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いただき繕実践者を対象にした“いのち”を学ぶツアーを毎月開催。
【善童塾】は長期休みを利用した子供たちの学びの場として。
【いただき繕学院】は大人のための8日間のツアー形式で開催します。

次回いただき繕学院の開催は、2月です。
希望者はお早めにお問い合わせください。

いただき繕の実践方法については、マニュアルにならないように直接お伝えしております。日本全国どこにでも伺います。いただき繕のこと、農哲学院のこと、子供の教育、汚染に感する意識・・・盛りだくさんの引き出しから、私たちが実践から得た智慧を感じていただけたらと思います。そして、“いのち”の循環する生き方を共に。
まずはお気軽にお問い合わせください。
日本受付:ゆう(myaku_u@agro-philosophy.com)111220zendo

いただき繕 from UK [全43件]

2012.01.23楽天プロフィール Add to Google XML

少私
[ in OBAN ]  


子どもとの付き合い方―

僕には子供がいない。
だからおそらく本当の意味での
親から見る子の気持ちというのは
わからないのかもしれない。

そこから来る無条件の愛情。
その愛情は尊い。
しかし、その愛情というものが
正しい方向に向かっていればいいのだろうが、
そうでなければ単に
人間らしからぬ子供を育ててしまうことになりかねない。


正しい方向とはなんであろか。

幸い、この何日間、
集中して子供達だけと一緒に過ごす機会に恵まれた。

以前もそういう機会はなんどもあったけれど、
今回はとっても違う「感覚」があった。

正しい方向…
その答えの一つは
「超然とした立場をとる」
ではないかと感じた。

やはり冷静な心というのだろうか、
目に見えることで惑わされない自分。
聞こえてくる言動で惑わされない自分。

そしてそこの根底には
徹底して僕の今を構成している思いがある。


「次世代にこの生き方を伝える」


そこに集中してそれを基準にして
判断しようと心がければ
何か一つ一つの問題が解決していくのでは
という思いがふつふつと湧いてきた。


僕はどうも子供と壁があった。
いや、わざと作っていた。

大人と子供とは違う世界を生きているのだ、
という、こだわり。

いや、それはある意味正しい。
でもそうだけど、そうじゃない
その思いもあっていいのだけれど、
それに固執してしまうと、
それはもう自然体でなくなっている。


なんだか、そういう肩肘をはった思いがあったけれど、
もうそれもどうでもいいやという思い。
例の彼ら(闇の力)に諦めてもらえばいいや
という思い。

ただただ、堂々としていればいい。
そして、溶けてしまえばいいんだ、
まるく、まるーく。

単純なんだなあ、解決方法は。


「自分を救わなければ、人は救えない。」

という意味が少し体知できた時間でもあった。

「人を救いたい」
という思いは尊いけれど、
結局それは、
自分に対する自信のなさからきているのだ。
それを埋めようとする為に、他に求める、
それでカモフラージュしようとする。

しかし、自分に対して自信を持っていれば、
そして、「分をわきまえる」、
今を生きていれば、
それはなくなる。

そこに「私」が入り込むことが
少なければ少ないほど、
自分のする行為が、
他の人を人の道に進ませることにつながる。

つまり、この生き方で生きていること自体、
自分のする行為のすべてが
人を救うことにつながる。
もちろん、そういう「公」の人間になれていればだが。


「少私寡欲」
という老子の言葉がある。

「無私」には程遠いけれど、
「少私」になればなるほど
見えてくる世界がある。



最初の話に戻るけれども、
そうなっていけば、
こういう自分にも
無制限の愛情というものを
注ぐことができるのではないだろうか。
親とか子とか血縁とか、そういうものを超えて。
思いはただただ、一つなのだから。



色んな事が起こり、
自分の中の平穏を保てないことが
あるけれど、
しかし、だからこそ、
徳を積める、終わりなき旅を
続けることができる。

問題はその感情が湧き起きることではなく、
沸き起こった後に、
どういう思いになるのか、
ということ。

結局は自分も他人も同じなのだ。

「そっか、そっか」とニヤリとすれば、
いいだけのこと。
他人を他人と思わなければいいだけのこと。


寿司ロールを切る


―あと、4日。

旅立つときが来た。
次はどう流れるのかはまだわからない。
低い方に流れたいという思いだけ。
そして、そこはみんなの思いが集中する場所。

もう何か月こちらにいたのか、ふとしたら
忘れてしまいがちだったけど、
とにかく一度は日本に戻るらしい。

どこにいっても、何があっても
もういいや。

時間の長短はあるだろうけれど、
いづれかには自分の役割を十二分に発揮できるだろう。


By Yasu



Last updated 2012.01.26 03:54:21
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2012.01.16

