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JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.01.19
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カテゴリ:JINさんの農園
特別展示令和の御代を迎えてー天皇皇后両陛下が歩まれた30年」ポスター。



特別展示令和の御代を迎えてー天皇皇后両陛下が歩まれた30年」展示会場へ。



天皇皇后両陛下



ごあいさつ
令和5年(2023)、天皇陛下におかれては御即位5年、そして天皇皇后両陛下の御成婚30年の
節目を迎えられました。令和の御代を迎えてまもなく、世界各地へと急激に広がった新型コロナ
ウイルス感染症によりご活動の機会か限られながらも、両陛下はオンラインによる国内各地へ
のご訪問など、新しい形によるご公務に取り組まれ、コロナ禍に過ごした国民の苦楽に、常に
心を寄せてこられました。
このたび、装い新たとなった皇居三の丸尚蔵館において、ご結婚以来、両陛下がともに歩まれ
てきた30年の軌跡を、両陛下ゆかりのお品とともに紹介する展覧会を開催いたします。
本展では、ご結婚の儀式のご装束やドレスをはじめ、愛子内親王殿下の健やかな成長の願いが
込められたお召し物などが並びます。また、御即位の儀式で用いられたご装束や調度の品、各方
面から寄せられたお祝いの品のほか、両陛下が皇室の伝統行事を受け継がれたご様子もあわせ
て紹介いたします。
このたびの企画にあたっては、両陛下の深いご理解を賜り、貴重な品の数々を展示できること
になりました。本展を通して今日までの両陛下の様々なご活動に触れていただくとともに、これ
らの品々が、日本の伝統文化の継承に深く関わるものであることをご覧いただけれは幸いです。
令和5年11月
                                   皇居三の丸尚蔵館」



特別展示の聞催に寄せて
三の丸尚蔵館は、平成元年(1989)に上皇陛下と香淳皇后の思し召しによって美術品など6000点
あまりが国に寄贈されたことを機に、これらを保存管理し、調査研究とともに展示公開を行う
施設として平成5年秋に開館しました。さまざまな分野、幅広い時代におよぶ収蔵品の魅力を
紹介し、皇室と文化との関わりを内外に広く発信してきた30年におよぶその活動は、令和元年
(2019)から始まった施設・設備の拡張整備工事や職員の増員につながることになったといえます。
そしてこの10月には、三の丸尚蔵館は宮内庁から離れて独立行政法人国立文化財機構の一員と
なり、新たな出発を迎えたことで、今後のさらなる発展が期待されるところです。
今年、天皇皇后両陛下におかれては、御即位5年・御成婚30年の節目を迎えられました。
三の丸尚蔵館では、令和2年2月に御即位に関する一連の儀式の様子と、両陛下のこれまでの
歩みを紹介する特別展を開催しましたが、新型コロナウイルスの感染拡大により中断を余儀なく
されました。三の丸尚蔵館が新たな展示室で、展示公開の活動を再開するにあたり、令和2年の
展覧会の内容をさらに充実させた形で、本展が聞催されることは大変意義深いことです。
国民とともにある皇室を、両陛下ゆかりの品々を通して感じていただけれはと思います。
令和5年11月
                            宮内庁長官
                            西村泰彦」



出品目録(1/2)



出品目録(2/2)



そして、会場内展示室は撮影禁止でしたので、ネットからの写真を順不同でアップ
させていただきます。
展示室内の展示状況







「結婚の儀」天皇皇后両陛下ご装束



「結婚の儀」天皇陛下ご装束 束帯 黄丹袍



令和度 悠紀地方風俗歌屏風 右隻 和歌:篠弘 絵:田渕俊夫



大嘗宮の儀のために制作された「悠紀地方風俗歌屏風」(左)
制作者は田淵俊夫・東京芸術大名誉教授



令和度 主基地方風俗歌屏風 左隻
和歌:永田和宏 絵:土屋禮一



大嘗宮の儀のために制作された「主基地方風俗歌屏風」(右)
制作者は土屋礼一・金沢美術工芸大名誉教授



大饗の儀で天皇、皇后両陛下の前に飾られた銀製の置物




皇后雅子さまが天皇陛下との結婚の儀で着用された十二単(ひとえ)



