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JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.12.19
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カテゴリ:国内旅行
そして以前訪ねた「​喜屋武岬​​​」👈リンク のすぐ西の海岸にあった「史跡 具志川城跡」に到着。
糸満市喜屋武1730−1。



「史跡 具志川城跡
                                  昭和47年5月15日 国指定
この城は、断崖の付け根のところに城門があり、そこから一段下がって二の丸、さらに一段
下がって本丸が海に突き出ています。石垣は珊瑚性石灰岩の野面積みですが、門の部分には、
切石を用いた痕跡が残っています。城の規模は、長さが東西82~3メートル、南北の巾は
二の丸で33メートル、本丸で16~7メートルです。二の丸には穴(俗に(火ふき穴))が
あって海に通じています。
久米島の伝説によれば、この城は久米島の具志川城主真金声(まかねくい)按司が伊敷索
(いしきなわ)按司の二男真仁古樽(まにくたる)に攻められて落城し、島を脱出して本島に
逃れ、故郷と同じ名の具志川城を築いたといわれます。その真偽は不明ですが双方の立地や
規模、構造はよく似ています。」



「史跡 具志川城跡」碑。



「史跡 具志川城跡」案内板。



「史跡 具志川城跡
具志川城跡は、沖縄本島最南端に位置するグスクです。海に突出した標高17mの海食崖に
築かれており、城門付近以外は三方が断崖となっている特異な立地となっています。
城内には地元で「ヒーフチミー」と呼ばれる穴があって海へ通しています。本城跡は発掘調で
得られた遺物により、12世紀後半から15世紀中ごろまで利用されていたことがわかりました。
本城跡の周辺には「佐慶グスク」「上里グスク」「山城グスク」「東辺名グスク」「当間グスク」
「喜屋武古グスク」が位置し、「具志川城跡」を含めて、沖縄のグスク時代、それぞれが縄張り
機能を活かしたい広大な「グスク」を形成していたと考えられます。」



「具志川城跡
沖縄本島最南端、字喜屋武の海岸崖上に築かれたグスク。陸続きの東側城門は切石積みで、
他は崖に沿って野面積みの石積みで築かれている。海に通じる潮を吹き上げる穴があり、
久米島から逃れて来た久米島具志川城の按司が築いたと言われている。東側城門付近以外は
三方が海に面しており、太平洋を一望する絶景スポットである。」



「具志川グスク」概略図をネットから。
「具志川グスク」は、うるま市の具志川集落の東側、海岸にせり出した独立石灰岩丘陵上に
築かれたグスク。 北側・東側・西側の三方は険しい崖になっており、南側の低くなった所に
城門跡がある。標柱の建つグスク入口を入り 大きく湾曲した細い崖道を上ると視界が開け正面に
「ナームイヌ御嶽」がみえる、ここは神聖な場所で草木一本でも持ち出せ ば神罰が下ると
言われた地。
このグスクは、初代安慶名大川按司が二男天願按司を派遣し築かせたともいわれるが、二代目
安慶名按司が三男を具志川グスク に配したとも言われている と。



標柱の建つグスク入口を入り海に向かって進んで行った。
ハブ注意」と。



海上からの「具志川グスク」の航空写真をネットから。



正面に「城門跡」が姿を現した。



案内板には「垣は珊瑚性石灰岩の野面積みですが、門の部分には、切石を用いた痕跡が
残っています。」と。
「城門」左側の野面積みの石垣。



「城門」右側の野面積みの石垣。
城壁は、かなりの厚さがあり、立派な城門そして櫓が築かれていた事が想像できたのであった。



「城門跡」を通過し、中に入って行った。
太平洋と東シナ海が交わる地点が前方に。



二の丸は、野面積み城壁に囲まれている。



二の丸の右側の石垣。
「12世紀後半から15世紀中ごろ」の記載があったが12世紀後半とは、日本はまだ鎌倉時代の入口。
この様な石垣の城がここ琉球には既に存在していたのあった。



