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2014.11.24
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カテゴリ:武学
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第949話 「刀と剣術2」

 日本の剣術の源流としてなぜか大和朝廷の拠点からかなり遠方の鹿島、香取の名前が上がる不思議があるのですが、一方で古代の中央政権において軍事を司っていたのが物部氏の系譜というのは比較的知られた話ですし、物部氏が聖徳太子が活躍した頃から中央政権内部の政争というか、最終的に軍事的な紛争に敗れて衰退していったこともまた比較的知られた話になります。

 そのためか、鹿島、香取などの話にしても蘇我氏以降の話から始まっていることが珍しく無いのですが、その場合でもなぜに当時の感覚だと地の果てというか、蝦夷などが大和朝廷の遠征軍と対抗できる規模で別の社会体系を構築していた奈良のあたりに拠点を置いていた大和朝廷の勢力からすれば辺境の地に確認されている中で最古の剣術の流儀の拠点が置かれているのか?は謎のままだったりします。

 興味深いのは、2011年の東北関東大震災の際に、地殻の破断に伴う津波の類の南限が鹿島、香取のラインあたりで止まり、浦安あたりで大規模な液状化現象が生じた程度で都内にはそれほど大きな被害が生じなかった ・・・ といっても、東京タワーの先端のアンテナが折れ曲がる規模の揺れが生じていたのは有名な実話ですが ・・・ 不思議があることで、鹿島の要石(かなめいし)の話が頭をよぎった人も少なからずおいでだったようです。

 まあ、鹿島の要石の話は怪しい話でもこれまでに何度か取り上げてきた話ですから深入りはしませんが、地震を発生させるす地下の大鯰が暴れないようにその頭を押さえている巨石とでもいった伝承が有名で、どのくらいの大きさの石なのか興味を持った水戸光圀公が実際に掘ってみたことがある話なども比較的知られています。

 ちなみに、光圀公が一昼夜(期間に関しては諸説あるようですが)掘り返しても底が見えなかったため途中であきらめて埋めなおしたというのは実話だそうですし、地表に出ている要石というのは比率的に氷山の一角よりも更に小さいのかもしれません。

 剣術の系譜としては、時系列的に逆に見ていった方がわかりやすいと思いますが、柳生新陰流の開祖として知られる柳生石舟斎宗巌(やぎゅうせきしゅうさいむねよし、1529~1606)が新陰流の開祖で剣聖と呼ばれた上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな、1508~1573)から”一国唯一人”の印可を与えられた高弟というあたりは剣術に興味を持っている人には比較的知られた話というか戦国時代の常識の一つと書いていいかもしれません。

 もっとも、上泉伊勢守の生国はどこ?といった基本的なあたりでさえ怪しくなる人の方が多かったりする程度の常識話ではあるのですが(笑)。

 ちなみに、上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)の名家の生まれで系譜としては平将門を討ち取ったことで知られる藤原秀郷(ふじわらのひでひさ、いわゆる俵藤太(たわらのとうた))の末裔にして、小なりといえども関東管領の上杉家に仕える城持ちの地方豪族が伊勢守の当時の上泉氏の概略とでもいったことになります。

 まあ、藤原秀郷の云々に関しては、そもそも藤原秀郷の最期が定かではないこともあってか、自らの出自として藤原秀郷の末裔云々を主張する地方の武士勢力は珍しくないのですが、伊勢守の時代は戦国乱世の真っ只中だけに、家としての上泉氏は最終的に永禄9(1566、なお永禄6説もある)年に伊勢守の跡を継いでいた息子の業盛(なりもり)が武田信玄に攻められて箕輪城が落城した際に自刃したあたりで絶えることになります。

 話を戻すと、若き日の伊勢守は鹿島、香取を含む関東一円で武者修行を繰り広げ、陰流を主に二代目宗家の愛州小七郎宗道(あいすこひちろうむねみち)から学び、開祖である愛州移香斎久忠(あいすいこうさいひさただ)の直伝を受けたという説にも人気があります。