みそ作り in OBAN
[ in OBAN ]  


昨年末より、こちらオーバンレストランはお休み。
ということで、この冬場、
味噌を作っている。

味噌つくり1


もう、しばらくは、日本では新たに
できないこの「味噌作り」。

ここでそれをさせてもらえることは
非常にうれしいことであるし、
大きな使命を感じている。

ここはオーバン、
スコットランドもかなりの田舎。
こういう場所にいると
つい日本の放射能のことを
忘れてしまいそうになるが、
こういったことで
必ず思い出させてくれる。

そして、いかに与えられた使命が
大きいのかを新たに
感じさせてくれる。

味噌つくり2


福井で始まった貊の味噌つくり。
そして、北海道、ロンドン、
ついにはスコットランド・オーバンで
来ることになるとは。

あの時、種をまいていたことが、
少しずつ芽を出してきている。

3年前、皆で、色々な智慧を出し合って
始まった、福井での最初の味噌作り。

あのときは小さな一歩であったけれども、
そしてまだ今も小さな一歩かもしれないけれど、
日本以外、それも西洋文化圏で
味噌を作ることができている、
という事実は
前に進んでいることを感じさせてくれる。
ここでの味噌作りの意義は大きい。

ここで、いただき繕のメンバーが
「味噌作り」をした
という痕跡を残すこと自体が
非常に大きな意義をもつことになるだろう。

味噌つくり3


そして、そして、
今回は農哲学院メンバーと
昨年末より、こちらで暮らしている
いただき繕学院の隼人も
一緒に味噌を作った。

こうして次世代に
伝えていけることが
非常にうれしい。

この生き方が
次の世代へと受け継がれていくんだ
という大きな希望を感じている日々。

やはり、時代は
「次」へと
動いているようだ。

By Yasu

味噌つくり4



Last updated 2012.01.16 20:52:12
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2012.01.11

風邪先生
[ in OBAN ]  


うんこが何日間も連続で浮いている!
こんなことは実は今まで少食断食中以外にはなかったこと。

今までの食生活は何だったのだろう、
と思う気持ちでいっぱい。
おそらくは今までは、1食にしろ、2食にしろ、
「食べ過ぎ」であったのだろうと実感する。
そして、食べる姿勢が未熟であったことを実感させられる。

このところの風邪もあいまって、
毎日寝る前にお灸をする生活。

そして、その風邪をひいたおかげで、
「食」に対してあらためて向き合う、
考えさせられる、よい機会となっている。


「食べる前に、食べる分を取り分けて、
なるべくそれでおかわりしない。」


つい先日から始まった、このいただき繕の食事法。

実はこの単純でいて、ごく当たり前のようなことも
できていなかった自分が恥ずかしい。

つい、あ、足りないからご飯をお替りしよう、
あれが、残ったから食べないと申し訳ない。
そんなことが普通であった自分。

それで、身体が「重い」という時もあったが、
そうでない時が多かったので、
そんな食生活を続けていたが、
やはり、本格的な冬を迎えて、
今までの体の気付かない負担、
というかセンサーが反応してくれたのだろう、
風邪を年明け早々から、いただくことに。
今回、この風邪の意義は大きい。



