7424785 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Category

Freepage List

Comments

Favorite Blog

岡山駅構内と山陽本… New! 隠居人はせじぃさん

東海道まち歩き (2)… New! オジン0523さん

【100円ショップのピ… Gママさん

バイクのシートが裂… noahnoahnoahさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Headline News

Archives

Calendar

2022.10.29
XML
カテゴリ:国内旅行
「安慶名城跡」を後にして、近くにあった「安慶名闘牛場」に向かう。
ここ「うるま市」の汚水マンホール蓋。
「うるま市」は、2005年(平成17年)4月1日に具志川市、石川市、中頭郡勝連町・与那城町の
2市2町が新設合併し誕生した。
「うるま」とは珊瑚の島、(ウル=サンゴ、マ=島)という意味で沖縄の美称である。
漢字では「宇流麻」と書き、方言をそのまま市名に採用した珍しい都市であると。
また、景観の見事な沖縄の島々を示す言葉で、この4市町の海に面した素晴らしい景観を表し、
新市が未来へ飛躍することと、美しい沖縄(4市町)の心を世界に発信することを願って
命名されたと。
このマンホール蓋は、旧具志川市時代のデザイン。中央には旧具志川市の市章が入っているので、
合併前のもの。市章は「ぐし」を組み合わせて図案化したもの。
その市章のまわりは旧具志川市の花:きく、そしてその外側に3組の闘牛が描かれていた。
エネルギッシュな市民の姿を象徴していたのだと。



そして目的地の「安慶名(あげな)闘牛場」の案内板が。



安慶名中央公園内にある闘牛場で、県内でも有数の規模を誇る。
近年は沖縄県初のドーム型闘技場として誕生したうるま市・石川多目的ドームで多くの
闘牛大会が開催されるようになったが、現在でも年に1, 2回はこの「安慶名闘牛場」でも
大会が行われている。以前は沖縄県闘牛組合連合会主催の全島闘牛大会の会場でもあり、
多くの見物客で賑わっていた。野外ならではの迫力が魅力。



「​​ウシオーラセー​」👈リンク と呼ばれる沖縄の闘牛は、琉球王朝の時代から受け継がれてきた
ともいわれる伝統的なもので、明治~大正~昭和と、娯楽の少なかった時代には人々の大切な
楽しみの一つだった。今でも、沖縄には今帰仁村営闘牛場、本部闘牛場など数か所の闘牛場が
あり、定期的に闘牛が行われているのだと。



ここ「安慶名闘牛場」での「闘牛」の写真をネットから。
「​闘牛​」👈リンクの動画を再びネットから。


   【https://pbs.twimg.com/media/FRF7pPPagAILzCj?format=jpg&name=large】より

「安慶名闘牛場」の後方には「安慶名城」の見事な石垣が。
自然の断崖と急傾斜を巧みに利用した山城であることが解る。
城の形態は、外側と内側に二重の石垣を巡らす県内では珍しい輪郭式のグスクであると。
築城時期については、本格的な発掘調査が行われていないため詳細は不明とのことだが、
県内における発掘調査報告をみますと12世紀後半から13世紀初頭にかけてグスク時代の開始が
認められている。そのことから、「安慶名城」もその頃築城され、15世紀頃に現在の石垣が
造られたのではないかとのこと。



美しい石垣をズームして。
城壁には琉球石灰岩の自然石を積み上げる「野面積み」という技法が取り入れられており、
素朴な雰囲気を楽しめたのであった。



東側の石垣を見る。自然の断崖と急傾斜を巧みに利用した山城、そして石垣なのであった。



「安慶名闘牛場」の南西側を見る。



ここが闘牛の「入退場門」。



廻り込んで闘牛場への「入退場門」を反対側から。



安慶名中央公園内にあった「慰霊之塔」。



「この慰霊之塔は過ぐる日露の役より第二次世界大戦に至るまで、無念にも戦没された肉親
同胞の御冥福を祈り 併せて未来永劫の平和を祈願するためにここ由緒ある城跡の麓に市民の
総意をもって建立する。
                                                    昭和六十三年十一月
                        具志川市」



慰霊顕彰碑・合祀板」。



「具志川市慰霊之塔境内に刻名された合祀板は、戦後50年で新たに確認なされた当市関係
3400余柱の全戦没者、(軍人、軍属および一般住民)を慰霊之塔に合祀、誓って悲惨な
戦争体験を風化する事なく平和を願うことを念じ記文奉納する。
                   戦後50周年記念事業実行委員会 
                        具志川市戦没者遺族会」



モニュメント」。
ぶつかり合う闘牛の角を表現してるいるのであろうか?



