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カテゴリ:海老名市歴史散歩
【海老名市歴史散歩】 目次
「海老名の大ケヤキ」の脇道を入り進むと50mほどで「国分寺」への入口の石段が現れた。 ![]() 寺号標石「高野山真言宗 國分寺」。 海老名市国分南1丁目25−38。 ![]() 掲示板には「ありがとうの一言が幸せの扉を開く」と。 ![]() 「自然と歴史のさんぽみち」案内板。 ここ「国分寺」の下には、これから訪ねる多くの旧跡の名前が並んでいた。 ![]() 石段の入口左に「郷土かるた」の擬木柱があった。 ![]() 「る」、「瑠璃光の 如来あらたか 薬師堂」。 ![]() 境内に向かって石段を上って行った。 ![]() 歴史を感じさせる石塔。 ![]() この碑は? ![]() 左に折れると正面に「本堂」と「回向柱」が見えた。 ![]() 本堂の手前、右側の光景。 ![]() 「尼の泣き水」と言われる「如意輪観音」と尼が祀られている東屋風の御堂。 常香炉には「輪宝紋」の如き紋があったが・・・。 ![]() 「尼の泣き水」は、漁師と恋に落ちた国分尼寺の尼僧が、国分寺のまぶしい輝きが元で付近の 川魚が逃げてしまうとの訴えに、国分寺に火を付けてしまい、刑に処せられてしまいます。 その後、不思議なことに、その場所から一滴二滴と湧き水が流れ出し、村人は尼さんが罪を わびて流している涙だと云って、その湧き水を「尼の泣き水」と呼んだと云われています。 ![]() 「如意輪観音」。 ![]() 「如意輪観音」のお顔に近づいて。 ![]() 「尼の泣き水 供養塔」 ![]() こちらは祈りの姿が。 ![]() 右手には「郷土かるた 「わ」」の 「若き尼の 恋物語尼の 泣水(なきみず)」。 ![]() その左には「六地蔵」。 ![]() 「六地蔵」を正面から。 ![]() 正面に見える鎌倉時代に作られた「梵鐘」は、国の重要文化財に指定されている。 ![]() 「郷土かるた「つ」」 「釣鐘は 国分季頼(こくぶすえより)の 銘残す」。 ![]() 「梵鐘 国指定重要文化財 国分寺建立の頃薬師堂もこの丘陵の上に設けられ、のち火災等の災害により、この地に移転された のは、室町時代であったろうといわれています。 鎌倉時代の末頃、国分に居館を構えていました海老名氏の一族国分季頼が當時の名工物部國光 (もののべのくにみつ)に鋳造させ正應五年(一ニ九ニ年 七〇ニ年前)国分寺国分尼寺が薬師堂に 移されていた時寄進されたのが、この鐘であり大正十二年八月重要文化財として國の指定を受け ました。尚、鋳工物部國光は鎌倉円覚寺の鐘(国宝)をも鋳造した人であり、この鐘楼は 昭和五十一年三月に完成したものであります。」 ![]() コンクリート製の鐘楼。 ![]() 国の重要文化財の「梵鐘」。 海老名氏の一族国分季頼が當時の名工物部國光(もののべのくにみつ)に鋳造させ 正應五年(一ニ九ニ年 七〇ニ年前)国分寺国分尼寺が薬師堂に移されていた時 寄進されたのが、この鐘。 ![]() 国分寺が徳川幕府から朱印状を賜っていたことが関係しているのか? 朱印状と共に葵紋の使用許可が出されていた? ![]() 「本堂」を見上げて。 山号は東光山。院号は醫王院。本尊は薬師如来。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、 相模国国分僧寺(「金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)の後継寺院にあたる。 ![]() 扁額は「国分寺」。 聖武天皇の発願によって建立された国分寺の1つで、奈良時代の8世紀中期の創建とされる。 10世紀には衰えたが、鎌倉時代に入って一旦修復されたと見られる。 しかし室町時代から戦国時代にかけて再び衰微し、安土桃山時代から江戸時代にかけ、 ようやく再興された。そして幕末から明治初年にかけて三たび衰えたが、明治時代に復興し 現在に至っている と。 ![]() 寺務所であろうか。 ![]() そして境内の裏にあった「相輪(そうりん)」。 なぜ「相輪」のみがここに?? ![]() そして「相模国分寺」を後にして「相模国分寺」前の道を南下し厚木街道の跨道橋を渡る。 ![]() 海老名駅方面を見る。 ![]() 南に向かって細い坂道を上っていくと道端にあった地蔵様。 ![]() 「正一位稲荷大明神」 海老名市中央3丁目11。 ![]() 県道407号線に戻り進む。ここが「しんえむ坂」と呼ばれていた坂のようだ。 このあたりの地主だった金子新右衛門という人の名を宛てて「新右衛門坂」と呼んだのが、 いつのころからかこれが訛って、「新(しん)(右)衛(え)む坂」となったらしい。 海老名市国分南1丁目22。 ![]() 厚木街道に出る。 ![]() 左手に折れ、坂道を上って行く。この坂が「音坂」。 「国分坂下」交差点から海老名小学校の北西端までの坂。 ![]() 歩道橋の階段下にあった「音坂」案内柱。 「この坂道付近に車井戸があり、朝夕それとなく水を汲む音や油の切れた車の音が、 竹林を通して良く聞こえる坂だから「音坂」の名が生まれたと伝えられています。」 ![]() この付近に「稲荷社」があるはずであったが、この日にはマンションに変わっていた。 ![]() そして再び「相模国分寺」前を通過。 ![]() そして次に訪ねたのが「薬師堂跡(旧国分寺)」であったが。草むらのみであった。 「薬師堂跡(旧国分寺)」は上の台廃寺とも呼ばれ上の台廃寺は、国分寺跡の南東約150メートル、 現在の相模国分寺の裏手にあたる丘陵地にあった寺院跡。 近年の開発などで本格的な発掘調査が行われることなく失われてしまった遺跡であるが、 わずかに瓦などの遺物が残されている。 1963年にわずかに行われた調査などから、相模国分寺の塔跡と同じような礎石跡があったことが わかっており、かなりの規模の寺院があったのではないかと推定されている。 そのため上の台廃寺は、878年の地震とそれに伴う火災後、相模国分寺が再建されたものと の説もある。 上の台廃寺のあった場所には、かつて薬師堂と呼ばれる建物があったと言われている。 薬師堂は戦火や災害によって失われることなく古代のままの建物が残っていたと伝えられており、 多くの貴重な寺宝、例えば聖武天皇の宸筆との伝承のあった「金光明四天王護国之寺」と書かれた 額が遺されていたといわれている。薬師堂はやがて現在の国分寺がある場所に移築され、現在の 国分寺の基となったとされるが、1910年の火災によって焼失した とウィキペディアより。 ![]() 「薬師堂跡(旧国分寺)」の裏には、墓地が拡がっていた。 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.05.18 18:49:18
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