云われている。



『郷社 関蝉丸神社上社』社標。



両部鳥居が壊れ簡素な鳥居になっているのだと。



喜撰法師 和歌 「わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり」
               訳  : 私の庵は都の巽(たつみ)1 都を離れた山の中で、このように住んでいるのだ。
                        その山を、俗世を「憂」しとて入った、「う」じ山と世の人々は
                        呼んでいるそうな。
紫式部  和歌 「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな」
               訳   :せっかく久しぶりに逢えたのに、それが貴女だと分かるかどうかのわずかな間に
          あわただしく帰ってしまわれた。まるで雲間にさっと隠れてしまう
        夜半の月のように。



『紅梅』であろうか。それとも『花桃』?



急傾斜の参道石段の先に『拝殿』が。


「郷社關蝉丸神社由緒略歴
一 當神社は嵯峨天皇御宇弘仁十三年(822)三月近江守小野朝臣岑守 逢坂山の山上山下の
  ニ所分析して坂神稱奉 是 當富社鎮座起原なり
  上社祭  神猿田彦命        相殿蝉丸靈 所在地大津市上片原町
  下社祭神 豊玉姫命或道反大神と云ふ 相殿蝉丸靈 所在地大津市清水町
一 文徳天皇御宇天安元年(857)四月に改めて逢阪の関を闘設し、當社関所の鎮護神と
  崇敬し給い坂神を関明神と稱し奉る
一 圓融天嘔御宇天禄二年(971)五月論旨を給い、當神社を音曲藝道祖神とせられる。
  爾来明治維新迄斯道専念の人士へ希望に任せ免許状を下附せらる
一 朱雀天皇御宇天慶六年(943)九月詔を奉し、蝉丸霊を二所に合祈し仍て關大明神蝉丸宮
  と稱し奉る
一 正徳三年(1713)十二月二日ニ品覺尊観王法幣御參拜あらせらる
一 享保十七年(1732)四月二十五日実相院宮義周観王法幣御参拝あらせらる
一 文政六年(1823)季冬正二位平朝臣時章卿は音曲隆昌祈願の皐賽として自筆の法華経を
  奉納せらる
一 文政九年(1826)八月平松前大納言より和琴(銘瀧水)一面に譜若菜巻を添えて奉納し
  音曲隆昌を祈願せらる
一 當神社祭神は陸海路を守護し給ふとて旅行の安全を祈り、殊には音曲藝道祖神として
  一般人士の信仰厚く亦髢の祖 神なるとて人毛製造組合亦女髪結等の信仰多し
一 祭日往古は九月二十四日、今は五月二十四日に氏子十二ヶ町ぺ御輿の渡御あり
一 大谷町蝉丸神社は當神社の分社なり、或る年の神事に神奥は逢坂山の峠限にて大谷町三ヶ町は
  氏子中より離して大谷御林山の一部を借用しささやかなる社殿を造営して萬治(万治)三年
  當神社の御分靈を奉戴して三ヶ町(上大谷 中大谷 下大谷)氏神とす 
  蝉丸社の三所にあるは之が爲なり」



これも百人一首(右から)
清少納言  「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」
  訳:  夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人をだまそうとしても、
      函谷関(かんこくかん)ならともかく、この逢坂の関は決して許しませんよ。
      (だまそうとしても、決して逢いませんよ)
蝉丸      「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」
  訳 :   これがあの、京から出て行く人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、
                皆ここで別れ、そしてここで出会うと言う有名な逢坂の関なのだなあ。
三条右大臣 「名にし負(お)はば逢坂山(あふさかやま)のさねかづら 人に知られで
      くるよしもがな」
     訳  :     恋しい人に逢える「逢坂山」、一緒にひと夜を過ごせる「小寝葛(さねかずら)」
                 その名前にそむかないならば、逢坂山のさねかずらをたぐり寄せるように、
                  誰にも知られずあなたを連れ出す方法があればいいのに。