そして次に訪ねたのが「具志川グスク」であったが、進入路がわからず困ったが、
旅友が近くの重機ヤード(廃車・廃材置き場?)内で作業するオジサンから場所、進入路を
教えてもらう。
下の写真は一人で道に迷っている時に撮影したもの。



そしてここが「具志川グスク」跡。



県道からトラックや重機などが置かれているヤードに通ずる荒れた小道から入って約40mほど
進んで行くと、右側奥に案内板が設置されているのを発見したのであった。
具志川グスク 具志川グスクの壕」案内板。



具志川グスク
沖縄貝塚時代後期からグスク時代にかけての遺跡で、このグスクからは、掘立柱の住居跡や
グスク時代に行われたと考えられる土木工事の跡、石垣の一部などが確認されています。
また、多くの土器、輸入陶磁器等が出土し、当時の繁栄ぶりをうかがうことができます。
同名のグスクが久米島町と糸満市にもあります。いずれも海岸に突き出た丘上にあるグスクと
いう点で共通しています。
具志川グスクの濠
沖縄戦当時に使用されていた壕は、自然洞を整備したものや掘り込んだものがあり、おもに
近隣住民の避難場所として利用されました。また、グスク入口にも壕が造られ、銃眼も掘られたと
いわれています。
米軍上陸後、グスクの西側端の壕に、ムラの青年男女が立てこもりました。彼らは、南部へ
移動した日本軍から、手榴弾を2個ずつ渡されていました。1 9 45 (昭和20)年4月4日、
23人の学徒、青年で構成する警防団は侵攻してきた米軍に手榴弾で応戦しましたが、最後は
残った手榴弾で「自決」、1 3人が死に至りました。
現在、壕は崩壊していますが、火炎放射を受けたといわれるや周辺の岩肌は、今なお黒い焼け跡が
みられます。」



進んで行くと右手にあった墓。



天願按司之墓」。
天願按司(ティングァンアンジ)は、具志川グスクの城主だったそうで、安慶名大川按司の
三男にあたる人物とのこと。
国頭村の富盛大主に攻められ、戦死してしまったが、その子供である若按司が、久志若按司と
協力し、敵を取ったという伝承が残されているのだと。
しかし、若按司も若くして死んでしまったので、三代目の安慶名大川按司の三男
『具志川按司』が継承することになった と。



さらに狭い山道を進んで行った。



右側の斜面下部に、ぽっかりと開いた小さな洞口が遺されていた。
掘り込んで造ったと思われる壕。洞口に削ったような跡が。



さらに奥へ進むと、今度は岩壁の中腹あたりにコンクリートブロックで洞口が塞がれた
門中墓があり、その奥に石碑が建立されていた。



久志之屋門中墓」を正面から。
手前側のコンクリートブロックで塞がれた門中墓は、墓標に『久志之屋門中墓』と
表記されていた。
こちらの門中墓の洞口が一番大きかったとのことだが、その開口部周辺は黒っぽくなっていた。



番奥に建立されていた石碑。
門中墓を通過すると、石碑が建立されている道の最終地点になんとか辿り着いた。
その石碑には『集団自決の地』と題された碑文が記されていたのであった。



集団自決の地
一九四五年四月四日、字具志川の若い男女二十三名が郷土を守るため、ここ具志川城跡の壕に
たてこもっていた。
昼前、米軍が壕に近づいてきたので、危険を感じ手榴弾を投げつけた。
米軍は、機関銃や火焔放射器で応戦。すさまじい攻撃に、もはや逃れぬものと観念した男女は、
手榴弾での死を決意した。
壕の中で二つの輪になって座り、「海ゆかば」を歌い、「自爆」を合図に手榴弾を発火して自決を
敢行、十三名が死亡した。
沖縄戦終結五十周年の節目に当たり、この地に眠る若者たちのみ霊を慰め、かつ、恒久の平和を
祈念してこれを建立する。
             一九九五年十一月吉日 具志川市」