身体が軽い。

もちろん、風邪ということもあり、
身体に疲れを感じたこともたまにはあるが、
どうも「意識」が冴えてくるのがわかってくる。

そして、それがどうなるかというと、
心で人を見る目が育ってくる。
うまい言葉では言えないが、
心に余裕ができてくるとでもいうのだろうか。

今までこの自分にある「批判精神」は
もちろん、今まで通りあるにはあるのだが、
それをもう一歩進んで、客観視できる自分がいる。

そうすると、ああこの人はこういう心の状態で
こういう話をされるのだ、こういう態度をとるのだ、
ということがわかってくる。

それに対して、
「何でこうしないの」とか
「こうすれば、良くなるのに」
という思いが、もちろん今も根強いが
弱まってくるのが実感できてくる。

「まあ、いいんじゃないの」
「とにかく形はどうであれ、同じ方向に
向かっているのは同じだから」
という心の割合が大きくなってくるのが
実感できてくる。

そうすると、どうなってくるのかというと
いろんな言動に左右されない自分がいる、
自分のペースで自分の道を進める自分ができてくる。

いつものごとく、
この気持ちが一過性のものではなく、
常に持ち続けることが一番大切なのだが・・・。

しかし、それも「食」次第ということ。

食を「律する」。
食を制限するのではなく、「律する」。

それは、簡単なことなんだろうけど、
今のこの世の中ならば(他者やまわりの環境の関係上)難しい。

ここオーバンにいてもそう見える。

恵まれすぎてるなあ…。


しかし、僕は運がよく、「風邪」
という最高の師である方がついて下さった。
環境が与えられた。
しかも、今回はいつになく、根深い風邪。

こうなると、
「食」においても
この怠惰な自分の体もその奥底から考えてくれるようで。


よく考えれば、
食べることは重要なんだけれど、
でもあの世に持っていくことはできない。
そして、その食欲も一過性のものであることは
まぎれもない事実であって、
それに固執しなくてもいいんじゃないのと思えてくる。

つまり、どうでもいいこと。

といっては、ちょっと誤解が生まれてしまうかもしれないし、
食べ物に対して失礼な言い方かもしれないけれど、
重要度が低くなればそれで良い気がしている。
(食べ物が自分の体を構成しているという事実も踏まえての発言です)

お腹がすくのを感じる自分もいるが、
よくよくそれを冷静に観察してみれば、
「それがどうしたの」
「だって、僕、生きてるじゃん。」
という気持ちに切り替わるようになってきた。

興味が薄くなってきたのかもしれない。

それよりももっと大切なことがあるのが
わかってくる。

「今を生きる」

どう自分が生き証人、灯台になるのか、
それを最優先に考えて、考えて、考えて、考えて、
ずっとずっと考え続けて、それで頭がいっぱいなれば、
そのうち、この食欲もふにゃふにゃになって、
存在するけど、ちょうどいい形で
おさまってくれる気がしてくる。

色々な食に対する「律し方」が
あるのだろうけれど、
僕はこの律し方がしっくりくるようだ。

風邪先生ありがとう。

By Yasu



Last updated 2012.01.12 19:05:51
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2011.12.27

役割
[ in LONDON ]  


ロンドンに戻ってきた。

拠点があるということはありがたいこと。
運がよく、
僕には「天ぷら奉行」
という役が残されていた。

拠点、拠点で何かの役割が用意されている
というのはとても大切なことだ。

人間、必要とされると嬉しいし、
僕の大部分の体はそれによって動かされる、
疲れることなしに。

「本当の自分」というのはいるのではあろうが、
この自分を構成している何十兆の
細胞一つ一つも、とりあえず
所属は僕になっている。
である以上、
彼らとどううまくつきあうか
ということが、
同時に自分とは何かを
見つけることにつながるようだ。

そして、それには、
彼らにも
「喜んでもらえることをする」
ということが近道であることがわかってくる。

そして、彼らに「喜んでもらえる」には
どうするか、
それは夢中になることだろう。

そして、その夢中になる為には
自分の「役割」が見つけられるかどうかだ。


それは、この農哲学院の役割の一つであると思っている。

「何で自分は生きているのか」
というのは、ちょっとカタい問いかけだろうけれども、
「自分の役割はなんだろう」
という問いかけの方が柔らかい。

その自分の役割を、日々の生活(実践)の中で
見つけていく(体感していく)のが
この農哲学院であると思っている。



僕は変わった。

何をやっていても、
そこに「喜び」を見つけられる自信はついた。


「何か一つ、本当に夢中になれることはあるか、
それも、ご飯を食べるのも忘れるほど」

その問いかけに、
僕はちょっと戸惑いながらも、
「農業と料理」
という答えが思い浮かんだが、
しかし、一つと言われてしまうと
どう答えていいのかわからなかった。

どの一つ一つも
そこに喜びを見出すことができ、
その一つ一つのことに夢中になれて、
しばしばご飯を食べるのも忘れてしまう。

もちろん、その「一つ」が見つかれば
いいのであろうが、
別に無理をしてその「一つ」を見つけなくても
良いような気もしてくる。
その時、その時の役割がその「一つ」であるというのも、
また答えであるような気もするのだがら。