天皇陛下が5歳の時に初めてはかまを着る儀式「着袴(ちゃっこ)の儀」で着用された装束



左:「宮中饗宴の儀」で雅子さまがお召しになった杏色のローブモンタント 展示期間全期間 
右:愛子さまの御初召と上皇ご夫妻から贈られた犬張子 展示期間前期 


左:天皇陛下が愛用されている天体反射望遠鏡 展示期間全期間
右:天皇陛下がご幼少時に使用されたヴァイオリン皇后陛下が使用されていたフルート 
  展示期間全期間

ボンボニエール
ご結婚ご祝宴。



そして第2会場に戻り、設置されていたモニター画面で「三の丸尚蔵館の国宝のすべて」を観る。



喪乱帖(そうらんじょう) (原跡)王羲之 1幅
中国・唐時代(7~8世紀)
書聖王羲之(4世紀)の書状集。冒頭の行に「喪乱」の文字があるので呼ばれる。
「東晋時代に活躍して、書聖として尊ばれた王羲之(三〇七~六五)自筆の、別々の三つの書簡の
部分を、双鉤填墨(そうこうてんぼく)という、文字の輪郭を線にして写し、その内側を墨で
塗りつぶす一種の敷き写しの技法を用いて表現した中国・唐時代の模本です。点画の跳ねや、
文字と文字がつながる箇所では、輪郭線の内側に、細かい線が丁寧に重ねられ、かすれた感じが
よく表されています。精巧な技法で作り上げられており、普通に墨で書いた文字のようにみえる
ため、極めて優れた模本であると評価されます。王羲之自筆の書は、後には全て失われ現存して
いないことからも、その書風を今に伝えてくれる名品で世界的に貴重な作品といえます。
京都御所に伝来したと考えられ、後西(ごさい)天皇(一六三七~八五)の崩御後、御遺物として
異母弟の堯恕(ぎょうじょ)法親王の手に渡って以降、親王が門跡を務めた妙法院に伝来し、
明治十三年(一八八〇)再び皇室に献上されました。(高梨)」
と、購入した案内本から(以下同様)。



たてに簾目状の筋目のある(縦簾紙)料紙に書かれた唐時代の搨模(透き写し)本。
袖に「延歴勅定」の方印の左辺部が残る。明治13年(1880)妙法院献上。



屏風土代 小野道風 1巻
平安時代 延長6年(928)
平安時代中期の能書・三跡の筆頭である小野道風(八九四~九六六)三十五歳の書です。
『日本紀略」の延長六年(九二八)十二月の条に、醍醐天皇の勅命により、内裏で新調する屏風の
題詩を漢学者・大江朝綱に作らせ、道風に書かせたとする記事があり、
そのための下書き(土代)を巻子にしたものと考えられています。和様の創始者といわれる道風の
重厚で温かみのある書風で、随所の書き入れや訂正からは、推敲の跡がみてとれます。
巻末には、三跡のひとり・藤原行成を祖とする世尊寺家五代・定信(一〇八八~一一五四~? )の
奥書があり、保延六年(一一四〇)に行成の《白氏詩巻》(東京国立博物館所蔵)一巻とともに本巻を
購入したことがわかります。後世の能書として知られる伏見天皇(一二六五~一三一七)の
《屏風土代臨模》(御物)などからは、本作が手本として尊ばれたことがうかがえます。明治時代に
井上馨の所蔵となり、大正十四年(一九二五)に井上家から大正天皇に献上されされました。
(山田)。」




金沢本万葉集 藤原定家 2帖 平安時代(12世紀)
『万葉集」巻第二および巻第四残巻からなる平安時代の古写本で、名称は金沢(加賀)藩主前田家に
伝来したことにちなみます。料紙は主に三椏(みつまた)紙を用い、表裏共に白・黄・緑の
具引き地にさまざまな型文様が雲母摺り(きらずり)され、一部に金銀箔、布目打などの装飾を
もつ、和製唐紙が用いられます。筆者は、和様の書を大成させた平安時代中期の貴族、藤原行成に
始まる世尊寺家第五代定信(一〇八八~一一五四~?)とされます。その字の特徴は、全体の流れの
美しさを求め、早い運筆による右肩上がりの独特なもので、本作でも、速筆で字形にとらわれず、
全体的な流れや流動感により美しさを追求しています。美しい装飾料紙に、技法を駆使した
完成度の高い筆跡が調和した作品となっています。前田家に残る巻第三、巻第六残巻および手鑑
「野辺のみどり」のなかの断簡(以上、前田育徳会所蔵)とともに一帖として伝来しましたが、
明治四十三年(一九一〇)七月八日に明治天皇の前田邸行幸(ぎょうこう)に際し、分冊のうえ
献上され、近年の保存修理事業において現状の二帖となったものです。(髙梨)」。



