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カテゴリ:寒川町歴史散歩
【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次
県道44号線・伊勢原藤沢線沿いの「南部文化福祉会館」の角の松戸橋交差点を右折した場所に あったのが「松戸橋跡」碑。 神奈川県高座郡寒川町一之宮5。 「松戸橋」碑。 かつては「松戸橋」があり、川が流れていたが、今は川は埋められているようであった。 「南部文化福祉会館」の駐車場を囲む垣根に埋もれるような場所に、高さ1メートル程度の 小型の石碑も建っていた。 「寒川町南部教育発祥の地 この地付近は江戸時代大山街道の 宿場として大いににぎわい明治六年 (一八七三年)に至り この地に博習学舎が設けられ明治九年一之宮学校と改称された 現在の一之宮小学校の前身であり 寒川町南部の教育発祥の地である」 元、「松戸橋」の袂には寒川町立「南部文化福祉会館」があった。 「南部文化福祉会館」は、公民館と老人福祉センターとの複合施設で、教育文化活動の学習の場 として、また高齢者の健康増進、生きがいの創造の場として広く町民の教育文化の向上、 増進に資することを目的として設置された二つの機能をもつ施設。 この日は「南部文化福祉会館」は休館していた。 7月10日に開催される「鎌倉殿の13人 スペシャルトークin寒川」のポスター。 2022年6月4日(土曜日)に行われた「鎌倉殿の13人 スペシャルトークin茅ヶ崎」👈リンクに 旅友と一緒に参加したのであった。出演は梶原景時を演じている中村獅童さん。 そしてこの寒川町の催しにも旅友と応募したのであったが 「応募多数の場合は、抽選のうえ、当落結果を2022年6月27日頃に返信はがきで結果を発送予定」 とのことであるが競争率が高そうなのである。そして先日、落選通知が届いたのであった。 現在位置。 敷地内には「湘南エコウェーブ」と書かれた「EV(電気自動車)」があった。 茅ヶ崎市・藤沢市・寒川町の2市1町により地球温暖化防止対策を推進するための 「湘南エコウェーブ」プロジェクトによる、「EV(電気自動車)ネットワークプロジェクト」の 一環として、2市1町で湘南をイメージした統一デザインのラッピングを施しているとのこと。 そして「南部文化福祉会館」の先の住宅街の路地を右折して進むと朱の鳥居が姿を現した。 稲荷神社であっただろうか。 社に近づいて。 そしてその裏にあったのが「両替子育地蔵尊」。 神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目。 立派な屋根の社であった。 「両替子育地蔵尊」柱。 社に近づいて。 「案内板」等が設置されていないので由緒等は不明である。 内陣には「子育地蔵」が納められていた。 道路を隔てたその前にも社があった。 正面から。 「妙法大神」と刻まれた石碑があったが。 次に訪ねたのが「花川用水」。 神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目4−30。 50cm幅程度の水路には水量豊かな流れがあった。 「花川用水」👈リンク 案内板。 ピンク色の地図は江戸時代のものと思われる「花川用水絵図」。 絵図は残念ながら判読できず。説明文の内容を下記します。 「花川用水は、基幹用水路として、江戸時代から利用されています。当時は、宮山村地内に 設けられた大柳堰(現在のクリーンセンター付近と考えられている)から目久尻川の水を取り、 宮山村以下、小谷村、大蔵村、岡田村、中瀬村、大曲村、一之宮村、田端村と茅ヶ崎市内の 萩園村の九ケ村に供給していました。そのため九ケ村用水とも呼ばれていました。 用水を利用するにあたって、施設の管理・運営、利害を調整した用水組合があり、江戸時代では 用水を分流する堰をめぐって用水組合内部で争いが多く起こっています。当時、用水の確保が いかに重要だったかがうかがえます。 その後、昭和15年(1940)に相模川左岸用水路の一部として再編されましたが、現在も基幹用水路 として利用されており、町内の多くの水田に用水を供給しています。」 「花川用水と用水組合」👈リンク をネットから。 その横には三猿が陽刻された板碑型「庚申塔」があった。 三猿の上に文字が刻んであったが風化していて読めません。右端の文字はかろうじて 「寛文四甲辰 四月吉日」と読めた。 家綱の治世1664年造立とかなり古い「庚申塔」なのであった。 中央にはネットによれば阿弥陀の心呪 「オン ア ミリ タ テイ セイ カ ラ ウーン」だとのこと。 「オン ア ミリ タ テイ セイ カ ラ ウーン」は真言宗などで唱えられる阿弥陀如来の 御真言であると。 