『逢坂山』の様々な出典からの開設、近江百人一首の『逢坂山』を詠んだ句一覧
4.音羽山   音羽山今朝越え来ればほととぎす梢はるかにいまぞ鴫ぐなる
5.音羽山   音羽山さやかに見する白雪を明けぬと告ぐる鳥の声かな
6.逢坂山    吾妹子に逢坂山を越えて来て泣きつつ居れど逢ふよしもなし
7.逢坂山   逢坂のゆふつけ鳥にあらぱこそ君が往き来を泣く泣くも見め
8.逢坂山   逢坂の木の下露に濡れしよりわが衣手は今も乾かず
9.逢坂の関    逢坂の関の岩かどふみならし山立ち出づるきりはらの駒
10.関の清水    君が代に逢坂山の石清水木隠れたりと思ひけるかな
11.走井          走井の筧の水の涼しさに越えもやられず逢坂の関
12.大津          わが命し真幸くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白波
そして『月心寺』案内。



伊勢参宮名所図会より「走井」一ノ十六(株式会社井筒八ッ橋本舗 所蔵)



『牛車を助けた峠道の車石』案内。
【江戸時代のレール】
江戸時代、逢坂山の峠道には「車石」というものが敷かれていました。
花崗岩に車の轍(車輪を通すための溝)を掘り、二列に並べた車石が、
大津から京都の三条にかけての約3里(12キロ)に敷き連ねられ、
荷車が峠を越える手助けとなりました。
▲かつて逢坂山の峠道に敷かれていた車石。石に車輪を通すための溝を掘り、
それを敷き連ねて荷車が峠を越える助けとしました。西洋のレールと逆の発想がおもしろい。
▲奥に牛車が通っており、その通り道だけ一段掘り下げられているのが分かります。
この頃にはすでに通行の安全を図るため、歩道と車道が区別されていたようです。
【滋賀から京都へ】
鉄道が引かれるまで琵琶湖は、北海、北陸からの海産物や米等を京都へ運ぶ重要な水運でした。
それら多くの物資は、大津港から馬車、牛車により逢坂山、九条山を越えて京都へ運ばれて
行きました。
しかしながら逢坂山は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所でした。
そこで、文化2年(1805)京都の心学者脇坂義堂が一万両の工費を投じて工事にあたったもので、
これによって牛車などによる荷物の運搬が円滑に進むようになったのです。
【工夫を凝らした一方通行】
道は、歩道と車道に分けられていて、歩道は車道よりも高くしてあり、通行の安全を図るため、
また、車の通行の邪魔にならない様に配慮してあったようです。また、車石は単線の為、
午前は京都行き、午後は大津行きと、時間による一方通行になっていました。
【歌人も詠んだ名水】
京の都と近江を分かつ逢坂山。その逢坂越えの大津追分には、清らかな水が勢いよく湧き出す
井戸があり、古来より「走井(はしりい)」と呼ばれてきました。枯れることのない清浄な
泉として平安時代から名高く、大宮人たちが歌に詠んでいます。
「走井の程を知らばや逢坂の関ひきこゆる夕かげの駒   元輔」
「走井の 筧の水の涼しさに 越えもやられず 逢坂の関   清輔」
【走井と走井茶屋は、いま】
走井は下の大谷町にあり、石を畳みて一小の円池とす。其の水甚だ清涼にして、冷気凛々たり。
今は茶店の庭とし、旅人憩いの便とす。茶店の主、築山泉水を設け、且つ薬を売る。
誠に此の水の如きは、清うしてなめらかなり。右より名を得しもことわりかな、湧き出づる水の
勢走井の名もうべなり。枕草子に"走井は逢坂なるがおかし"と」(『近江与地志略』1734)



蝉丸 「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」​解説文​👈リンク。
現代語訳 : これがあの、京から出て行く人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、
               皆ここで別れ、そしてここで出会うと言う有名な逢坂の関なのだなあ。



清少納言  「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」
解説文👈リンク​。
現代語訳:夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人をだまそうとしても、
     函谷関(かんこくかん)ならともかく、この逢坂の関は決して許しませんよ。
     (だまそうとしても、決して逢いませんよ)



三条右大臣 「名にし負(お)はば逢坂山(あふさかやま)のさねかづら 人に知られで
         くるよしもがな」​解説文​👈リンク。
現代語訳:恋しい人に逢える「逢坂山」、一緒にひと夜を過ごせる「小寝葛(さねかずら)」
     その名前にそむかないならば、逢坂山のさねかずらをたぐり寄せるように、誰にも
     知られずあなたを連れ出す方法があればいいのに。



