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カテゴリ:茅ヶ崎市歴史散歩
【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次
次に「長善寺」の隣・北側にあった「本社宮」を訪ねた。 ![]() 石鳥居。 ![]() 石造りの扁額「本社宮」。 ![]() 鳥居脇の右手に石造物が二体。双体道祖神と道祖神。 ![]() 右側道祖神は裏面に「旹天保九戊戌年正月吉日」とあり、1838年の建立。 「旹」は「時」の異体字であると先生から。 およそ180年前。「矢畑邑 地所永代寄附 熊澤傳兵衛」と刻まれていた。 ![]() こちらは「双体道祖神」。 ![]() 「本社宮の由緒由来」。 ![]() 「本社宮の由緒由来 長元三年(1030) 源頼義は勅命により東征(下総の乱)の途次、当村の南、鎌倉街道に接した 佐塚大明神の丘に、源家の守護神石清水八幡宮(誉田別命)を勧請、関東での守護神として 懐島八幡宮を創建、戦勝を祈願した。 天喜三年(1055) 鎮守府将軍頼義は、長子八幡太郎義家(十三才)と安部一族の乱(前九年の役)に 向かう途次、再度懐島八幡宮に戦勝を祈願し、乱を平定したのを機会に神恩に報いて康平六年 (1063) 懐島八幡宮を鎌倉に勧請、鶴岡八幡宮を創建した。(乱橋の元八幡) 応徳三年(1085) 鎮守府将軍義家は、清原一族の乱(後三年の役)に懐島八幡宮に重ねて戦勝を 祈願し、寛治元年(1087)平定した。 寛治三年(1089) 義家は度重なる神恩に感謝の意をこめて、広大なる神域を隣村浜之郷に設け、 鶴嶺八幡宮を創建し、以来太子免の懐島八幡宮は、本社宮と改称され、当村の鎮守となり、 霊験灼(あらた)かなる神として崇敬されて来た。 殊に享保二年(1717)よりの祭典は氏子総出で、超大幟を立てるなど盛大に行なわれて来たが、 天保年間に現在地の南隣りに遷座して参拝と管理を便にし、昭和二年(1927)現在地に再遷座し たものである。」 ![]() 先代の石鳥居の姿であろうか。 ![]() 境内には「矢畑自治会館」があった。 ![]() 「拝殿」。 祭神:誉田別命(ほむだわけのみこと(応神天皇)) ![]() 狛犬(右)。 ![]() 狛犬(左)。 ![]() 「慰霊碑」。 矢畑地区出身者の大東亜戦争戦没者の慰霊碑。英霊15柱が合祀されている。 地元自治会によって昭和41年9月5日に建立された。 碑裏面に英霊名、戦没年月日、戦没地及び享年が刻まれている。 碑高230㎝、幅122㎝、厚さ20㎝、台石60㎝、基壇75㎝。 ![]() 近づいて。 正面: 「慰霊碑 鶴嶺小学校長二宮忠義書」 ![]() 裏面には 「建碑の言葉 大東亜戦争に際し戦没せられたる諸勇士の霊魂を永遠に慰めんがため自治会員の総意により 茲に慰霊碑を建立して其の冥福を祈りその氏名を永く後の世に傳へんとす 昭和四十一年九月五日 矢畑自治会 昭和一七、七、一二 支那 久保田年春 二四 仝一八、一二、二七 仝 高橋秀夫 三四 仝一九、八、二〇 グアム島 熊沢榮次 一九 仝一九、八、三一 ビルマ 三橋喜作 二六 仝一九、一〇、二六 南方洋上 小川清 二七 仝一九、一一、二三 比島 永野覺次 二六 仝二〇、四、一 仝 石黒春吉 三二 仝二〇、四、一二 沖縄 岩壁金造 三六 仝二〇、四、二四 比島 熊沢藤雄 三四 仝二〇、四、三〇 仝 水野次郎 二四 仝二〇、五、二五 仝 牧野隆 二八 仝二〇、六、二〇 沖縄 櫻井國雄 三二 仝二〇、六、二〇 比島 兵藤二郎 三五 仝二〇、八、一 ビルマ 山口武 二六 仝二〇、八、四 ガダルカナル 小沢日米雄 三八」 基壇銘板: 「發起人 小澤璋 石黒英雄 熊沢弘道 熊沢美雄 古川幾太郎 熊沢義春 山口勝司 山上里次 山上千代蔵 山口正一 山口政信 小川次幹 永野藤吉 牧野孝作 熊沢幸太郎 久保田久作 熊沢輝夫 久保田久男 宮川スイ子 石黒シゲノ 菱沼鍛代石材店」。 ![]() 「本殿」を見る。 ![]() 境内の石造物群。 中央は双体道祖神、その左は合掌像ですが馬頭観音でしょうか。 ![]() 石造物群の並びの覆堂内に二体の石造物が祀ってあった。 右側は座像のようであったがお顔が欠けていた。 ![]() お顔が欠けてしまった石仏。 ![]() 左側はとぐろを巻いたヘビも姿。いわゆる「宇賀神」と呼ばれる福の神であろうか。 これもお顔が失われていた? 「宇賀神」は古来、人間に福徳をもたらすと考えられている福の神たちの総称。 食物神・農業神ともされる。幸福・利益・知恵・財力の神とされている弁財天と同一視される ことが多い。 その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと 諸説あり一様ではないとのこと。 ![]() 覆堂庇下に祀られた笠付きの庚申塔。珍しい石祠形状で三猿の浮彫が。 三猿の上には日月も刻まれていた。 ![]() 左側面から。案内板によると「相州矢畑村施主 敬白」と刻まれていた。 右側面には「明暦二申年十月吉祥日」。 ![]() 「本社宮の庚申塔 明暦二年(1656)在銘 平成八年十一月 茅ヶ崎市指定重要文化財 市内の年号銘のある庚申塔の中で古い方から四番目にあたり、三猿〔見ざる、聞かざる、 言わざる〕が刻まれる型の初期のものです。また庚申塔としては例の少ない石祠の形を しています。 碑高五一センチ、塔身の幅三四センチの大きさです。塔身の正面には日月・梵字・三猿の彫刻が、 またその右側面には「□明暦二申年十月吉祥日」、左側面には「相州矢畑村施主 敬白」の銘が あります。」 ![]() 「神輿殿」。 「本社宮」の「神輿」👈リンク をネットから。 ![]() 「本殿」を反対側から。 ![]() 「神輿殿」の前にあったこちらは?祭関係の備品倉庫か? ![]() 「奉祝 天皇陛下御即位 御大典記念樹」。 ![]() 「本社宮」を振り返る。 ![]() 茅ヶ崎市矢畑の住宅街の中にあった墓地。 ![]() 梅沢家墓地であるようだ。 ![]() そして畑には既に収穫したタマネギが天日乾燥されていた。 今年はタマネギが不作であり、値上がりしているとニュースで。 今の時期に多くのたまねぎを出荷している北海道で、夏の暑さが原因で、不作だったためで あると。 我が趣味の菜園のタマネギも今年は成長不足なのである。 ![]() そして次に訪ねたのが「唱導寺妙光殿」。 ![]() 「唱導寺妙光殿」を通りから。 神奈川県茅ヶ崎市浜之郷404−1。 ![]() 「延寶山 唱導寺」碑。 ![]() 歴史は古く江戸時代に創建され、現在は檀信徒の要望により「納骨堂」を中心とした 寺のようであったが、詳細は判らなかった。 ![]() そして以前に訪ねた「鶴嶺八幡宮前」交差点が前方に。 ![]() 「鶴嶺八幡宮」👈リンク への入口が右手に。 ![]() 「鶴嶺八幡宮前」交差点を左折し、松並木を南に進む。 ![]() 車、人の数は比較的に少なかった。 歩道の中央に松の老木が至るところに、歴史を感じるのであった。 ![]() そして正面に、以前も訪ねた「鶴嶺参道歴史ひろば」に再び。 ![]() 「鶴嶺参道歴史ひろば」には説明板が設置され、参道の移り変わりや歴史を知ることができる のであった。 ![]() 「鶴嶺参道歴史ひろば 鶴嶺八幡宮は、その創建が平安時代末期にさかのぼると云われる古社です。 その後は幾度にもわたる戦乱によって荒廃しましたが、江戸時代になって、僧朝恵が 領主山岡氏の援助を得て再興を果たし、三代将軍家光から社領七石の御朱印を受けた記念に、 南大門馬場の左右に松を植えました。これが現在に残る松並木の参道です。 この辺りは、古墳時代後期(1400年前頃)から村の営みが始まり、奈良・平安時代にかけて 発展したことが発掘調査でわかっていますが、鎌倉時代になると「懐島」という地名が記録に 現れ、鎌倉幕府とのゆかりが強い地域であることが知られています。 この鶴嶺八幡宮参道は市の史跡に、松並木は市の天然記念物に指定され、地域の中で保護されて きましたが、参道の整備にあわせてこの歴史ひろばが設けられました。 