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2021.08.24
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カテゴリ:教育・職業
帰ってきた怪しい話 第0010話 「文部科学省解体論(笑)」

 10年に一度の頻度で実施されていた小中高の教員免許の更新制度を早ければ2023年に廃止する方向で話が進んでいるそうな(溜息)。

 興味深かったのは、このニュースが流れたときのネットの反応で、明らかに教員免許を取得していると推定される人の書き込みが圧倒的に多かったことで、彼等彼女等の主張を整理すると、

1.新規大卒者の教職員志望者の減少が止まらない。その原因は過酷な職場環境にある。

2.職場や職域で定期的な研修を実施しているので免許を更新する必要は無い。

3.日常用務が多岐に渡る(生活指導や部活動などへの対応等)ことでそもそもの業務負担が大きい。

4.免許更新時に、試験を受けるために年休を取得して対応する必要がある上に試験費用(だけで3万円)が自弁(個人負担)であることが納得できない云々。

といったあたりか?

 面白かったのが、

5.定年退官後も更新手続き不要で教員免許を永年で有効にしろ云々。

といったカキコが意外と多かったこと。

 で、”やっぱ日本の教職員の知的水準の低下には酷いものがあるな~”とか”結局、どうこう勿体を付けても教職員の利権保護を主張してるだけで、我が身を切ってでも本気で子供たちの為に教育改革をする気でいるわけじゃないってことね?”とか、私は、思ったのでした。

 教職員を一つの商売と考えると、扱っているのは”子供の命”であり”子供の将来”というのがかなり上位に来ると私は考えているのですが、小学一年生を6歳とすれば、社会に本格的に出ていくのは高校を卒業する18歳くらいとなり、現行の制度だと、6-3-3の12年間が事実上の義務教育状態になっていると書いても過言ではないかなと。

 実際には、高卒で就職する人よりも、さらに専門学校や短大、4年制大学、大学院などへ進学して専門性を高めた上で就職する人の比率の方が年々高くなって来ているのは御存知の通りですし、それに伴い、国立大学教育学部卒程度の人材の知的水準や知識量の相対的な地盤沈下が止まらないでいることも比較的知られた話になります。

 で、教職員と推定される人たちのカキコを読んでいて、この根拠のない自己陶酔とも思えるような”私たちは賢いのだから優遇されて当たり前で、職場に競争原理を持ち込むこと自体がけしからん”とでもいった主張 ・・・ 某・教職員団体が主張してきた”我々は教職員ではなくサラリーマンである(から勤務時間外に銭にならない学校関係の仕事はしない)”も、そこに加味すれば、”サラリーマンなら仕事の結果が給料(教職員の場合は給与)や昇進などに反映されるのが当たり前”という民間の視点はあいかわらず抜けてるなあと(大笑)。

 前回(第0009話)でも触れたように”過労死するほど過酷な職場だと主張するわりに、金になる副業に勤しんでいる高校教職員が東京都だけでも1800人以上いるじゃん?”とか、”定年まで勤務した場合の退職金や年金に関して平均値でいいから毎年公表した上で「低賃金で過酷な職場」云々”は主張しないと、既に一般的なサラリーマンの正規雇用比率が低下し退職金が数十万~200万円程度とか、そもそも退職金制度の対象外といった非正規雇用のままで定年年齢に達する人の比率は増大中じゃね?

*教職員が満期で退官する場合、定年2~3年前あたりで管理職(教頭、校長、教育委員会への出向云々)といった管理職手当が加算される役職になぜか昇進して、平の教職員のままで退官する場合よりも明らかに退職金や年金が高額になる、サラリーマンとしての実績もなにもあったもんじゃない慣習と言うか温情と言うより不正行為が横行しているといったあたりについて”不合理な慣習を廃止すべし!”と主張する教職員は”教員免許の更新制度を廃止すべし!”と主張する教職員より明らかに少数派である。

**退官前の意味不明な管理職への昇進が慣習化している弊害として、以前に某・公教育の高校でなぜか一人でいいはずの校長先生が書類類上は4~6人いることになっていて、教頭先生などのポストも空位にならず満席以上になっている事例がある(或いは”あった”)ことは言うまでもありますまい、といった解説をしたことがある(過去話参照のこと)。

それはそれとして、「仕事が過酷でプライベートの時間もほとんどなく低賃金だから新規就労者が慢性的に不足している云々」といった教育関係者側の主張に関しては、”それって事実誤認ですぜ旦那方(笑)”としか言いようがないなと。

