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2012.02.09
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カテゴリ:民俗学
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第337話 「からくり人形」

 紀元前3世紀から紀元後3世紀頃に活躍したらしいアレクサンドリアのヘロンあたりから機械仕掛けの4-336”自動人形”が実用品というか、伝説や神話ではなく実話に基づく話として伝えられるようになったというのが怪しい話のスタンスになります。

 自動人形の初期の動力は、水力、風力、蒸気、(糸による操演を含む)人力、砂・水・水銀・空気などの圧力といったあたりが主流だったようで、当時としては最先端の科学技術の結晶だったと言えるのですが、それは同時に”魔法”にも区分されていたようです。

 見方によっては、そうした自動人形に関する技術というのは魔術の一部分ということになるのですが、実際、ゴーレムやホムンクルスなどに関する伝承と自動人形には共通点が多く、同じバックボーンがあることが分かるのですが、それ故に、基督教などの宗教団体には”異端”と感じる人がいたかもしれません。

 また、王侯貴族をパトロンとして抱き込む為にも、彼等が好みそうな精巧な自動人形というのは格好のアイテムだったようですし、Aという王侯貴族が所有している自動人形に勝るとも劣らぬものをBという王侯貴族が欲しがるという構図も延々と続くことになったようです。

 では、基督教関係者がまったく自動人形や自動人形関係の知識や技術と無縁だったのか?というと、少なくとも”機械仕掛けの時計”と”(パイプ)オルガン”の製造や改良には熱心な関係者が多く出ていて、4-330”法王で魔術師”の回で触れた羅馬法王のシルヴェステル2世(945,945?~1003)が歯車式で時打ち式の時計を造ったり、風琴や水オルガン、天球儀や望遠鏡なども製作していたという(真偽のほどは定かではない)話があります。

 ちなみに、オルガンは東羅馬帝国で宗教儀式に多用されるようになっていくのですが、それは同時に基督教の布教活動における宗教音楽や賛美歌などの歴史とも絡むこととなり、日本の仏教で言えば”踊り念仏”などを連想しますが、あまり教育を受けていない一般庶民や異教の現地人などを相手に布教するときに重宝した(している)ようです。

 技術的には、水オルガンから実用化され、風琴のノウハウを流用した空気オルガンへと主流が移っていくのですが、西欧羅巴というか羅馬カトリックへ空気オルガンが伝わったのは、東羅馬帝国皇帝のコンスタンティヌス5世が西羅馬帝国皇帝のカール大帝(742~814)などに贈った8世紀頃のことになるようです。

 時計に関しては、極論すれば棒を立てていればいいだけの日時計から始まり、細工や加工が必要な水時計が工夫され、6世紀頃からあちこちの修道院で機械式の時計を工夫している修道士の話がちらほら出てくるのですが、なぜ基督教の関係者が時計の製造や改良に熱心だったのかは定かではありません。

 魔術的な解釈としては、形のない時を箱に閉じこめて支配するとか、形のない時に形を常に与えるとかいったあたりに時計の価値を元mる事が多かったようですが、現在まで伝わっているような発明品の大半がいつ頃、誰が最初に造ったかが分かっているのですが、歯車などを使った機械式の時計に関してはその辺りも謎に満ちています。

 それこそ、一般人にとっては、13世紀頃に唐突に登場して普及していったのが機械式の時計だったのですが、正確な時間を知ることが不可欠な遠洋航海時代というか大航海時代を予見していたかのような絶妙な時期に登場しているあたり、既に完成の域に達していた機械式時計を秘匿していた勢力が、意図的に表社会に放出したような気がするのは気のせいか?

 というか、12世紀後半以降の異端簇生(ぞくせい)に対して羅馬カトリックがとった異端審問や、13世紀以降に本格化した魔女裁判などの迫害の歴史を知る視点からすれば、13世紀くらいまでの(羅馬教皇を含む)聖職者に魔術やカバラ、占星術に長けたというか、魔術師として知られるような人材が基督教関連団体で高い役職に就いていたり、時計や自動人形などの製造に手を染めていたりすることにも矛盾を感じるわけです。

 さすがに、羅馬カトリック系の基督教関係者の場合、自動人形の研究や製作というのは一種のタブーに早い時期からなったのか、自らの口を閉ざす人が増加していったようで、悪意を持った噂として流されたり、同じ団体内でも対立している勢力があることないこと言い出すのは、十戒を熟知しているハズの宗教団体であっても例外では無いようです(笑)。

 魔術の研究の一端でもあった自動人形と根を同じくする”機械”というものが人間の手足の代替であったり、作業効率が高くなるだけで、鍬や石臼などの素朴な道具の延長上の道具であることに欧羅巴の一般大衆が気が付くようになるのは16世紀ころからで、具体的には初期の産業革命と無縁では無く、それまで10人がかりで1日かけてやっていた作業が、1人の操縦者がいれば1日で終わる作業になっていったわけです。

 それは、1770~1830年代にかけて英国で始まり、19世紀の末頃までに主要な工業国が経験した本格的な機械を導入した産業革命の下でも加速していくのですが、働く時間を1/10にするか、10日1日だけ働く輪番制にでもすれば良さそうなものですが、幸か不幸か、既に世の中が王侯貴族や資産家を頂点とするピラミッド形の階級社会を形成していましたから、底辺の貧乏人に楽をさせることより、今まで以上に働かせて10倍以上の生産を手にすることを頂点の連中は選択していきます。

