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JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.01.24
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カテゴリ:JINさんの農園

民宿 さつき<石川県>


「芝丸山古墳」へ向かう途中にあったのが「丸山随身稲荷大明神」。



丸山随身稲荷大明神
円山稲荷は、増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占め、史跡として指定されている丸山古墳上にあります。随身稲荷の由来は、増上寺がこの地に移建当時桑名より迎えた御本尊を守護する為に江戸までお供されたいわれにより、以来永く鎮守まします大明神であります。
                  大本山 増上寺」。



朱の鳥居の扁額「圓山随臣 稲荷大明神」。



社殿に向かって進む。



狛狐(右)。



狛狐(左)。



社殿正面。
芝東照宮の末社



ここの扁額も「圓山随臣 稲荷大明神
そして大きな「本坪鈴(ほんつぼすず)」が。



社殿の鳥居前には多くの賽銭そしてワンカップが奉納されていた。



幟「正一位円山随臣稲荷大明神」。



そして「芝丸山古墳」。
ここ芝公園が所在する標高約16メートルの台地先端部に位置し、前方部を南南西に向ける
前方後円墳である。
築造は5世紀中頃過ぎ(4世紀後半との説もある)とみられ、墳丘長125メートル(案内板では
106メートル前後)という都内では最大級の規模である。江戸時代には後円部頂が崩され、
広場になっていたとみられている。
1892年(明治25年)、3年間のヨーロッパ留学を終えた自然人類学者の坪井正五郎は、日本へ
帰国する船上、故郷の風景を思い浮かべていると芝公園内にある丸山の高さに不自然さを感じた。
1898年(明治31年)に坪井が発掘調査をしたところ、埴輪や須恵器などの遺物を発見した。
しかし後円部が削られたため埋葬施設は確認できず、発見された遺物も周囲の小型円墳由来で
ある可能性も否定できなかった。



丸山古墳」碑。



東京都指定史跡 芝丸山古墳」碑。



東京都指定史跡 芝丸山古墳
芝丸山古墳
所在地 港区芝公園四丁目 都立芝公園内
指定  昭和五四年三月三一日
全長一○六メートル前後、後円部径約六四メートル、前方部前端幅約四○メートル、くびれ部
幅約二二メートルほどの、都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。標高約一六メートルの
台地端に位置し、前方部を南南西に向けている。
江戸時代以降、原形はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削られて
しまっている。明治三一年に、日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、
すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、遺体や副葬品
なども不明である。なお、埴輪を伴うことは知られている。
前方部が狭く低い形態や、占地状態などから5世紀代の築造とみられており、そのころ、附近の
低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた、南武蔵の有数の族長の墓
だったと考えられる。
  平成二年一二月二七日 再建  東京都教育委員会」



以下、ネットから。

(左)明治31年に行われた芝丸山古墳発掘時に撮影されたと推測される写真。出土した
   切石の上に立つのが坪井正五郎です。
   個人蔵「学習院大学史料館寄託」(港区立郷土歴史館特別展『港区と考古学』3頁 転載)

(右)芝丸山古墳の測量図(赤ラインは編集部による)。西側が削られてしまいましたが、
   前方後円形がよくわかります。
       「東京都教育委員会所蔵」(東京都教育委員会1985『都心部の遺跡-貝塚・古墳・江戸-』
        193頁 転載)



そして「大野伴睦句碑
昭和38(1963)年6月調理師法施行5周年にあたって、調理師会の名誉会長として尽力した 
政治家大野伴睦氏の労に謝するため贈呈されたものであると。



近づいて。
大野 伴睦は、日本の政治家。 東京市会議員を経て衆議院議員となり当選13回、衆議院議長、
北海道開発庁長官、日本自由党幹事長、自民党副総裁を務めた。
典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称で親しまれた。
「虎」は何をあらわしているのであろうか?



自民党派閥の政治資金パーティーを巡る事件は2023年12月28日、東京地検特捜部が前日に
続いて国会議員の関係先を捜索し、強制捜査の対象が広がった。「清和政策研究会」(安倍派)
から高額のキックバック(還流)を受けた疑いが出ている大野 泰正やすただ ・参院議員(64)は
この大野伴睦の孫にあたるのだ。



鐘がなる 春のあけぼのゝ 増上寺
   昭和38年(1963)6月 調理師会」
調理師法施工5周年にあたって、伴睦が長年調理師会の名誉会長として尽力した労に謝するため贈呈されたものであるとのこと。



そして次に向かったのが「伊能忠敬測地遺功表」。



枯れ落ち葉を踏みしめて進む。



伊能忠敬の測量の起点となったのが、この芝公園近くの高輪の大木戸であった関係で、
東京地学協会がその功績を顕彰して遺功表を建てた。
明治22年(1889)に高さ8.58mの青銅製の角柱型のものが設置されたが、戦災で失われたため、
昭和40年に現在のものが再建されたと。
東京都港区芝公園4-8 (芝丸山古墳内)



2枚の石碑のうち1枚には日本列島と地球儀が。



もう1枚には碑文と天の川・星々が彫り込まれていた。
よく見ると、天の川の中にカシオペヤ座のW字のような並びと、その上に北極星とこぐま座らしい
星の並びがあった。観測地点の緯度を知るには北極星の高さが重要な基準となるので、
測地遺功表に北極星が刻まれているのは理にかなっている。
とすると、写真手前はカペラ、奥の2星はベガとデネブ?。