また、石碑の下部には亡くなられた男女の氏名と年齢が刻まれていた。



塔婆には「沖縄戦犠牲者追善供養之塔也」と。



そして引き返したが、「壕」らしき入口の上の岩は黒変していたのであった。
火炎放射を受けた「壕」なのであろう。この前でしばしの「合掌」。



洞口を玉石で塞がれた壕が2ヵ所あり、その内の1つは、下部分が階段状になった
コンクリート製の石段になっており、洞口には香炉が1基、花瓶が両脇に置かれていた。
玉石で入口が封鎖されたこの「壕」の石積みも黒く変色。
ここも火炎放射された場所なのであろう。



「壕」に向かって火炎放射する米軍人の姿をネットから。
1945(昭和20)年の沖縄戦で、日本軍の陣地と思われる洞窟に向け、火炎を放射する米軍。
日本軍は、洞窟陣地を拠点に果敢な戦いを続けたが、米軍の物量作戦の前にじりじりと後退を
続けた。米軍は火炎放射器を備えた重装甲の戦車を大量に導入し、日本軍の陣地をひとつずつ
破壊する「馬乗り攻撃」を展開した。日本兵が1人でも生き残っていると、占領した地域でも
背後から攻撃を受ける可能性があるためで、徹底した掃討戦で日本軍の犠牲は日に日に
増えていったのであった。



そして次に訪ねた場所も道に迷いなんとか到着。
浜千鳥の歌碑」。
「浜千鳥の歌碑」は首里王府で汚職事件に巻き込まれた役人の伊波里主が、都を追われて
具志川赤野の浜に身を隠し、首里に残した親を偲びながら詠んだ歌だと云われているのだと。
奥に見えたのが「赤野漁港」。
うるま市赤野58。
辿り着くまでは(♫青い月夜の浜辺には…♫で始まる童謡「浜千鳥」)の歌碑だとばかり
思っていた私であったが・・・・。



旅や浜宿り
草の葉と枕
寝ても忘らゝぬ
我親のおそは
【旅に出て浜辺に宿り、草の葉を枕にして仮寝をしていると、思い出されるのは父母と一緒に
暮らした故郷のことである。】と。



「たびやはまやどぅい 

くさぬふぁどぅまくら  
にてぃんわすぃららん 
わやぬうすば」
伊波里主が詠んだこの琉歌に、民衆が歌詞とメロディを付け加え「​浜千鳥節​」👈リンク として
歌い継がれてきたといいます。
1887年(明治20年)に琉球舞踊家の玉城盛重が、村芝居の演目として女性四人組の踊りに創作して
演じ、評判をとったことで、琉球舞踊の定番に「浜千鳥」があり、歌詞の一番目に、この琉歌が
謡われているとのこと。



「浜千鳥の歌碑」の右側の小さな岬方向を見る。
その遥か先には石油基地のある「平安座島」そして「宮城島」の姿が。



そして「勝連城跡」を目指して「県道15号線」を進む。



前方に「勝連城」の石垣が見えて来た。



日本城郭協会の続日本100名城200番に選定された「勝連城跡」。
15世紀、海外貿易により勝連に繁栄をもたらした阿麻和利が居城したとして有名な勝連城。
2000年にユネスコの世界遺産に登録。
「​勝連城跡​」👈リンク を訪ねるのは2015年以来7年ぶり。



駐車場に車を駐め、新たに作られた「観光案内所」を訪ねた。



「観光案内所」内にあった、うるま市特産品の店「うるま~る」を訪ねた。



7年ぶりに合う「おばあちゃん」。



うるま市のおばあ 東江(あがりえ)ツルさん
うるま市伊計島で開催された「イチハナリアート」で生まれたおばあさです!!
おばあも大事なスタッフなのでたたいたり、ゆらしたりしないで下さいね!!!!
いじわるしたら、夢に出てくるかもしれませんよ。
実は、ツルおばあ、3人いるんです。どこかで会えるかも!!」
しかし、実在するモデルはいません と。



うるま市まちキャラ 「うるうらら
「うるうらら」は珊瑚の種の妖精です。通常、珊瑚の種は白くきらきらしていますが、この子は
真っ黒な姿で産まれました。
見た目は、他の兄弟とは違いますが、いつの日かきれいな珊瑚の華を咲かせることを夢見ながら
うるま市の皆さんのお役に立ちたいと思っています。
プロフィール
 名称・・・・うるうらら
 誕生日・・・平成27年3月5日
 性別・・・・不明
 趣味・・・・歌手活動
 職業・・・・うるま市嘱託職員