二の丸の中央、城門正面寄りには幅1.5m、長さ3mほどの穴がぽっかり口を開いており、
そこから縄梯子などを使えば海に降りることが可能である と。


「ヒーフチミー(火ふき穴)
地元で「ヒーフチミー(火ふき穴)」と呼ばれている穴です。内部は石灰岩の空洞に
なっており、海へ通じます。伝承によるとグスク当時、荷物の上げ下ろしや有事の時の
避難に使われていたと伝えられています。」



野面積みの石垣。



「石積技術
崖の地形に合わせて「U」字型に野面の石垣が積まれています。現在の石工の話では、
「石垣外面の噛み合わせがきれいだ。外から積んだに違いない」とのことです。
当時、崖に足場を組んで積み上げたのでしょうか。」



「QR ITOMAN-NAVI」。
糸満市ホームページでは携帯電話とスマートフォン向けのページも公開しているのであった。



「基壇と虎口」。



「基壇と虎口
物見の郭をつくる基壇と虎ロ(階段入口)です。階段は、露呈していた基壇の中から検出されて
おり、基壇と階段には時代差があります。ある時期、物見の郭を広げるため、階段を埋めて
新たに基壇を築いたと思われます。」



ここにも「QR ITOMAN-NAVI」。



本島最南端のグスク。城壁の上から撮影。
この先が「本丸」か。
なんといっても海との融合が非常に美しく、これまで訪ねて来た森の中にあるグスクとは
まるっきり異なる雰囲気があるのであった。



「本丸」の石垣の上に当たる場所から東側の断崖を見る。
なお、「本丸」の下の海岸には自然の岩陰などがあって沖戦の際の戦争遺跡になっている と。



ズームして。
「喜屋武岬」方向を見た景色。断崖の下の海岸に巨大な岩が並び、
雄大な景色なのであった。



西側。石垣の厚みは1.2~1.3mであったか?



「本丸」の沖の海には貨物船が。
太平洋がすぐ眼の前に広がり海上を航行する船の動静を伺うのに最適の場所であることが
理解できたのであった。したがってこのグスクは海上交易権の確保を目的とした海上貿易の
中継拠占の城と考えて良いのであろう。



「本丸」の最先端部。この先は絶壁が。



前方に「石段」跡が。



「確認された古い石段
岬の郭へ誘導する石段と基壇です。確認された基壇は工事による時代差があって、古い石段を
埋戻し二段の基壇にしました。見える石段は古い時代のものです。本地区は、城内でも
比較的高い位置にあり、見張りのため、現在よりも高く石垣が積まれていたと思われます。」



「QR ITOMAN-NAVI」。



「拝所」跡なのであろう。
中央にはコンクリートでお供えを置くための台?が設けられていた。



向って左には「久米門中 具志川アンジ」、向って右には「久米門中 女ノ子」と
刻まれていたのであった。



石垣の石は、周辺の断崖と同じサンゴ質の石灰岩のようであり、石材の調達にはあまり
苦労しなかったのであろう。



「石垣の高さ
岬の郭を囲んだ石垣は、東側の石垣は狭く低く、西側の石垣では広く高く築かれ、
上には見張りのための武者走りが見られます。西側石垣は、崖下に大岩と城の裏口が
あるたあ、見張りを強固するために石垣を高く広く築いたと思われます。」



「QR ITOMAN-NAVI」。



遠浅の海岸が拡がっていた。



これもサンゴ礁のリーフエッジ(外礁の縁)で発生する白波であろうか?



「本丸」跡から引き返し、木製の階段を渡り「二の丸跡」へ。



前方正面にも「拝所」があった。



中央の石には「久米門ミチム」と刻まれているようであったが・・?



再び「二の丸」の石垣を見る。



野面積みで築かれてた城壁。柵で囲ってあるところは「ヒーフチミー」といわれてる場所。



二の丸(一の郭)の石垣を再び。



前方に琉球石灰岩が積まれたスロープがあった。



「階段と武者走り
海岸線崖下を見張るために階段
が設けられ、石垣上面に広場を造りだしています。」



上部から崩れ落ちた琉球石灰岩の山もあった。



「城門」前から二の丸(一の郭)の石垣を振り返る。



廻り込んで城門方向を見る。



そして「具志川城跡」を後にし、車に向かったのであった。




                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2022.12.19 10:51:34
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