 実際、特に教育を受けなくてもこなすことができる程度の単純な肉体労働に関しては、20世紀に入っても低賃金でも働く人の仕事として存続することが多く、”下手に機械化するより、奴隷や貧乏人を使った方がコストがかからない ・・・”という本音を、神様まで持ち出して正当化を試みたり、人種差別で補強し、銃や大砲で維持し強要していったのが19~20世紀の欧米列強の姿勢だったことは御存知の通り。

 一方で、下層階級も(最低限の)教育を受ける人が増加すると、識字率なども向上していき、知的水準の向上は、”なぜ、我々は働いていながら貧乏生活で、王侯貴族は遊び惚けていて豪華な生活をしているのか?”という素朴な疑問を抱く人材を増加させることになり、仏蘭西革命に象徴される市民革命が連鎖していくことになります。

 もっとも、それでいて、海外植民地を獲得した国では、植民地の住人の大半を最下層と位置付けることで、従来の国内の最下層に属していた人達のランクが上がって、搾取される側から搾取する側に回ると、かって自分たちの権利として主張したことを植民地の住人達にも与えることは認めたがらないという矛盾した行動を選択した国の方が多かったのは御存知の通り。

 結局、王侯貴族に象徴される支配者階級は、権利を主張して造反することもなく、従来の労働者よりも安価に効率良く働く労働力にまで機械が発達してくると、(彼等からすれば)やたらと権利を主張するようになった労働者階級を使い続けるよりも機械に代替していくことを選択するようになり、機械に代替された人は”失業者”と称されるようになっていったのですが、このことは機械で代替できない職業や芸でないと失業リスクが高いことを意味しています。

 それはともかく、日本における自動人形の歴史はどのような経緯を辿っていったのか?というと、文字通り玩具としての人形の歴史しか無い内に幕末を迎え、明治維新以降に西洋の機械文明が一気に流入してきたため、教育制度を一新して機械文明に対応した人材の大量生産を国策とし、幕末から明治初頭の20年程の間に社会構造を大きく変化させることで国の生き残りに成功したようです。

 からくり人形ということでは、室町時代末期というか戦国時代末期に南蛮貿易が本格化したことで、欧羅巴の機械文明の一端を知るようになったものの、それを再現できるだけの工業技術や科学技術を持たなかったため、芸能業界というか”からくり人形の興業”という形で、その一端が導入されたのですが、科学的な知識が未発達だったこともあって、いわゆる”バテレンの妖術”と感じた人も珍しく無かったようです。

 逆に言えば、科学技術などが未発達だったことで、日本における江戸時代までの自動人形の歴史は、遊戯機械の歴史が大半で、労働機械の発達はほとんど生じていないというか、貨幣経済の発展が武士社会の崩壊に直結しかねない社会構造だけに、人力で間に合えば(特に稲作の効率化以外のジャンルは)それで良しとしたようなのですが、元来、手先が起用でアレンジが得意な民族なのか、竹や木材を素材に鯨の髭などをバネに加工して動力源とするような、からくり人形を誕生させています。

 時計に関しても、和時計と呼ばれる独特な発展を遂げたジャンルがあるのですが、肝心の天体観測から現在の時刻を割り出す天測の精度に難があったため、”だいたい正午”とかいったアバウトな時刻合わせになていたのは御愛敬かもしれませんが、欧羅巴以外の地域で、日本くらい自動人形の技術をアレンジして独自進化させた国は珍しいんじゃないかと(私は)思います。

 江戸時代の遊戯機械関連の書籍としては、”拾珍御伽、からくり訓蒙鑑草(著・多賀谷環中仙)”が、松・竹・梅の全三巻で享保15(1730)年に川村豊信の木版画の挿し絵付きで世に出ていることで、その元ネタを知っていると、当時の知識人はこういう風に置き換えて解釈したのかと奇妙な納得をしてしまうのですが、ほとんど西洋文化に関する知識を持たない一般大衆にとっては絵空事や法螺話のように感じられたかもしれません。

 おそらく、なんらかの洋書の種本があったと考えられ、それが徳川吉宗の享保の改革である程度、洋書の輸入枠が拡大された恩恵で流入したのではないか?と邪推しているのですが、具体的にどの本が種本になったかは定かではありませんが、収録されている”人形文字書(にんぎょうもじかく)からくり”の元ネタは、挿し絵では中国風の衣裳を着て毛筆で”竹”という字を書いていますが、欧羅巴の自動人形で一つのジャンルになっていた”文字を書く人形”だと考えられます。

 実際、”からくり訓蒙鑑草”が書かれた少し後にフリードリッヒ・フォン・クナウスが1760年にウイーンで製造した”文字を書く人造人間(アンドロイド)”は現存していますし、他にも奇術師のロベール・ウーダンも文字や絵を描く自動人形を製造したことで知られていますから、定番の人気商品だったと考えていいのかもしれません。

 逆に、”からくり訓蒙鑑草”で紹介されている”からくり”には、”唐人、笛吹くからくり”や”人形、矢を吹くからくり”といった欧羅巴の自動人形で定番のお題目が並んでいます。

 ちなみに、日本の”からくり”と言って思い浮かべる人が多い、”茶運び人形”の構造などを解説した本としては、”機巧図彙(からくりずい)”が寛政8(1796)年に出ているのですが、からくり人形が興業として定着したのは文化文政の頃かになるようです。

初出:一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第337話:(2012/02/03)





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Last updated  2012.02.09 00:12:47
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カトリック   背番号のないエース0829 さん
「聖バレンタインデー」に上記の内容について、書きました。
もしよろしかったらAccessしてみてください。


(2012.02.19 18:25:15)


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