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カテゴリ:国内旅行
「国道331号」をひたすら南下すると前方に「斎場御嶽(セファウタキ) 0.4km」の
案内板が現れた。 ここ「斎場御嶽」👈リンク は2015年6月に訪ねているので今回はパスしたのであった。 ![]() 南城市知念久手堅から前方の「ニライ橋カナイ橋」の西側の山の端を見る。 ![]() 「国道331号」を右折して「県道86号線」・南風原知念線を進み「ニライ橋カナイ橋」に 向かって進む。 「カナイ橋」を渡って行くと、「ニライ橋」の姿が現れた。 南城市知念吉富。 ![]() 高低差約80mの断崖の上下を結ぶ全長約660mの絶景スポット。 ニライ、カナイの連続する2つの橋が、ヘアピンカーブを描くように連絡し、宙に浮くように 架けられている、沖縄南部有数のドライブルート。 ![]() 「カナイ橋」から「ニライ橋」へ。 ![]() 平成14年8月に完成した「ニライカナイ橋」が、海岸台地と海岸沿いの国道との標高差 (80mほど)をこの「ニライカナイ橋」が一気に解消しています。 U字型に伸びた山側がニライ橋、海側がカナイ橋で、知念半島を分断していた交通網を繋ぐ 重要な橋になっているのであった。 「ニライカナイ」とは沖縄県や鹿児島県奄美群島に伝わる「理想郷」を意味する言葉。 海のかなたや地底にある、常世国(とこよのくに)と信じられている聖なるところ、他界。 とくに東の水平線のかなたにあるとされるのだと。 本土に伝わる常世国(とこよのくに)の信仰と似たものであるとのこと。 ![]() しばらくすすむとトンネルがあった。 ![]() トンネルの先で車を空き地に駐め、しばしの散策開始。 道路を渡り、道路脇の遊歩道をトンネルの上にあった「ニライカナイ橋展望台」まで歩く。 展望台からU字形の「ニライカナイ橋」そしてその先の「太平洋」の絶景を楽しんだのであった。 沖に浮かぶ久高島は「海の彼方の理想郷・ニライカナイ」につながる聖地との伝承があることが 橋名の由来となっています。 南城市知念。 ![]() 「ニライカナイ橋」の奥、左手に見えたのが「知念岬」。 ![]() 美しい曲線の先の「知念岬」をズームして。 ![]() 「知念岬」の奥に見えたのが「久高島」。 ![]() 「久高島」をズームして。 「知念岬」の「知念岬公園」にある青い屋根の建物は「知念体育館」。 ![]() 知念の安座真港から久高島の徳仁港まで高速船で約15分、フェリーでは約25分で着くと。 「久高島」は、沖縄に数ある島々の中でも、その存在そのものに深い意味を持つ。 観光客はもとより、沖縄の人も特別な位置づけを持って接しているのだと。 それというのも、ここは琉球が誕生したとされるきっかけの開闢の祖アマミキヨ(アマミク)が、 天から舞い降りてきた島で、沖縄はこの島から始まったとされているから。 そして、琉球王朝時代には聞得大君と一緒に国王も巡礼していた。後にノロという国王の 代理人の祝女制度ができたのだが、彼女たち取り計らう12年に一度の秘祭「イザイホー」➡リンク もこの島だけの特別なもの。「イザイホー」に関しては厳しい決まりごとがあり、現在では 継承できる人が島に不在で、1978年を最後に途絶えているのだと。 ![]() 帰路は反対側の遊歩道を戻る。 前方には「佐敷風力発電所」の姿が。 設備容量 1,980kW(990kW×2基) メーカー 三菱重工業(株) 設置場所 沖縄県南城市佐敷手登根 運転開始年月 平成16年4月 ![]() そして遊歩道の北側にあったのが「航空自衛隊 知念分屯地(ちねんぶんとんち)」。 右にあったのは、地対空誘導弾「パトリオット」(PAC3)の「レーダー装置」の 「パトリオットのAN/MPQ-53レーダー」であっただろうか。 「パトリオット」は、地上から航空機を撃墜するミサイル。「パトリオット」は、現存する 地対空誘導弾のなかでは最も優れたシステムといわれており、それは湾岸戦争でも証明された と。 ![]() 「パトリオットのAN/MPQ-53レーダー」をネットから。 上の丸いアンテナ・アレイがレーダー本体で、下に並んでいるのがその他の送受信用。 回転はしないので、脅威の方に向けて据え付ける必要があるのだと。 ![]() 「地対空誘導弾パトリオット(PAC3)」もネットから。 ![]() Googleマップから。 上・北側が「航空自衛隊 知念分屯地(ちねんぶんとんち)」 そして下・南側が「陸上自衛隊 知念分屯地」。 自衛隊には、陸上・海上・航空の3自衛隊がある。 文字通り「陸上自衛隊」は我が国の国土を、「海上自衛隊」は我が国周辺海域と海上交通を、 「航空自衛隊」は、我が国上空を守る任務についているのだ。 ![]() そして道路を渡り車に戻る。 先程訪ねた展望台、その下にトンネルの姿が「ニライカナイへの道」の前方に垣間見えた。 ![]() そして遊歩道の入口には、油圧ショベルがいつの間にか置かれていた。 夜間に、車での遊歩道への進入を防ぐ目的なのであろうか? 進入防止でも「地対空誘導弾パトリオット(PAC3)」とのギャップが印象的であったのだ。 ![]() 南城市「Nバス」のバス停「ニライカナイ橋」。 ![]() 「県道86号線」・「ニライカナイの道」を西に進むと右手にも「風力発電設備」が。 ![]() そしてその先左側にあったのが「沖縄刑務所」。 ![]() 「沖縄刑務所」の外れに車を止めた。 ![]() 振り返って。 南城市市制施行前は日本で唯一村に所在する刑務所であった と。 下部機関として八重山刑務支所、那覇拘置支所、宮古拘置支所を持つ。 ![]() 刑務所の壁。 外国人・禁固刑受刑者・若年者・初犯者・再犯者・心身障害者と幅広い分類の受刑者が集まる 男子刑務所である。ただし、アメリカ統治下にあった期間および日本復帰後間もないころには、 女子も収容されていた。現在の収容人員は319人 であるとウィキペディアより。 ![]() 「沖縄刑務所」前から風力発電設備を振り返る。 ![]() 「沖縄刑務所」の入口方向を振り返る。 ![]() そして次に訪ねたのが「玉城城跡(たまぐすくじょうせき)」。 入口の左側にあった案内板。 ![]() 草の生える小さな広場に車を駐車する。 「玉城城跡」の石碑と案内碑の前に来て。 ![]() 「国指定史跡 玉城城跡」碑。 南城市玉城444。 ![]() 裏面には 「沖縄県教育委員会 玉城村教育委員会」と。 ![]() 「玉城城跡」案内碑。 ![]() 「この城は、別名アマツヅ城とも称され、築城年代や歴代の城主についてはさだかではない。 『島尻郡誌』では、「アマミキヨが築いた城であるとの伝説があって、城主はアマミキヨの 子孫即ち、天孫子であったと伝う」と記述している。 城跡は、一の郭、二の郭、三の郭の三つの郭からなる段階状の山城で天然の要害の地に 築かれている。城壁は一の郭のみよく原型ををとどめていて、二の郭と三の郭の城壁は、 戦後、米軍基地建設の骨材用として持ち去られ、現在根石がかろうじて残っているにすぎない。 一の郭は、東北東に自然岩をくり抜いた城門を構え、城内には「天つぎあまつぎの御嶽」 (神名「アガル御イベ、ツレル御イベ」)が祀られている。」 ![]() 駐車場前の広場の先に案内板があったので進んで行った。 ![]() 「玉城城跡 仮通路 ➡」と。 ![]() 広場を抜け林の中の道を進む。 沖縄の城の多くは、小高い山の上に建てられていた。 もともと沖縄の城は軍事拠点として建てられることが多いため、城に続く道は険しく、 さらに自然の岩や巨石を積み上げて城壁を作っていた。 そのため「天然の要塞」と呼ばれているのであった。 ![]()
![]() 上部まで伸びる木製の階段。 城跡までは木造の階段が設置されており、景色を眺めながらの上り下りが楽しめたのであった。 ![]() 北側には巨大ゴルフ場・「琉球ゴルフ倶楽部」が拡がっていた。 ![]() さらに石段を登って行くと、この城跡を特徴付ける丸い石門が現れた。 ![]() 城門前から城壁を見上げた。 ![]() 城門を潜って。 自然の一枚岩を刳り抜いて造られた城門。 ![]() 「御嶽(うたき)」の如き場所の奥にも石垣が。 ![]() 「城門」を振り返って。 ![]() 「城門」は見る角度によってハートの形に見えたのであった。 ![]() 本丸跡には琉球開闢の七岳の一つとされる 「雨粒天次御嶽(あまつぎあまつぎうたき(雨つづ天つぎ とも)」 があった。 ![]() 「雨粒天次御嶽」の御嶽以外にも拝所が数か所あり、玉城城跡全体が巨大な聖地になって いるようであった。自然の美しさと荒々しさが味わえる印象的なグスクなのであった。 ![]() 本丸跡を臨む。 ![]() 本丸跡の城壁。 ![]() 場所を変えて。 ![]() 蝶の姿も。 ![]() 城門から「琉球ゴルフ倶楽部」ゴルフ場のグリーンを。 ![]() 「琉球ゴルフ倶楽部」ゴルフ場。 ![]() 先程近くを通った「沖縄刑務所」近くの風力発電設備。 ![]() 景色を楽しみながら木製階段を下って行った。 ![]() 眼下に「沖縄県立玉城青少年の家」。 ![]() ここにも「拝所」が。 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.11.14 12:48:03
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