過酷な労働で低賃金低収入だから後継者の減少が止まらない云々といった話は、それこそ1970年代から全国の農山村で主張されてきた代表的なロジックの一つですが、約半世紀ほど時間が経過し、”新規就農者数は某大手スーパーマーケットの新卒採用者数より少ない”と指摘された時期を過ぎ、それに伴う人口減少が、いわゆる”地方消滅”の主因の一つになっていることは比較的知られた話というか知っている人は知っている話かなと。

しかしながら、では”過酷な労働環境で低賃金低所得な職場”だから”後継者が不足したり、新規就職者の減少が止まらないのか?”と聞かれれば、”その職場や職業に「未来や希望が無い」と思う人が増加すればするほど志望する人は減少する”だけのことではないかと。

その観点だと、学校の教職員と12年程度は関わった生徒や学生が「あんな職場では働きたくない」と判断した結果として教職員志望者の減少に歯止めがかからないということになるかなと ・・・・ なんちゃことない、現役の教職員の指導の結果として”あんな先生になってみたい”という子供より、”あんな連中と一緒に働きたくない”という子の方が多くなっただけのことじゃね?と、私は、思うわけです。

”我々は教師ではなくサラリーマンである”と主張する諸先輩に囲まれながら、浮世離れした教育を閉鎖空間で延々と続ける職場に、魅力を感じる子が減少してるだけじゃね?ということ。

実際の職場環境は”そこで働いてみないとホントのところは分からない”としたものですから、本当に問題になるのは”就職してから5年以内にどのくらいの人材が離職しているか”という”新規就労から5年程度の期間の離職率”と”離職を決断した主因”に求めるべきだと、私は、思いますし、少なくとも「過酷な労働環境で低賃金だから云々」といった明快なエビデンスを示さずに結論ありきで「だから教職員の成り手が減少している(=現役で就労している教職員の給与を上げて教職員としての稼働時間を減少させろ)」と言われてもねえ?それって労働組合運動のスローガンのような気がしないでもないなあと。

さて、半世紀ほどの間に超・激減した全国の農家(人口)ですが、それでも後継者がいたり年収が一千万円を越えている農家が実在している現実もあるだけに、”結局、従来と同じことを繰り返しているだけの農家は衰退して、社会の変化に対応できた農家が残った”と大枠でまとめることができるかなと。

ちなみに、私の実家は愛媛の柑橘(いわゆる蜜柑)農家だったのですが、1970年代に始まったグレープフルーツ輸入自由化と他の新規産地の勃興などで斜陽産業化してしまい、1980年代の牛肉オレンジ輸入自由化騒動のあたりで人口の減少が本格化したというか”不可逆的な人口減少状態”に入り、2040年頃にはおそらく限界集落化の加速ないし集落崩壊に至るだろうなあと(あくまで個人的な推計値予測によればですが)。

オレンジ輸入自由化などに際して、”オレンジや牛肉を犠牲にしたとしても、米の輸入自由化は阻止した(のだから文句はないだろう)”と政府もマスゴミも主張してきたのですが、あいにくと実家の周辺には”そもそも田圃が無いので米を栽培しておらず。蜜柑を売ったお金で米を買っていた”ので、”米こそ輸入自由化して安価にしろ!”と、家として廃業を決断した当時はもちろんのこと今でも思っています。

*温州ミカンの栽培農家数そのものが1980年代と比較しても、1/8程度に減少しているといった数値もあるのですが、新規就農者の減少もあって各地で高齢化も止まらず、小学校の統廃合が進んだことでも不可逆的な人口減少地域と化していった地域の増加もまた現在進行形。

話を戻すと、”本業か過酷で低賃金だから新規就職者が減っている!だから副業の範囲を拡大した上で公認しろ!俺たちは賢いんだから第三者によって客観的に教職員としての能力が維持できているかどうかをチェックする(教員免許の更新)制度は不要というよりけしからん!”と主張していると解釈されてもしかたがない主張を繰り広げている教育関係者がいる一方で、日本の教育の”学力養成”の部分を支えてきた「学習塾」の対応は?といった視点で見ていくと、”やっぱ公教育の学校の教職員たちって浮世離れしていて、既得権益の保全と拡大には熱心で閉鎖空間で、自己陶酔してるよなあ~”と。

