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JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.08.27
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カテゴリ:JINさんの農園
旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」の見学を続ける。
展示物配置案内図



汐留の記憶」。



汐留の記憶
このあたりは、もとは藻の生い茂る海辺でした。江戸時代初期に埋め立てられ、溜池から海に
通じる水路が江戸城外堀となりましたが、この付近にあった土橋に堰を設けて潮の干満が中に
及ぶのを防いだことから、汐留という地名が生まれたようです。三代将軍家光のころ、龍野藩脇坂家、
仙台藩伊達家、会津藩保科家がこの地に屋敷を拝領しました。
1870 (明治3 )年、汐留の一角に鉄道建設のための最初の測量杭が打ち込まれ、1872
(明治5 )年に鉄道が開業すると、この地は新橋停車場として東京の玄関となり、日本の近代化を
象徴する場所となりました。1914(大正3)年の東京駅開業後は貨物専用の汐留駅となって、
日本の経済発展を支えました。
1934 (昭和9)年から1936 (昭和11)年にかけて汐留駅の大改良工事が行われ、本格的な
貨物駅としての機能が強化されました。戦後も増強工事が行われ、復興と高度成長の時代を
通じて、汐留駅は物流の大拠点として重要な役割を果たし続けましたが、1986
(昭和61)年10月31日、その使命を終えて廃止され、114年の歴史に幕を下ろしました。」


芝口南、西久保 愛宕下之圖」。
収図範囲は、愛宕山と増上寺を中心とした芝一帯。芝口橋から南へ金杉橋までの大通りは東海道。
江戸最古の通りで、寛永年間には町地が形成されていた。東海道と愛宕山、増上寺に挟まれた
一帯が愛宕下で、別名・大名小路。遠山金四郎の屋敷などがある。増上寺は徳川家の菩提寺で、
秀忠をはじめ6人の将軍が眠る。増上寺の西には南禅寺塔頭の金地院がある。「黒衣の宰相」と
いわれた金地院崇伝が住した。愛宕山の愛宕神社は家康が征夷大将軍就任時に建立し、関が原の
戦勝を祈願した勝軍地蔵を祀る。景勝地でもあり多くの人が遊山に訪れる名所。



尾張屋版「芝口南西久保愛宕下之圖(寛政2年改正)
左から明治13年迅速図、明治42年測量図(一万分の一)、昭和5年測量図(一万分の一)、
平成12年地形図(一万分の一)。



汐留年表」。
年表によって、汐留地区の移り変わりと鉄道の発展の歴史を紹介していた。



旧新橋停車場再建駅舎模型
縮尺100分の1の模型によって再建された旧新橋停車場駅舎の全容を示していた。」



旧新橋駅停車場 駅舎の再建



「「旧新橋停車場」の駅舎を再建するにあたっては、残された遺構の寸法と当時の鮮明な
外観写真に基づき、元と同じ場所に元と同じ外観を復活させることを基本方針としました。
現行の建築法令を守り、耐久性のある建物を建てるためには、創建時と全く同じ材料、技法、
構造を使うことはできませんが、できるだけ忠実に創建当時の姿を再現するように努めました。
また、見学窓を設けて地中に保存される遺構の一部をじかに見ることができるようにしました。
当時の外観について明確な資料が残されていない部分(正面玄関の中央部)や現代の必要に応じて
新たに付け加えられた部分(電気、水道などの取り入れ部と車椅子用・スロープ)は、再現部分と
異なる材料と意匠を用いて新たに創作されたものであることが分かるようにし、創建時の意匠と
混同されることがないように配慮しています。」



「左の二つの鮮明な竣工時の写真と発掘された遺構の寸法から、コンピューターによる
3次元解析によって、外観寸法を正確に割り出しました。
上:新橋駅の外観
(横浜開港資料館)
下:新橋ターミナルの開業式場
(横浜開港資料館)」



1階展示室の床の一部はガラス張りで、開業当時の駅舎基礎石の遺構を見ることが出来た。



移動して。



駅舎とプラットホーム」。



「旧新橋停車場の駅舎は、木骨石張り2階建ての左右の棟にはさまれて木造平屋の正面玄関があり、
奥にあるプラットホームに通じていました。設計者はアメリカ人のR・P・プリジェンスです。
プラットホームは長さ151.5m、幅9. 1m、高さ1.2mで駅舎側約90mに屋根がありました。」
駅舎の基礎
駅舎の2階建て部分の地盤を強化するために、2本(まれに3本)を一組にした長さ3.6mの松杭が
多数打ち込まれていました。角材とカスガイが各組の松杭の頭部をしつかりと繋いでいました。」