どうやら僕は違うところに
その「一つ」があるようだ。

そして、その「一つ」が
実がちょっと広い「一つ」であることも
うすうすわかってきた。

そういえば、僕は
この「一つ」については
ちょっと遅かったが18才の頃に
見つかっていたのかもしれない。
それを求めて、最初は現代社会の中で
求めようとしたが、
それが駄目であることがわかり、
ついにこの場所で見つかりかけている。



オーバンのお店は
12月23日でひとまず
しばらくお休み。
来年3月1日からまたオープンする。

このところの流れの速さを見ると、
3月の時点ではかなり状況が変わっているだろう。

そして、僕はちょうど1か月後に日本に帰る。


僕の役割は今のところ、まだ日本にはない。
だからおそらく、また外に出るだろう、
来たるべき時に備えて。



人は一旦は外に出るべきなのだ。
そして、折しも、それを加速、というか、
せかしてくれたのが、
あの大震災。
あの出来事はそのサインであることは明白だ。

そして、一旦外に出てみて
実感すべきなのかもしれない、
どこも同じであることを。

だから同じことをする、どこへいっても。
その同じことが、
「人の道にかなっているかどうか」なだけ。
それが人を救うことにつながるかどうか。

そして、それを実感しやすくて、
近いことが、今やっている、
料理であるし、
農業であるし、
家づくり、である。
また、今やっている語学の勉強である。

いわゆる、大義名分を得た人は強い。
闇の力をはねのける力を誰もが持っている。

できれば、このようなことを
他の人にも体感してもらいたい。

By Yasu



Last updated 2011.12.28 00:35:31
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2011.12.26

輝きをとりもどす姿

先週木曜日、一週間ロンドンに滞在していたともちゃんが日本に戻りました。
本当の自分に出会うため、生き方を学ぶ・・・農哲学院と共に歩む道が定まった彼女の姿を見ていると感動で胸がいっぱいになります。

ロンドンに着いた当初はまだ不安げな彼女でした。
日本では自分が望んでいた仕事にもつけたのに、悲しくて苦しかったといいます。
どう生きればよいかわからず、このまま社会の中で生活することもできない…仕事を辞めて勇気を出してきたものの、将来への不安にさいなまれているようでした。

でもいただき繕の食事を食べてもらい、共に生活するうちに何か感じてくれたのか、
スコットランドに行きたいという思いが芽生えてきたようです。
慣れない海外にもかかわらず、スケジュールの都合上、ほんの数時間しか滞在できないとわかっていながらも勇気を持ってスコットランドに旅たちました。

彼女の自分の心から自然に出たその決意に感動しました。

帰ってきた彼女はさらに変化していました。
オーバンには夜に着いて朝暗い時間に出発だったため町の様子もわからない。
けれども善童塾に参加し、農哲学院のメンバーたちに出会い、たくさんのものを感じてきたようでした。
暗闇を照らす灯台を見つけて戻ってきたように思えました。

「下を向いたら、問題がたくさんあるけど。
何が問題か気付いたら、後は淡々とやるだけなんだと今は思えます。
周りに支えてくださる数えきれないいのちがあることを知ったら、一生懸命やるだけです」

彼女の言葉です。
彼女の心の声を聞けて、心が輝きはじめるのを感じて嬉しい。
私は他に何もいらない、人の心が輝きをとりもどす姿だけで私は生きれる気がしました。

まわりにいるいのちたちにどうやって伝えたらいいだろう。
わたしの今あるこの身体を精一杯使って何ができるでしょうか。
すべてのいのちに智慧を求めます。

私は今まで与えられることが多く、その返し方がわからず、私の力を信じきれていませんでした。
だからもっと自分を成長させてからにしよう、といつまでたっても形にとらわれていました。
でも時期が過ぎると情熱を失ってしまうことに気づきました。
一番大切なのは心の底から湧きあがる情熱を冷めないうちに相手に伝えること。
恥ずかしがる必要はない。
私を通して現れる言葉はすべてのいのちの声を代弁しようとしているだけで何一つ「わたしのもの」ではないのだから。