金沢本万葉集 巻第二。



金沢本万葉集 巻第四。



更科日記 藤原定家 1帖
鎌倉時代(13世紀)
紙本墨書 縦一六・四cm 横一四・五cm
「菅原孝標女が著した日記体裁の回想記である『更級日記』を、鎌倉時代に歌道で活躍した貴族・
藤原定家(一一六二~一二四一)が書写した冊子で、末尾の奥書には「『更級日記』の冊子本を
入手したが、貸与先で紛失したため、その時写された写本から転写した。誤字が多く、不審箇所
には朱を入れ、注記した」と定家による本作を書写した経緯が記されます。これを裏付ける
ように、書写文の傍らには定家による「勘物(かんもつ)」と呼ばれる注記や朱点などが確認
できます。料紙には雁皮紙(がんびし)が使われており、「括(かつ)」という料紙五または六紙を
二つ折りにした束を十枚重ねて、全体で綴じた綴葉装(てつちょうそう)という装幀(そうてい)に
されています。近代の調査により伝来のなかで括の順番に入れ替わりのあるこが判明しました。
この冊子は、『更級日記』の本文を伝える最古写本であり、流布しいる諸本の祖本と考えられる
ため貴重です。後水尾上皇の時代の仙洞(せんとう)御所に伝来していたことが知られます。
(髙梨)」。





蒙古襲来絵詞 2帖
鎌倉時代(13世紀)
「文永十一年(一二七四)と弘安四年(一二八一)の二度、モンゴル帝国は海を越え北九州に襲来
しました。元寇(げんこう)の名で知られるこの事件を記した史料は数多くありますが、同時代に
絵画として制作され、かっ今日まで伝存するのはこの絵巻が唯一です。蒙古軍の衣服などの風俗、
武器、戦闘方法を視覚的に伝える貴重な作品です。
文永の役を描いた前巻における、炸裂する「てつはう」と奮戦する竹崎季長(たけざきすえなが)
(一二四六~? )の場面は、教科書で誰もが一度は目にしたことがあるでしよう。後巻は弘安の役を
描きますが、菊池氏一軍が居並ぶ石築地の前を悠然と出陣してゆく季長主従、それに続く海上での
戦闘は臨場感に溢れ迫力があります。
本作は明治二十三年(一八九〇)に大矢野十郎から宮内省が買上げましたが、伝来の過程で失われた
箇所も多く、錯簡(さっかん)(前後の順序が入れ替わっていること)、絵と詞書が少なくとも二種類
認められるなど、現状
は極めて複雑な様相を呈しています。(野中)」



蒙古襲来絵詞 前巻
馬を射られて苦戦する季長と、弓・槍で季長を襲う蒙古兵。
画面中央上では鉄砲(「てつはう」)が爆発している。



負傷して退却する蒙古兵。



蒙古襲来絵詞 後巻
季長が志賀島へ向けて生の松原(いきのまつばら)を出発する場面。画面中央の騎馬武者が季長。



その奥で石築地(いしついじ)に腰掛け、赤い扇子を手にしている人物が肥後国の有力御家人
菊池武房(きくち・たけふさ)。



春日権現験記絵 高階隆兼 20巻
鎌倉時代、延慶2年(1309)頃
「《春日権現験記絵》は藤原氏の氏社である奈良の春日大社の権現(仏や菩薩が化現した姿、
ここでは春日明神を指す)の験記(利益など不思議な出来事の物語)を絵と詞書(ことばがき)(文字)
によって語る絵巻です。十四世紀初め、春日大社に詣でたことで利益を得た左大臣・西園寺公衡
(きんひら)が発願して制作されました。絵は宮中の画業を担う絵所を統括した絵所預の高階隆兼、
詞書は前関白の鷹司基忠とその息子三人という、当時一流の人々が筆を執りました。
絵巻としては珍しい絹地の上に広がる豊かな色彩と精密な描線は、制作から七〇〇年以上の時を
経た今もなお驚くほど鮮やかです。とりわけ巻十九にみえる初冬の御蓋山(みかさやま)と春日山は
中世絵画の白眉(はくび)といえるでしよう。衆徒らの決起と血生臭い戦闘の場面の間で、雪降る
深閑とした神域が際立っています。」