 なお、陰流の他に、鎌倉で修行した際に念流(ねんりゅう)、香取で修行した際に天真正伝香取神道流(てんしんしょうでんかとりしんとうりゅう)、鹿島で修行した際に鹿島神流(かしましんりゅう)に入門した他、他の複数の門派でも修行したり山篭りなども行った末に新陰流を起こしたとされていますし、時代が時代だけに合戦の場などで実戦経験を積むことが比較的容易だったあたりにも留意が必要ではないかと。

 現実的に、日本刀を用いた剣術という観点から考えると、古墳時代の神秘の剣術に遡るよりも鹿島神流や天真正伝香取神道流が成立して以降からの系譜を対象にした方がよいのではないか?というのが私の立ち位置で、徳川家康の頃でさえ、武士の名声といえば”どこそこ一番の弓取り”であったり”なになにの戦の一番槍”であり、刀は合戦時の主力武器と看做されていなかった節があります。

 つまり、日本で集団で戦争をするようになった頃から、一つのスタイルとして矢を射掛けたり投石などの遠距離攻撃から話が始まり、長矛、薙刀、槍など比較的リーチの長い武器で中・近距離の命のやり取りが行われ、超接近戦や倒した相手の首を刈る段階で刀が用いられるといった流れが出来ていた定番化していったということです。

 大鎧にしても、刀の攻撃を防ぐよりも槍や弓の攻撃や投石などから身を守るために重装甲化していったという説がありますし、海外に目を向けてもダビデとゴリアテの戦いなどが有名ですが投石器を殺傷兵器として使っていた地域が珍しく無いというか一般化していた地域は珍しくありません。

 ちなみに、この”投石”に関しては江戸時代に入ってからも”石合戦”などの名称で川を挟んで子供達が石を投げ合って死人が出るような喧嘩をしていた話が珍しくありませんし、ヨーロッパなどで従来は道路や広場が石畳だった地域がアスファルトなどで舗装されるようになった理由の一つに、市民や学生などが暴動を起こした際に、石畳をはがして投石の材料としたことに起因する治安対策というブラックな話が知られています ・・・ 都市伝説の類かもしれませんが(黒い笑)。

 それはそれとして、では鹿島神流や天真正伝香取神道流の名前が出たあたりで、原点とされる関東七流が成立したあたりから素直に時系列に話をしていくと、関東七流の創始者とされる国摩真人(くになずのまひと)が鹿島で神官として活躍していたのが紀元440年頃(大化の改新などより前)とされています ・・・ その頃に大和政権の政治制度がはるか東方の千葉や茨城界隈まで広がって定着していたかどうかを疑問に思うなという方が無理だと私は思いますが。

 一説には、国摩大鹿島尊(くになずのおおかしまのみこと)の末裔とされている国摩真人の五代後の子孫が中臣鎌足という説画あるのですが、国摩真人が大化の改新の頃の人という説もありますから、後の権威付けや伝承の混乱なども考慮する必要がある時間帯の話ということには注意が必要になります。

 鹿島の神官に伝承されていた太刀の技というのは神事に用いられていた”祓太刀(はらいだち)”とされ、国摩真人の代に修行と祈祷の末に開眼して”神妙剣(しんみょうけん)”として体系化された ・・・ とされているのですが、肝心の神妙剣が具体的にどのような技法だったのか?に関しては”直刀を用いた究極の剣技”と伝えられている程度で詳細は定かではありません。

 少なくとも、国摩真人の剣技がどのようなものであったとしても直剣を前提として成立していた以上、後の日本刀を前提とした剣術とは別物と考えていいと私は思いますが、国摩真人が没すると鹿島神宮の神官(祝部、はふりべ)だった松本、吉川、小神野(おがの)、額賀(ぬかが)といった神官七家に伝承された ・・・ とされ、この段階で関東七流派が誕生したと考えてよさそうです。