聞いてくれる人がいることってとてもありがたいです。
その人に向かってまごころを伝えたいという思いから出る言葉には言っている私自身も気づかされることがあります。

ともちゃんはとてもよく聞いてくれました。
いつも一緒にいる桂子さんも本当によく聞いてくれます。
農哲学院のメンバーはみんな本当によく聞いてくれます。
私は本当に幸せ者です。
私を受け止めて聞いてくれる人のように謙虚な心でもっと他の人の声を聞ける人になりたいです

さちこ


Last updated 2011.12.26 20:43:34
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2011.12.23

飾り物を捨てる
[ in LONDON ]  

王子さまのような衣装や
宝石のくさりを 首につけた子供は
遊びの喜びを すっかりなくしてしまいます。
一あしごとに その衣装が 邪魔をしますから。

それがすり切れてしまったり
塵に まみれることを恐れて
子供は 世の中から 離れて
動くことさえ こわがるでしょう。

母よ 飾りの束縛は 無益です。
子供を 健やかな大地の塵から しめだして
みんなのくらしの中の すばらしいお祭りに 行くたのしみを
うばい去ってしまうのですから。

タゴール「ギタンジャリ」より

今思い返せば人生の長い年月の中でずっと飾り物を身にまとい続けてきた。
生まれてから初めて子供が家を出て社会と接点を持つとき、
その社会の中で自分の立ち位置を模索し始める。
それまでは自分の思うように感じ、表現してきたのに、そのあたりから他人から見られる自分を意識し始める。

幼稚園や小学校という初めての社会に子供をデヴューさせる時、親は最も用心して自らの懐から手放さなければならない。
もしそのタイミングに子供の個性や可能性を見出し、その後ある程度成長するまでそれを最大限に伸ばすように用意してあげなければ、社会の通念や何らかの概念にあっという間に染まってしまう。
子供は感受性が強いから、すぐ親や近くの大人が自分に対して何を求めているか察知しそれに答えようとエネルギーと時間を投入する。
その時代に自分の個性や能力や可能性を優先されずに、親が求める人並みの平均的な、将来安定した経済的な生活を優先した価値観に洗脳されてしまえば、彼らの人生における彼ら自身に与えられた能力や可能性は発揮できずに大人になり、その人生も達成感のないままにあっという間に終わってしまうだろう。まわりの人が皆そうなら何の疑問も持たずに世間の常識というものを身に着けて大人になる。そして他の価値観(自分のいのちの本性を優先する生き方)を受け入れられなくなる。あるいは他の価値観があるなんていう想像もできなくなる。
始めは親に褒めてもらいたくて勉強したりさまざまなことに熱中する。
社会でうまく立ち回れるように大人が持つ知識や言葉や価値観を身に着ける。
外に向けての意識や願望にほとんどの時間とエネルギーを費やしていくうちに、どんどん身に着ける飾りが重くなり年月を重ねていくうちにいつの間にかそれは身動きが不自由なほどの重い鎧になっている。内に向けての意識、本来の自分の本性、自分自身の願い、欲求が鎧に隠されて見えなくなっていき、終いには自分の感覚、自分自身の声さえも聞こえなくなっていく。

鎧を着て歩くのは困難だ。重いから何をするのも億劫になり次第に何もしたくなくなる。
でもまわりのみんなが鎧を付けているのでそれに対しての疑問はない。
周りではその鎧にいろいろな飾りを付けて歩いている。ブランドだったり、化粧だったり、
あるいは知識や学歴や所得額や名誉など。
鎧を維持するためにお金のことを考え、他に楽しみがないから食べることを考える。
一度鎧を身に着けてしまうとなかなか脱ぎ捨てるのは困難だ。
なぜならその鎧は体と心と一部同化してしまっているから。
剥がそうと思っても皮膚が剥がされるように痛いし簡単には脱げないようになっている。

私は農哲学院に来てから初めて自分が鎧を着ていることに気づき、その鎧の重さに唖然とし、そして脱ごうと思ってもなかなか簡単には脱げないことがわかり長い間ずいぶんもがいてきた。
7年前のあの頃よりもずっと身は軽くなった気もするが、まだすっかり脱いでしまったわけでもないと思う。それくらい難しいのだ。

