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JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.02.23
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カテゴリ:JINさんの農園
淨眞寺境内墓地 檀家使用区画見取図」。



正面奥にある開山廟」・「開山珂碩大和尚墓地に向かってすすむ。



突き当りの左側にあった石碑・石仏。


本堂石墻(せきしょう・塀)建立供養塔」と。



右の石仏には「延宝丁巳(5)年(1677)ニ月四日 浄譽一廟元水居士」他多くの戒名が
刻まれていた。



「寄附 本堂永代畳替資料
當村 毛利最市郎 渡邉宇之吉」と。



そして正面に「開山廟」・「開山珂碩大和尚」墓地。
「元和四年(1618)~元禄七年(1694)十月七日遷化法名
「大蓮社 超譽 珂碩 松露 大和尚(だいれんじゃ ちょうよ かせき しょうろ だいかしょう)」
珂碩上人は、元和四年(1618)江戸に生まれ、18歳で浄土宗関東十八檀林の一つである
大巌寺(千葉市)の珂山上人に師事し弟子となります。
そこで梵網経の一節を読み、衆生救済の為に九品阿弥陀佛像の造立を発願いたします。
日に三文ずつを貯えて佛像造立の準備をし、寛文四年(1664)丈六の佛像一躰を造立。
その後、弟子である珂憶上人ご協力のもと同七年(1667)九躰の阿弥陀佛像と一躰の
釈迦牟尼佛像を造立いたしました。
延宝六年(1678)奥沢の地を賜り、九品仏淨眞寺を創建いたしました。
珂碩上人の和歌に、
「野をも過ぎ 山路を越えて奥沢の 九品浄土へ 詣る喜しさ」とございます。
淨眞寺へ参詣されることによって、九品の阿弥陀さまのお慈悲にふれ、極楽往生を願い、
今を生きる幸せを感じていただきたいと思う上人のお心が歌われております。」
と「淨真寺」のHPより。



開山珂碩大和尚第参百年遠忌追恩寶塔」。



隣は「延命地蔵尊」であろう。
延命經日 一者女人泰産」と刻まれた石仏。
女人泰産とは、女性がやすらかなお産が出来ること。



先祖代々一切精靈 清智院大譽浄倫超運居士 大智院觀譽照妙壽善女」と。



南無阿弥陀佛」碑。



横には「文化十酉年七月二十日」と。



墓前の「南無阿弥陀佛」碑。



石段下にあった「井戸」。



「開山廟」・「開山珂碩大和尚」墓地
元和四年(1618)~元禄七年(1694)十月七日遷化法名
「大蓮社 超譽 珂碩 松露 大和尚」
(だいれんじゃ ちょうよ かせき しょうろ だいかしょう)
珂碩上人は、元和四年(1618)江戸に生まれ、18歳で浄土宗関東十八檀林の一つである
大巌寺(千葉市)の珂山上人に師事し弟子となります。
そこで梵網経の一節を読み、衆生救済の為に九品阿弥陀佛像の造立を発願いたします。
日に三文ずつを貯えて佛像造立の準備をし、寛文四年(1664)丈六の佛像一躰を造立。
その後、弟子である珂憶上人ご協力のもと同七年(1667)九躰の阿弥陀佛像と一躰の
釈迦牟尼佛像を造立いたしました。
延宝六年(1678)奥沢の地を賜り、九品仏淨眞寺を創建いたしました。
珂碩上人の和歌に、
「野をも過ぎ 山路を越えて奥沢の 九品浄土へ 詣る喜しさ」
とございます。
淨眞寺へ参詣されることによって、九品の阿弥陀さまのお慈悲にふれ、極楽往生を願い、
今を生きる幸せを感じていただきたいと思う上人のお心が歌われております とネットから。



當寺開山 珂碩上人塔」と。
 


左の石碑には漢文が・・・。



珂碩上人碑銘
日本東陲生瓦斯麟兒卓高・・・・・・・・・・・・・」



ここにも「南無阿弥陀佛」碑。



中央に「無縫塔」の墓碑。



「無縫塔」墓石前から歩いて来た参道を振り返る。



淨真寺の歴代上人の墓石」が並ぶ。
基礎の上に請花をのせ、その上に丸みをおびた長い卵形の塔身をのせた「無縫塔」。


正面から。



この墓碑はどなたのものであろうか?



紅葉が墓碑の上に。



ここにも多くの無縫塔墓碑が並ぶ。



近づいて。



北側に拡がる淨眞寺墓地を望む。





再び無縫塔墓石を振り返る。



立派な墓「林家累代之墓」。



名木百選 イヌシデ(群)」。



イヌシデ」。
和名の由来は、花穂の垂れ下がる様子が注連縄(しめなわ)などに使われる紙垂(しで)に
似ていることから。近縁種のアカシデと区別するため、耐寒性に劣ることから「イヌ」
(劣るの意)をつけている。


「開山廟」・「開山珂碩大和尚」墓地を斜めから。



「三仏堂」前の紅葉を再び。



墓地の奥を望む。



ズームして。



「淨眞寺境内墓地 檀家使用区画見取図」。



引き返して。



淨真寺境内のカヤの黄葉。



「本堂」に向って東に進む。



「本堂」北側の紅葉。



紅葉のカオスが拡がっていた。



角にあったのが「​河口慧海師碑​」👈リンク。



河口慧海師碑」。



「我国最初のヒマラヤ踏破者 日本西蔵学の始祖 在家仏教の首唱者
雪山道人河口慧海師は慶応二年堺市に生る 十五歳釈迦伝に感激精進に入り哲 学館に学ぶ 
廿五歳得度 仏典の正解は原典乃至西蔵訳によるに如かずと悟り  渡印入蔵を志し明治卅三年
単身ヒマラヤの嶮を越え秘境西蔵に入る セラ大学 に学び傍ら医療を施す為に声名高く法王の
知遇を受く 帰国に際し西蔵蔵経を 将来す 後再び入蔵梵蔵両蔵経並に仏像仏具博物標本等
多数を携えて大正四年 帰朝 爾後諸大学に西蔵学を講ず 神足其許に集る師持戒堅固肉食妻帯を
退け 在家仏教の宣揚に努む 信者其門に参ず 梵蔵仏典の和訳西蔵文典西蔵旅行記 等の著あり 
昭和十五年将来蔵経を東洋文庫に寄贈し蔵和辞典編纂会を起す業 半ば戦禍国中に及ぶ 
廿年二月廿四日円寂寿八十
昭和三十二年二月二十四日 文学博士 椎尾弁匡撰                    
             日本芸術院会員 桂月松林篤書」
塔身部237×136×22cm、真鶴の石とのこと。



「和」と刻まれた球状の石碑。
平和の塔(へいわのとう)」であると。
台座には「經日 超世無倫」と刻まれていた。
「經日」とは一日、また一日と時がたつこと、「超世無倫」とは世に比べるものがないこと。
昭和四十年(1965)建立と。



近づいて。



「本堂」の北側の林の中にも石仏や庭石が並んでいた。



石仏をズームして。



河口慧海師碑」、「平和の塔」を振り返って。



奥にも御堂・「五社殿」の姿も見えた。
大正2年に建造された奥沢神社の前代の本殿も五社殿として浄真寺に移築されているが、覆屋内に
納められており見ることはできないのだと。
淨眞寺の鬼門を守護する御社で、伊勢神宮、春日大社、石清水八幡宮、住吉大社、熊野大社の
五社の御分身をお祀りしている と。。




                              ・・・もどる・・・



                 ・・・つづく・・・









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Last updated  2024.02.24 06:09:23
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