石積み
駅舎部分では切石の小ロ面と長手面が各段毎に交互に積まれ、5段目には笠石を乗せるための彫り
込みの痕が残っていました。
プラットホームの切石は最高で5段目まで残っていましたが、もとは笠石を含めて6段あり、
上3段が地上に出ていました。最下段部分は小口面を揃えて横に並ばせ、2段目から小口面と
長手面を交互に並べて積み重ねていました。上屋は駅舎側約90mの部分に建っていました。」



伊豆斑石
石質は、伊豆下田周辺から切り出された凝灰岩の一種である”伊豆斑(まだら)石”。
プラットホーム石積みや、駅舎基礎石積み、駅舎外壁にも使用されている。
*伊豆石について
伊豆石は大きく分けて安山岩と凝灰岩がある,旧新橋駅舎に使用されているのは後者。
安山岩は硬い石で火山の溶岩が固まったもの。江戸城を始めとする石垣に利用された。
もう一つの伊豆石,凝灰岩(軟石)は火山礫や火山灰が固まったもので構成粒子の違いで出来る
層理面が美しく装飾的な部分にも多様された。江戸後期~明治時代の洋風建築に,その色合いの
良さからさかんに利用された。現在はほとんど採掘されていない。
往時の採掘跡空洞を,温泉浴室として利用しているホテルが下田にある。」



出土面
出上した状態のままの面です。風化が進んでいるため当時の切断痕を見ることは出来ません。
関東大震災で焼失するまで、約半世紀にわたって外気に触れていた旧新橋停車場の壁面にも、
この出土面のような凹凸が出来ていたのかも知れません。」
切断面
この展示のために切断した面です。旧新橋停車場駅舎の創建当初の壁面についての説明した
資料は見つかっていませんが、この切断面のように奇麗に仕上がっていたのかもしれません。」


駅舎玄関遺構
こに残されているのは、正面玄関の階段の最下段として使われていた切石です。正面玄関の階段は
9段あったことが、当時の写真から分かっています。」



再び正面階段前の見学窓を覗く。
埋め戻された旧新橋停車場駅舎正面階段の遺構を見ることができたのであった。



旧新橋停車場駅舎の北側をみる。



その先、左側にあったのが「パナソニック汐留美術館」。
「パナソニック汐留美術館は、2003年4月に現在のパナソニック東京汐留ビル4階に、
社会貢献の一環として開館しました。当館は、フランスの画家ジョルジュ・ルオー
(1871-1958)の初期から晩年までの絵画や代表的な版画作品など約260点を
コレクションしており、これらを世界で唯一その名を冠した「ルオー・ギャラリー」で
常設展示するほか、「ルオーを中心とした美術」「建築・住まい」「工芸・デザイン」を
テーマとした企画展を通じて、私たちのこころとくらしを豊かにする活動を続けています。
当館は「東京・汐留」というロケーションを活かした都市型の美術館として文化的空間を創造し、
芸術とのふれ合いを通して皆さまに新しい価値観と感動をお届けしてまいります。」と。
港区東新橋1丁目5−1 パナソニック東京汐留ビル。



次に訪ねたのが「汐留シティセンター」。
シルバーに輝く巨大オブジェが迎えてくれた。
港区東新橋1丁目5−2。



作者:Zhan Wang
展望 / heaven of matter



壁には巨大絵画も。
詳細不明。



ここにも。彫刻「Deep Six」



そして徒歩にて「ゆりかもめ新橋駅」の横を通過し「JR新橋駅」まで歩く。
「JR新橋駅」の汐留口を出て左側、「ゆりかもめ新橋駅」の入り口の正面にあるモニュメント
港区新橋2丁目17−14。



D51機関車の動輪」。



D51機関車の動輪
D51機関車は1936年(昭和11年)に誕生した機関車です。10年間で1115両と、
日本のSLでは一形式で最多の両数が製造され、戦前、・戦後を通じて全国各地で、主に
貨物用として活躍しました。「デゴイチ」などの愛称で親しまれ、蒸気機関車の代名詞にもなり、
1975年(昭和50年)のSL最後の運転まで重用され、使命を全うしました。展示されて
いる動輪は、1976年(昭和51年)の総武・横須賀線乗り入れ記念として、北海道の
札幌鉄道管理局から譲り受け、鉄道発祥の地である新橋駅に設置したものです。」
鉄道唱歌の碑
1957年(昭和32年)、10月4日の鉄道開通85周年記念日に鉄道歌の作家、大和田建樹生誕
100年を記念して新橋駅に建立されました。鉄道唱歌は、長い間私たちのために働いた
鉄道を讃えるだけでなく、明治時代の文学者大和田建樹自身が実際に汽車に乗ってつぶさに
日本国内を旅行した見聞録です。」