『逢坂山、逢坂の関 あれこれ』​解説文👈リンク​。



『和歌に詠まれた逢坂の関』​解説文​👈リンク。
逢坂山とは京から大津(滋賀)に向かう途中にある標高325mの小高い峠である。
山の高さはそれほどではないが、勾配がきついため昔から難所として有名で、さらに都と東国、
北国を結ぶ北陸道、東海道、東山道(後に中山道などに再編)が交わる交通の要所でもあり、
京都防衛のため逢坂の関がおかれていた。不破関や鈴鹿の関とともに天下の3関と称されている。
この逢坂山は名前からして大阪の近くにあると勘違いされやすい。しかし平安時代から度々
「人に逢うと人通さぬ峻険なる山の二面性」から和歌にもよく読まれている。
百人一首に記載されている蝉丸の「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも
逢坂の関」とか清少納言の「夜を込めて 鶏のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ」や、
紀貫之は「逢坂の 関の清水に かげ見えて 今やひくらん 望月の駒」などと名だたる歌人が
逢坂山を読んでいる。
清少納言は「枕草子」の作者としてあまりにも有名だが、一条天皇の時代、正暦4年(993年)に
私的な女房として中宮定子に仕えた。博学で才気煥発な彼女は、主君定子の恩寵を被った
ばかりでなく、殿上人と才気ある受け答えをして宮廷社会に溶け込んでいた。
そんな折に関係があった男性の一人が藤原行成で、彼は一条天皇の蔵人頭として抜擢され、
天皇と執政の藤原道長の両方から信任され、書がうまく三蹟の一人して数えられている。
清少納言の百人一首の歌は彼への歌で中国の孟嘗君の故事に基づいている。秦の昭王に命を
狙われた孟嘗君は、秦国から脱すべく、夜間に函谷関に至った。しかし関は、鶏の声が朝を告げる
まで開かない取り決めになっていた。そこで孟嘗君は、食客の一人に鶏の鳴き真似をさせ、
函谷関を突破したという。「史記」に載っている話。
「夜をこめて鶏のそら音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」
「嘘の鶏の鳴き声などでは、私の恋の関は開きませんよ。しっかりした関守がいますからね」と、
強く突っぱねた歌。
それに対して行成の返歌は
「逢坂は人越えやすき関なれば鶏鳴かぬにもあけて待つとか」
「逢坂の関は誰でも越えやすい関で、いつも開け放って待っているのだと聞きますが」と
ひどい返歌に清少納言は怒ったとか。
一方、蝉丸は醍醐天皇の第4皇子との説があるが定かではない。蝉丸は生まれつき盲目で琵琶の
名手として有名で琵琶の名器、無名を愛用し、逢坂の関に庵を結んだ。彼にいつわる話は色々と
取り上げられている。
平家物語の「海道下」には一の谷の戦いに敗れ生捕りになった平重衡(たいらの しげひら)が、
京都から鎌倉へ護送される場面が描かれている。
「四宮河原になりぬれば、ここは延喜第4皇子蝉丸の関の嵐に心をすます、琵琶を弾き給いしに、
博雅の三位と言いし人、風の吹く日も吹かぬ日も、雨のふる夜も降らぬ夜も、三年があいだ、
歩みを運び、たち聞きて、彼の三曲をつたえけん わら屋のとこのいにしえも、おもいやられて
あわれ也。逢坂山踏み越えて、瀬田の唐橋駒もとどろにふみならし、——」。と書いてある。
管弦の名人であった源博雅が、逢坂の蝉丸のもとに三年間通いつづけて遂に琵琶の秘曲「流泉」
「啄木」を伝授されたという伝説が重衡の鎌倉への護送という悲運の場面をもり立てる様に
引用され、益々哀れさを掻き立てられる。
今や、逢坂山は京都と大津を結ぶ国道1号線として昔の面影はありませんが、それでも狭い谷間の
道を京阪電車が車がひしめき並行して走っています。その京阪電車の小さな無人駅「大谷駅」の
すぐそばに蝉丸神社や逢坂の関跡がある。



『蝉丸本宮』。
参拝者は全く無くて、社務所も無人。実に静か。



『関蝉丸神社上社本殿』の内陣。



更に鏡にズームしたが・・・・。



『郷社關蝉丸神社由緒略歴』がここにも、そして様々なスナップ写真が。



関蝉丸神社 上社・下社『御朱印』案内板。



                              ・・・​もどる​・・・

                  ・・・​つづく​・・・






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020.06.03 15:01:14
コメント(3) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.