子供は6歳くらいから外の世界、社会に触れ始める。
その頃に飾り方を教えてはいけない。
飾り方を覚えること、社会に合わせていくことは始めは楽しいだろう。
しかしその飾りはいずれ脱げない重い鎧に変わる。そしてそれによって苦しみ始める。
赤い靴が脱げなくなった少女のように。
そしてその中の本当の自分をどう成長させたらいいかわからなくなる。
だから内面は飾り始めた6歳から成長せず、鎧を飾っても飾っても、いろいろなものを食べても食べても、どんな遠いところに何度旅行に行っても心は決して満足しない。

そしてそのままいたずらに年を取る。

もう自分がなんで生きているのか、あるいは生きているのか死んでいるのかも実感できない。永遠に知ることはできない。

自分のいのちに気づき、生きていること、生かされていることに感謝する。
そのこころが不在なら何のために生きているのか、他のいのちをどう生かすかは永遠にわからない。自分がなにを求めているのか、何のために食べるのか。
鎧はその気づきを常に邪魔する力だ。

世の中をうまく渡れるように飾る方法を教えることは教育ではない。
純粋な素直な子供にとってそれは本来の彼らの可能性を伸ばす足枷になる。
母親は特に気を付けてやらなければならない。
いのちの教育ができるのはたいていの場合母親であると思うから。
そして家の中で大事にしていても子供は外に出てすぐに刺激を受けて洗脳されてしまうものだ。
その前に本性を伸ばすもっとも尊く喜びに直結するものは毎日の生活の中にあることを導かなければならない。
お金で買えるものは心を喜ばせたり成長させたりはしないことを子供のうちから自分で気づかせてあげなくてはならない。ただ言い聞かせるのではなく。

お母さんが作る毎日の素朴なごはんと
お店で売っているきれいな甘いお菓子。

どちらにも喜びはあるけれどもその内容は大きく違う。
お母さんが作る毎日のご飯に感じる喜びがちゃんと感じられる子供なら、甘いお菓子をいただいてもそれに溺れることはないだろう。
その意味でも母親の責任は重大だ。
そしてその時期を逃してしまうと大人になってから気づいても簡単に変わることができなくなる。

しかし。
ずいぶん年を取ってから鎧から抜け出そうとしている私でも、これからまた自分の無限の可能性を信じて成長させようというところ。
自分は一体何のために生まれてきたのか。
毎日の生活の中での気づきに喜びつつ、体知していこうと思います。
3年目のロンドン、いただき繕にて。

桂子






Last updated 2011.12.23 23:42:00
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2011.12.18

食べ物と体
[ in OBAN ]  



食べ物(自分の体に入れたイノチ)で自分が構成されている、
そしてその食べ物の性格によって自分の性格もどちらかというと
その傾向を示すようになる。

例えば、
一番簡単な例として、
肉を食べ続けると攻撃的になる。

また、
動物性のものを食べたり、飲んだりすると
性欲が増す。(特に牛乳)

油っこいものを食べ続けると、
性格も油っこくなる。

なんでもかんでも混ぜた料理ばかり食べていると
性格もぐちゃぐちゃになる。

納豆みたいなものを好んで食べると
粘り強くなる。
くっついて離れない性格になるかもしれないが…。

シンプルな野生に近いものをずっと食べていれば
シンプルで一本気になる。
しかし、今のこの世とは迎合しにくくなる可能性も出てくる。


今の体・意識を形成している大部分にとっての「異物」が入ると
それに反発する力が働く。
例えば、僕が今、肉を食べようものなら、
すぐさま腹痛を起こすだろう。

だいぶ前の話だが、チーズを食べた翌日に
急激な腹痛が起こり、トイレに駆け込んだ。
その後は何事もなかったかのような
いやにスッキリした自分がいた。

そういえば、子供の頃、
牛乳を飲んで、よく腹痛を起こしていたが、
学校給食だったから飲まざるを得ず、
半ば、我慢して飲んでいたら、
そのうち気にもならなくなり、
むしろ、大好きになったということもあった。