 故に神官七家の末裔たちにとって鹿島の剣技というのは家伝の技ということになるのですが、平安時代中頃から日本刀が用いられるようになった頃から戦国時代にかけて技術革新を行って時代に対応していったからこそ後の世にも残ったわけで、そこで対応できていなければそれこそ”神事”の一つとしてしか残らなかったのではないかとも思います。

 この鹿島の剣技の系譜からは、鹿島神流の松本備前守政信(まつもとびぜんのかみまさのぶ)や新当流の塚原ト伝(つかはらぼくでん、本姓は吉川)がメジャーかつ実戦的な剣の使い手として名を上げ現在にまで継承の系譜が続いているのですが、戦国時代以前から継承されている剣術には槍術を体系の中に含んでいたり、長柄の武具に日本刀で対抗する技法などが網羅されていることも一つの特徴になっています。

 では、現在では利根川を挟んで鹿島の対岸に位置している香取の系譜はどのような変遷を経たのか?というと、鹿島と香取の交流はそれこそ古墳時代に遡る古い話になるようですし、鹿島と香取の総称として”天真正”という総称が使われるくらいに一種の補完関係が成立しているとも考えられるのですが、前述した鹿島神流の創始者である松本備前守政信が天真正伝香取神道流の開祖である飯篠長威斎家直(いいざさちょういさいいえなお、1387~1488)の下で修行したことがあるのは比較的知られた話になります。

 天真正伝香取神道流の特徴としては、当時の総合武術としての完成度の高さというか技芸の幅の広さがあり、剣技に関しても相手が鎧兜を身にまとっている前提で体系化されている実戦性の高さが目に付くのですが、江戸時代以前に創始された剣術流派の常として居合ないし居合の萌芽と目される技芸が含まれていたりもします。

 その意味で、火縄銃の普及で戦場の状況が大きく変化する以前の武器や武具の体系下という前提だと天真正伝香取神道流や鹿島神流などが創始された頃にはほぼ技芸が体系化されていたと考えることもできるのではないかと。

 しかしながら、古墳時代にまで遡るとされていながら、まとまった技芸が伝承されている具体的な流派が登場するのが戦国時代に入ってからというのが鹿島、香取の太刀の系譜のあやふやというかどこか漠然とした印象を与える由縁のような気がしますし、常陸国に関東七流が成立してから700年程経過した治承年間(1177~1181)の頃にやっと当時の政治と文化の中心地であった京都で京八流が成立していないというのもいささか不自然な気がするわけです。

 というか、京八流が成立した頃と日本刀が実戦で用いられるようになった時期がほぼ一致しているというか、日本刀という新しい武器が中央政権の公認武具となり、その使用技術が整理体系化されて一つの完成形となったのが治承年間の頃と考えるとすんなりとパズルのピースが収まるのではないか?と私が考えているというだけのことですが、太刀(たち)という呼称にしても”断ち切る”から来ているという説があるくらいですから突き技が前提となる直剣とは別の用い方をする日本刀の登場と普及で従来の直剣の技術体系が西国では急速に廃れていったと考えることもできます。

 なかなか、肝心の平安時代中頃に日本刀が登場したあたりの話にたどりつけないのですが、長くなってまいりましたので坂上田村麻呂以降に武士たちが鬼退治にいそしむようにもなった平安時代中頃以降の話はまた別の機会に ・・・ ま、怪しい話ではよくある話の展開であり冗長性ではありますが(大笑)。

(2014/11/24)





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Last updated  2014.11.25 02:36:15
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Re:一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第949話 「刀と剣術2」(11/24)   pintu7923 さん
日本刀を一振りも叩いたこともないのにうんちくだだらけですね。どうせ模造刀で素振りをした程度のレベルでしょう。 (2014.11.30 02:04:54)


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