貴重な歴史景観が間近なこの広場で、地域の移り変わりを偲んでみませんか。」 ![]() 「絵図に描かれた参道」。 ![]() 「絵図に描かれた参道 この絵図は、江戸時代末期の万延元年(1860)に皇女和宮が降嫁する際に備えて描かれた 山岡家所蔵の絵図の一部で、当時の参道と松並木の様子を見ることができます。 絵図には、神社本殿よリ東海道まで長くのびている約764mの参道と両脇に松が整然と 立ち並んでいる姿を確認することができます。このほか、本堂前の横参道や参道両脇にある 池および反り橋の様子も見ることできます。また、東海道と接するところには大鳥居があり、 付近に弁慶塚の存在も確認することができます。」 ![]() そして「茅ヶ崎市指定史跡・天然記念物 鶴嶺八幡宮参道及び松並木(昭和44年8月15日指定)」 ![]() 参道の上空からの写真。 何時の時点の写真なのであろうか。昭和44年? ![]() 「鶴嶺八宮は、平安末期の創建と伝えられており本市でも由緒のある神社の一つです。 本殿から南に延びる参道の両脇には松並木が続いています。神社の縁起では天正18年(1590)の 小田原城落城の後、社領は武家の所領となって荒れ果ててしまったとされますが、江戸時代になり 別当寺常光院の僧、朝恵が再興を志し、領主山岡氏の援助で正保年間(1644~48)に本社の拝殿が 再興されたとされます。そして、慶安2年(1649)に幕府から社領を 認める朱印を得たことから朝恵はこれを記念して参道420間(約764m)の両脇に松を植樹したと されています。 茅ヶ崎市では、参道及び松並木を後世に継承していくために、昭和44年8月15日に市の文化財 (史跡と天然記念物)に指定し保存しています。」 「発掘調査で確認された古参道」 「確認された礫敷きの参道 烏居付近で発見された古参道は複数時期の面を確認しましたが、そのうち最も下層にあるものは 礫敷きでした。礫は敷かれている部分と無い部分とがみられましたが、丁寧に整備されていた ことがわかります。」 「出土した木製鳥居 国道1号に近い部分から木製鳥居の基部が出土しました。材質はヒノキで太さは約45cmで 八角形に加工されており、転倒防止のためと考えられる横木もみられます。資料では文化文政 年間に石鳥居が立てられたことがわかっており、発見された木製鳥居はそれより古く参道が整備 された時のものと考えられます。」 ![]() 「絵はがき・古写真に見る参道および松並木」 ![]() 「新編相模国風土記稿に見る参道 江戸時代に編まれた『新編相模国風土記稿』には参道をばじめとして鶴嶺八幡が描かれています。 これをみると、鳥居が東海道沿いに立っており、近くには弁慶塚と思われる高まりも描かれて います。また、松も参道両脇に立ち並んでいる様子もわかります。」 ![]() 「東海道と参道鳥居 明治時代ごろと思われる絵はがきです。東海道(現国道1号)に接する参道と石製鳥居の様子を みることができます。また、松並木は参道だけでなく東海道にも植樹されていた景観を見る ことができます。」 ![]() 「参道と松並木の様子1そして2」。 ![]() 「参道と松並木の様子1 この絵はがきは、明治の頃と考えられますが、参道がまだ舗装されておらず、大八車を 引いている様子を見ることができます。また、車輪の轍が複数あることから頻繁に 使用されていたことがうかがえます。」 ![]() 「参道と松並木の様子2 この写真は、上の絵はがきと同様に、当時の参道と松並木の景観をうかがうことができますが、 特に参道両脇の松並木部分では、松が大きく成長している様子をみることができます」 ![]() 「鶴嶺参道歴史ひろば」を現在の参道から振り返る。 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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