オンは帰依、ア ミリタは徳の不滅、テイ セイは無量の光、カ ラは捨てない、ウーンは徳を表す 言葉であるとネットから。 三猿をズームして。 「道祖神」碑も並んでいた。 「花川用水」の先の東側の林の中にあったのが「入沢家弁財天堂」。 入沢家が最も繁栄していた明和・安永年間(1764~1781)に建立されたのだと。 神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目5。 「入沢家弁財天堂」を正面から。 「入沢家弁財天堂 寒川町指定重要文化財第十五号 昭和六十三(一九八八)年八月二十六日指定 この建物は、財宝をもたらす幸福の神といわれる弁財天を祀るためのお堂である。 総欅造で随所に彫刻を飾り化粧面漆塗とするなど近世の装飾性豊かな建築の特徴を よく示していると共に、この地域に於ける建築水準を理解する上での基準的な建物 として貴重である。 堂内に保存されていた棟札から天明二(一七八二)年の建立と推定される。」 昭和63年(1988)8月26日、一之宮の入沢家弁財天堂が町指定重要文化財第15号になりました。 写真はこれを報じる「#広報さむかわ」。入沢家は江戸時代、江戸で薬種問屋を営むなどした豪農で、 この弁財天堂は同家の敷地内にあります。内部に残された棟札から天明2年(1782)以前の建立と 推定されています。 【https://twitter.com/samu-archives/status/1430678993284440064】より そして「花川用水」に沿って南に進む。 道路脇左側にあった「双体道祖神」 、 享保2年(1717)と。 以前はここに「西町自治会館」があったようだがこの時は空き地になっていた。 神奈川県高座郡寒川町田端907。 そして次の目的地の「万部寺」に到着。 神奈川県高座郡寒川町 805。 題目碑「南無妙法蓮華経」。 「日蓮宗圓妙山 萬部寺」。 ここにも新しそうな題目碑「南無妙法蓮華経」。 「黨山は明暦元年(一六五五)七月江戸谷中瑞輪寺第六世圓妙院日桂上人が故郷の地、田端部落に 隠退し郷士たりし木内與兵門慰吉定(上人の父)を教化改宗し萬部庵を建立す。萬部寺の始めなり。 日桂上人は、九才にして、伯父日遼師について得度剃髪し、字を休應と号し、十三才にして下総 の里檀林に学び、更に、三十六才寛永七年身延山二十六世智見院日暹に学び、延山未、 出羽ノ國普廣山寺に入り、零落類破したるを再建立、後に甲州小室の徳栄山妙法寺に入山し 在山十七年五十四才の時寺日遼遷化により六月瑞輪寺六世として入山す。後に、延宝元年 (一六七三)七月廿三日遷化す。法壽八十一才なり。 第二祖 正覺院日勇上人法華経読誦壹萬部を成就す 第三祖 善通院日順上人元禄八年五月十五日身延山第三十一世一圓院日脱上人より寺号公称の 奠定大曼茶羅を授與され、圓妙山萬部寺と称し今日に至る。」 「妙經二萬部」碑。 「円妙山万部寺」の掲示板。 「今月(2022年6月)の聖語」 「何ぞ煩(わずら)わしく他の処を求めんや」と。 =失敗は貴重な宝もの= 誰でもしくじることはあるものです。ごめんなさいですむものならその場で解決できます。 でも長い人生においては、簡単に一件落着とはいかず、落ち込んでしまうこともあります。 そんな時、あなたはどうしますか。 思い出したくもない。さっさと忘れてすっきりしたい。 それも悪くはないでしょう。ただそれでは真の解決にはなりません。現実から逃避しても 一時しのぎにしかなりません。それよりも、貴重な体験と見てはどうでしょう。失敗の原因を 探り活かすことです。原因が分かれば失敗を繰り返さずにすむ方策が見つかるでしょう。 自分一人で抱え込まず、時には同僚や先輩あるいは頼れる人に相談することも必要でしょう。 こうすれば将来の自分、そして今後の人生をより良いものにできるはずです。 失敗は今在る自分の姿を見つめるチャンスなのです。 日蓮聖人ご遺文 『守護国家論』 『立正安国論』と共に聖人初期の代表的な著述で、末法の時代における衆生救済と国家の安泰は 法華経のみに限られることを説き明かしています。 正元元年(1259) 聖寿38歳 「万部寺」の「山門」。 正面に「本堂」。 「寺務所」。 日蓮聖人像。台座には「立正安國」と。 ズームして。 さらに。 「本堂」の扁額「円妙山」。 内陣。 槇(まき)の生け垣の新緑が美しい住宅街を進む。 芍薬畑が拡がっていた。 切り花として出荷したのであろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.07.26 16:46:25
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