そして隣に「鉄道唱歌の碑
鉄道唱歌の作詞家大和田建樹先生は安政四年(一八五七)四月二十九日愛媛縣宇和島に生まる
幼少國漢文に親しみ十五歳以降特に國学に志した明治七年十八歳の秋上京遊学十七年東京大学
講師翌年高等師範学校教授二十四年辞任爾来又官任せず門を開いて歌文を教え地方に出講し
行餘謡曲能舞を嗜む学は漢洋に亘り著述は辞典註釋詩歌随筆百五十冊を越えたが三十二年
鉄道唱歌東海道山陽九州奥州線磐城線北陸地方關西参宮南海各線の五冊を連刊就中汽笛一声新橋を
の一句で始まる東海道の部は普く世に流布して津々浦々に歌われ鉄道交通の普及宣傳に絶大の
貢献をなした先生明治四十三年十月一日に没す享年五十四今年恰も生誕百年に當って先生の
遺弟待宵舎同人の発起により東海道鉄道唱歌にゆかり深い新橋驛構内に碑を建て永く先生を
記念する 昭和三十二年十月安倍能成」。

作詞は、大和田建樹(おおわだ たけき)
作曲は、多梅稚(おおの うめわか) という方々。
鉄道唱歌は、日本に初めて鉄道が開業した28年後の明治33年に発表されたとのこと。
全5集にわたり334番まであるという超大作
※399番まであるという説もあると。
地理教育 鉄道唱歌 第一集というタイトルで東海道編が出版されたと。

汽笛一声新橋を
はや我汽車は離れたり
愛宕の山に入りのこる
月を旅路の友として

右は高輪泉岳寺
四十七士の墓どころ
雪は消えても消えのこる
名は千載の後までも

窓より近く品川の
台場も見えて波白く
海のあなたにうすがすむ
山は上総か房州か



そして「新橋駅・日比谷口SL広場」へ。
この日は「新橋こいち祭り」が行われていた。
植え込みもあり、また12:00、15:00、18:00には数秒間汽笛も鳴るとのこと。
クリスマスにはイルミネーションで飾られ美しいいのだ。
港区新橋2丁目7。



2023年7月27日(木)と7月28日(金)の2日間、東京・JR新橋駅周辺で「第26回 新橋こいち祭」が
4年ぶりにリアル開催と。
お祭りの名称は、新橋地区に住む人、働く人、遊ぶ人に「小1時間 (こいちじかん)新橋で遊んで
行ってください」という願いを込めて『新橋こいち祭』と命名されたとのこと。



多くの出店ブースが並んでいた。



そして多くの客がテーブルを囲んで。



JR新橋駅方向を見る。



特徴的な低中層階外壁の格子のある「ニュー新橋ビル」方向。
港区新橋2丁目16−1。



愛のライオン像」。
新橋駅日比谷口を出て交番の前、東京新橋ライオンズクラブ25周年を記念して、身心障害者のための
募金箱として設置された作品。

台座には「身心障害者に愛の手を」と記されて募金箱が置かれていた。
港区新橋2丁目16−2 愛宕警察署新橋駅前交番。



近づいて。



乙女と盲導犬の像」。
これも新橋駅SL広場ニュー新橋ビルの前、盲導犬普及のために設置された銅像。
東京虎ノ門ライオンズクラブによって設置された。この銅像の設置を機に盲導犬パレードや
募金活動がはじまったという。当時の盲導犬はシェパードが主流だったことから、銅像も
シェパードである。
港区新橋2丁目16。



台座には作詞家、脚本家の川内康範氏による詩が刻まれていた。
街はこんなにも明るいのに
どこかに翳りがある
こころのささくれ
あなた
語らずにぬくもりを
求められずにぬくもりを
あの街に
この街に
      川内康範



そして、この日の目的地の大崎駅近くの事務所に向かったのであった

                               ・・・​もどる​・・・



                  ・・・END・・・








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Last updated  2023.08.27 07:37:58
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