「伊能忠敬先生は1745年(延享2年)上総國に生れて下総國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて
後50歳のとき江戸に出て高橋至時のもとで天文暦教の学を究めた。先生の卓見と創意とによる
測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び1818年
(文政元年)江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって続けられ
わが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。
その偉業は引きつがれて1821年大中小の大日本沿海輿地全圖が完成せられその精度の高きことは
世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測両局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子と
したものである。東京地学協會はその航跡を顕彰して1889年この地に贈正四位伊能忠敬先生
測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦中に失われるに至った。
扔つて今回各方面の協賛を得、この碑を再建した次第である。
    1965年5月
    社団法人東京地学協會 會長細川護立」。



そして芝丸山古墳を下る。



再び東京タワーが姿を現した。



「芝公園」の北東の隅・日比谷通り側にあった
旧台徳院霊廟惣門(だいとくいんれいびょうそうもん)」を裏側から見る。
江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟の惣門だった建物(重要文化財)
台徳院(だいとくいん)は 秀忠の死後に贈られた名前(諡号/しごう)であると。
正式には「台徳院殿興蓮社徳入西大居士(だいとくいんでんこうれんじゃとくよにゆうさ
いだいこじ)」。
霊廟は、秀忠が死去した1632年(寛永9年)に増上寺境内南側南側に建立された
徳川家霊廟の中で最も規模の大きなものだったが、1945年(昭和20年)の東京大空襲で
大部分が焼失。惣門・勅額門・御成門・丁字門が残された。
惣門は現地に保存されたが、勅額門・御成門・丁字門は、1960年(昭和35年)に所沢市の
狭山不動寺(埼玉県)へ移築されている。



三間一戸八脚門、入母屋造、前後裾唐破風付、銅瓦葺
唐破風(からはふ)とは、日本の城郭建築などにみられる頭部に丸みをつけて造形した
破風の一種。唐と付くが日本特有の建築技法であるとのこと。
唐破風には多くの黄金の徳川家・葵のご紋が。



正面に回り込むと「仁王像」が左右に。



近づいて。



阿形像(右)。



お顔をズームして。



吽形像(左)。



お顔をズームして。



港区指定有形文化財
彫刻 木造仁王像 二躯
重要文化財「旧台徳院霊廟惣門」の左右に安置されている寄木造り、砥粉地彩色の仁王像で、
方形の台座に乗った岩坐の上に立っています。
平成十六から十七年に行われた修理の際に、体内から修理銘札が発見され、元は埼玉県北足立郡
戸塚村(現在の川口市西立野)の西福寺(真言宗)仁王門に安置されていたもので、寛政元年
(一七八九)、弘化三年(一八四七)の二度にわたり修理が行われていることがわかりました。
さらに安政二年(一八五五)の暴風で破損したまま同寺の観音堂の片隅に置かれていたものを、
昭和二十三年(一九四八)、同寺三重塔の修理と同時期に三度目の修理が行われた後で、
東京浅草寺に移されたことも記載されています。その後の経緯は詳らかではありませんが、
昭和三十三年ごろまでにはこの惣門に安置されたと考えられます。本像は十八世紀前半までには
江戸の仏師によって制作されたと推測され、江戸時代の仁王像として破綻のない作行きを示
す貴重な作品です。
 像 高  阿形 二四三・五センチメートル
      吽形 二四七・〇センチメートル
 平成十八年十月二十四日  港区教育委員会」



最後に振り返って。



銅瓦葺の屋根の先には東京タワーが。



増上寺境内前まで進んでいくと、左手にあった「増上寺 慈雲閣(開山堂)」を
日比谷通り側から見る。



その先にあったのが芝増上寺の土塀。土を厚く塗って固めた「築地塀(ついじべい)」。
「築地塀」とはいわゆる土塀のことで、単に築地(ついじ)とも言います。主に、石垣を台座として
塀の中心となる部分に木の柱を立て、柱を中心に木枠を組み、そこに練り土(粘土質の土に
油や藁などを混ぜた土)を入れて棒で突き固める版築(はんちく)工法で作られたものを呼びます。
塀の上部には雨除けに瓦屋根が葺かれ、表面も漆喰で仕上げられました。古くは土のみで
作られましたが、強度を増すため、雨水から守るため、染み込む雨水の水はけを良くする為に、
瓦を間に入れて作られるものも登場しました。その場合も、表面に瓦が見えないように全体的に
漆喰で仕上げるものと、あえて瓦を見えるように瓦と瓦の間を漆喰で仕上げるものなど、様々です。
築地(ついじ)は、もとは築泥(つきひじ)と呼ばれていたとされます。字のごとく泥を積み上げて
作ることからそう呼ばれており、のちに築地と転じたため、築地塀(つきじべい)ではなく
築地塀(ついじべい)と発音するのだ と。



「築地塀」の断面の構造をネットから。



その先にも、歴史を感じさせる「増上寺旧方丈門(黒門)」があった。



「増上寺旧方丈門(黒門)」越しに増上寺境内を見る。
銀杏の樹が美しく黄葉していたのであった。



東京都港区指定文化財
有形文化財 増上寺旧方丈門(黒門)
増上寺の方丈(庫裡)の表門であったので方丈門とよばれ、また全体が黒漆塗であったために
黒門ともよばれた。
四脚門で、建造年代を明らかにする棟札などの記録は見出せないが、江戸時代初期の特徴を示す
様式から十七世紀後半のものと推測される。
蟇股には唐獅子や牡丹が浮彫されていて、精巧で写実的な図柄は、近世の建築彫刻の特色を
示している。長年の風蝕のため、古色をおびているが、桃山建築の豪華さのおもかげがうかがえる。
   昭和五十五年十一月十五日  
              東京都港区教育委員会」




                                   ・・・​もどる​・・・



                  ・・・​つづく​・・・








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Last updated  2024.01.24 00:00:22
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