ここで問題なのは、自分の体が何を「異物」ととらえるかだ。


おそらく、肉ばかりを食べて、肉で構成されている人ならば、
いくら肉を食べても、それを「異物」と感じないだろう。

逆も全く同じで、野菜ばかりを食べて、
野菜で構成されている人ならば、
いくら野菜を食べても、それを「異物」と感じないだろう。

そして、そのイノチが持っている性格に
知らず知らず、自分がなっていく。

この「異物」を感じる、いわば、体のセンサーみたいなものが
人間本来持っているセンサーに近ければ良いのだが、
そうでないならば、違った方向に人間が
導かれてしまうことになりかねない。

「パンドラの箱をあけた」
というのはおそらく「食べる」
という行動から始まったのだと思う。

「食べる」
という行為が単なるモノを入れる行動ではない。

毎回毎回の食事が、真剣勝負になってくる。



また、センサーを構成するのも口に入れたイノチなので
一つのモノばかり食べていると、あまりにも一体化しすぎて
他に対する拒絶反応を起こしてしまうことにもつながる。
例え、世間でいう良いモノをたべていたとしても。

極端な例でいえば、
100人村人がいるとして、その100人全員が賛成している中で、
ちょっとでも反対する人がそこに入ろうとするならば、
全員の反発を買うことになり
まず、その中に入ることは不可能だろう。
もしその村人が攻撃的ならば、
下手をすれば、命すら落としかねない。

「拒否」する力があまりにも強すぎると
これもこれで
この世の中で暮らしていくにはあまりにも不都合が多い。

そこに「受け入れるスペース」
というのを残しておきたいものだ。
例えば、その村に入ろうとした、
反対している人が
何で反対なのかを聞いてみようという姿勢。
まあ、こういう人もいてもいいんじゃないかな
と思えるような姿勢。

もちろん、
そこにはそう思わせる
今まで口に入れた「食べモノ」の性格にも
よるのだろうが。

ここが根本的に重要なことだと思う。

何事も感謝と謙虚で受けとめることができること。
変化を認める姿勢。

それこそがいただき繕の実践で求められることなのだろう。


「拒否をする」
ということが、ほんとに申し訳なく思えてくる。

そして、その食べモノの存在意義を
十分に認めて、同じ仲間として
受けいれることの方が
しっくりくる。

変な例かもしれないが、
コーヒーは、たしかに体によくないのかもしれない。
ある意味、明らかに麻薬だと思う。
でも、僕にとって、時と場合によりけりだが
長距離を運転する時や、そしてどうしても元気がでない時は
飲むこともある。

重要なのは飲むときの姿勢だ。

この世にコーヒーという存在が身近にある以上、
別に必要以上にとることもないが、
そう体が要求する時には、とってもいいかなと思っている。

そして、それはある意味、
彼らに助けを求めている面もあって、
そんな思いで摂取すれば、
彼らも、やはり役に立とうと
必死に自分の能力を発揮しようとして
くれるような気がするのだ。

人間についても同じことがいえる。
役割が与えられると、人間は輝きだし、生き生きとし、
その持っている能力を十分引き出すことが可能になるだろう。


この視点がどうも世間では欠けている、
というより避けようとしている。
まぎれもない事実だと思うのだが。



食べ物が容易に手に入る時代、
(もちろん、ごく限られているが)
というのは幸せなようで実は全くの逆。

いろんなものを入れすぎてしまうから、
自分の性格もぐちゃぐちゃになる。
自分の意思統一が図れなくなる。
だからこそ、今はこんな混沌とした世の中になっているのだ。

「食」がきちんとなっていれば、
自然と落ち着くところに落ち着くだろう。

自分の体のことがわかれば、
地球規模、宇宙規模のことがわかってくるはず。
基本的におなじだから。

だからこそ「食」というのは
最重要(という言葉ではとても形容しがたいけど)なのだ。

すべての人が考えて実践すべき最優先事項であるのは
間違いないと思う。


By Yasu



Last updated 2011.12.19 05:06:41
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Comments

 いただき繕@UKRe:なるほどそうそう、もう無駄な抵抗はやめること...
 農哲@福井なるほど ふにゃふにゃになって自分の闇にも ...
 いただき繕@LONDONRe:いい時間をお過ごしください!(08/28)お久しぶりです、コメントありがとうご...
 いただき繕@LONDONRe:おつかれさま!(08/28)てるちゃん、コメントありがとうござい...
 いなーきー@いい時間をお過ごしください!さっちゃーん、どうしてますかー? ブ...

 

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