藤折枝蒔絵箱」。



藤折枝蒔絵箱 鎌倉時代(14世紀)/木製漆塗・蒔絵
「春日権現験記絵」(1-1)を納めていた箱。黒漆塗りの箱の蓋表と金銅製の金具には、それぞれ
金高蒔絵と透かし彫りにより、藤原氏と春日大社にゆかりの深い藤花の文様が表されています」。



春日権現験記絵 巻十二



ズームして。



唐獅子図屏風
[右隻]狩野永徳、[左隻]狩野常信
6曲1双
[右隻]桃山時代(16世紀)、紙本金地着色 縦二二三・六cm 横四五一・八cm
[左隻]江戸時代(17世紀)、紙本金地着色 縦二二四・〇cm 横四五三・五cm」
三頭の唐獅子を、六曲一双の金地の大画面に描いた作品です。左右隻で時代と筆者が異なり、
右隻は桃山時代の狩野永徳(一五四三~九〇)、左隻は永徳のひ孫の狩野常信(一六三六~一七一三)
が、江戸時代初期に、右隻にあわせて補作したものです。
本図の特徴は、何といってもその大きさにあります。通常の屏風をはるかに超える大きさから、
右隻は本来、大きな建築物の床の間の壁画であった可能性が指摘されています。筆者の永徳は
織田信長や豊臣秀吉ら時の権力者に仕え、彼らのために多く絵筆をふるいました。あるいは本図も
そのような御殿の一室を飾っていた可能性も考えられます。
右隻にみる、濃彩と豪快な筆致による、明るく躍動感あふれる表現は、永徳の真骨頂ともいえる
ものです。永徳の代表作であるだけでなく、この時代の雰囲気を濃厚に伝える作品として、
令和三年(二〇二一)に、左隻とともに国宝に指定されました。
長らく萩藩毛利家に伝来し、明治二十一年(一八八八)に旧藩主の毛利元徳より、皇室に献上された
作品です。(戸田)」


唐獅子図屏風[右隻]狩野永徳」 



ズームして。



唐獅子図屏風[左隻]狩野常信」。



伊藤若冲「動植綵絵」 
左:梅花群鶴図 中央:南天雄鶏図 右:諸魚図
八幅(三十幅のうち)
江戸時代(十八世紀)絹本着色
縦一四一・八cm~一四三・四cm 横七九・一~八〇・一cm
三十幅にわたって、極彩色にいろどられた多種多様な動植物が描かれます。伊藤若冲(一七一六~
一八〇〇)の代表作として近年人気を博してきましたが、令和三年(二〇二一)に国宝に指定
されました。
《動植綵絵》はもともと《釈迦三尊像》三幅対とともに京都・相国寺に寄進され、さまざまな
儀礼で用いられていました。若冲は京都・錦小路の青物問屋「枡源」の主人で、相国寺の高僧・
大典褝師に帰依し、隠居後はもっぱら作画に打ち込みました。若冲は「名声のために描いたのでは
ありません。寺の荘厳をたすけ、永久に伝わってほしい」と、附属の《寄進状》に記しています。
明治二十二年(一八八九)、本作は皇室へ献上され相国寺を離れましたが、その際の下賜金によって
人手に渡っていた寺地を買い戻すことができたといいます。
《動植綵絵》には鶏や鳳凰を大きく描くものがある一方、花弁や昆虫で画面全体を覆いつくす
ものもあり、それまでの花鳥画とは異なった独特の構成感覚があらわれています。花や鳥は
驚くほど細かく描き込まれ、樹木や岩も各幅で意識的に描き分けられており、作画への並々
ならぬ気迫を感じさせます。(上嶋)」。



中央:南天雄鶏図 をズームして。



伊藤若冲「動植綵絵」 

左:菊花流水図 中央:芙蓉双鶏図 右:紅葉小禽図



左:菊花流水図をズームして。
白い菊の花は、裏彩色に胡粉が薄く施され、表は胡粉で濃淡がつけられていると。



伊藤若冲「動植綵絵」 
左:老松白鳳図 中央:蓮池遊漁図 右:秋塘群雀図



秋塘群雀図」をズームして。




                                    ・・・​もどる​・・・



                     ・・・完・・・










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Last updated  2024.01.20 07:03:21
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