「世界遺産勝連城休憩所」内で「続100名城スタンプ」をいただきました。



「続日本百名城 200番 勝連城」スタンプ。



「御城印」もいただきました。



「休憩所」内には様々な土産物が並んでいた。



店員の女性に土産物の説明を受ける旅友。



「勝連城跡 あまわりパーク 施設案内」。



「勝連城跡 あまわりパーク」案内。



「うるま市観光マップ」。



「闘牛のまち うるま市」ポスター。



「①勝連城跡
15世紀、海外貿易により勝連に繁栄をもたらした阿麻和利が居城したとして有名な勝連グスク。
2000年にユネスコの世界遺産に登録されました。
頂上に登ると太平洋の輝く青い海が一望できる沖縄有数の景勝地です。
②歴史・文化施設
勝連城跡を中心とする、うるま市の歴史や文化について、楽しみながら学び、体験することが
できる展示施設です。
勝連城跡からの出土品などの展示や、演者が躍動しながら解説するパフォーマンスガイドで
勝連城跡を知ることができます。」
③観光案内所
うるま市の観光スポットやグルメ、観光体験メニューなど、沢山のうるま市の魅力を紹介して
います。
雄大な自然とともに、歴史や伝統文化を堪能できるうるま市を楽しんで下さい。
④城入口 ⑤ユビタ池 ⑥飲食・物販エリア ⑦公園エリア」



「勝連城跡 あまわりパーク
勝連城跡は、沖縄本島中部の勝連半島の根元に位置する標高約98mの小高い琉球石灰岩丘陵上に
築かれたグスク(城)です。12世紀から13世紀にかけて築城されたと考えられ、琉球石灰岩の
切石で築かれた城壁には、琉球のグスク特有の曲線の美しさを見ることができます。城壁で
区切られた空間は曲輪(くるわ)と呼ばれ、勝連グスクは五つの曲輪からなり、最も高い一の曲輪
から階段状に低くなり再び東の曲輪で高くなる姿を、昔の人々は巨大な進貢船に例えました。
海外との貿易により栄えたと伝わり、第10代目城主であった阿麻和利(あまわり)は、琉球国王
をも脅かす勢力を持っていたといわれています。
ーの曲輪からは、北は遙か金武湾を囲む北部の山々や太平洋に浮かぶ離島が見え、南は知念半島や
中城湾を臨み、湾を隔てた先には阿麻和利の政敵であった護佐丸の居城、中城グスクを見ることが
できます。
1458年、王府に反旗を翻した阿麻和利は首里へと攻め入りましたが敗北してしまい、勝連グスクは
阿麻和利とともに歴史の幕を降ろしました。」



土産物を購入して、「これで帰れる!!」と安堵する旅友。



「勝連城跡(常設展示室を含む)料金表」。
2021年10月より世界遺産と関連施設の維持管理の為、入場を有料化したとのこと。
《営業時間》午前9時~午後6時 ※入館は閉館30分前まで
《休 業日》年中無休
《料  金》大人(高校生以上)個人600円 団体(20人以上)480円
      小人(中学生以下)個人400円 団体(20人以上)320円
      ※勝連城跡・常設展含む
      ※6歳未満無料
      ※うるま市内の小中学生は全額免除となります。
      ※勝連城跡に拝みのみにくる場合 入場料は一律200円とする。



「顔出しパネル」。
阿麻和利(Lord  Amawari)と百度踏揚(Queen Momoto Fumiagari)。
阿麻和利は、15世紀の琉球王国において、勝連半島を勢力下に置い、ていた按司である。
北谷間切屋良村出身。幼名は加那。勝連城主。
百度踏揚は勝連城主・阿麻和利の妻。



「EVカー乗り場」<実証実験中>
行先:勝連城跡四ノ曲輪まで」



あまわりパークから道路を挟んだ勝連城入口まで電気自動車に試乗することができるようだ。
後にこちらも有料乗車になる予定とのこと。



車に戻り次の目的地に向かう。
「県道16号線」の右手奥にあったのが「世界遺産 勝連城跡」碑。



「勝連城跡」案内。



三の曲輪の高石垣の光景。



ズームして。



                              ・・・​つづく​・・・


                  ・・・​もどる​・・・





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2022.11.10 16:37:34
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.