というか、大前提として日本人は既に毎年数百万人単位の人口減少に直面していて、その減少分を海外からの移民や(国籍の変更を伴わない)就労者の増加で補うようになっている現実がある上に、日本人の出生率や乳幼児死亡率などなどでも日本人2人から2人以上の子供が産まれなくなって久しいことは比較的知られた話になります。

前述したように、人口の減少に伴い地方崩壊は小中学校といった義務教育の教育機関の統廃合にも直結していて、いわゆる”平成の大合併”と呼ばれた地方の市町村などの広域再編時に消滅した市町村や行政範囲が激変した地域が珍しく無かったのは比較的知られた話と書いていいかなと。

いずれにしても、日本人の人口が中長期でも(私の予想だと総人口が6千万人程度の日論戦争当時の人口規模になるあたりまで)減少が続くのは不可避の状況であり、新生児出生率の観点からも、日本人の生徒や学生の人数は減少が続くこともまた不可避の状況という認識が必要不可欠ではないかと。

その意味で、既に公教育の教職員の総数というのは”過剰”になっている上に児童総数の減少に比例して教職員の総数も減少させていかなければならない時間帯になっている ・・・ その意味で、そもそも教職員の新規採用を計画的に削減することが必須の政策と言えるのではないかと。

しかしながら、学校の先生たちは”仕事が過酷でやることが多すぎる。プライベートの時間を増やして副業もしたいから部活動の顧問なんかの余計事には関わりたくない!”とのたまい、”公教育のIT化というかIT化を前提とした広域ネットワークの構築と情報の共有化は、人事評価と定員の削減に直結するため可能な限り反対!(と主張して、事務処理などを手作業で延々と行いたがる ・・・ ようにしか見えない)”という、まあ、いやはやなんともな対応というか現状維持のためのサボタージュ行為を1995年からカウントしても四半世紀以上続けているな~と。

当然、児童数が(というか学校の数も)減少しているのだから教職員の数も計画的に減らすべきじゃん?と指摘した人達も少なからず存在しているのですが、それに対して既存の教職員側の主張は”きめ細かい教育のために40人学級制にすべき”とか”学習やいじめ問題などへのきめ細かい対応のために副担任制度やOB教職員の活用。常設カウンセラーの増員云々”といった、私に言わせれば”それって焼け太りじゃね?”には熱心ですな。

もっとも、”きめ細かい教育”を主張して、40人(以下の)学級制に邁進したり副担任制度などを導入した結果として、いじめ問題はかえって深刻な事例が増加し、学校ぐるみでのイジメ問題の隠ぺいが(露見することを含めて)増加し、小中学生の不登校や登校拒否児童などがかえって増加していることは比較的知られた話かなと ・・・ 民間企業だと、自信満々で導入した新規事業が延々と赤字を拡大している上にそれに対する有効な対策が無ければ、少なくともその新規事業導入を提案し主導した人(達)の責任問題にはなるんじゃないかと思いますが。

その一方で、大手の学習塾などでは平成の後半から人口減少を念頭に組織改編と事業内容の変更というかテコ入れを実施するようになり、分かりやすいところだと”スタディアプリ”の類の導入と利活用の増大、生身の”塾の先生”の減員に既に舵を切って久しいことは御存知の通り。

もちろん、かっての貴族教育オンリーの時代のように、限られた富裕層や特権階級の子弟を顧客とする”個人的な家庭教師(プロフェッショナル・プライベート・ティーチャー)”といったジャンルもネットの利活用といったアップデートを加えながらも残り続けるというか、このまま公教育の機能不全が続くようなら成長産業になりかねませんし、AI(人工知能)の進化や量子コンピュータへの本格的な移行、超高速通信網の低価格化などなどが進めば進むほど、”能力不足の生身の学校の先生より、電脳空間のAI先生に教わった方が・・・”という声が(2040年頃には)大きくなっているだろうなあ。

なお、私は現職の先生にも教員免許を取得しているだけの人にも、第三者の監視を伴う教員免許の更新制度が必要不可欠と考えていますし、そこに、”一年間、実際に教わった生徒たちの評価”も加味して免許の更新の可否を決めるべきだと思います。

また、少なくとも現役の教職員の教員免許の更新に関しては”業務遂行のために不可欠なチェック”なわけですから、必須の業務として更新のための(交通宿泊費などを含む)費用を公費として支給するか、ネットで免許更新試験のペーパーテストに該当する部分は受験できるようにすべきだと思います。

その意味で笑ったのが、教員免許の更新制度に関するカキコをしている現役の教職員と推定される連中のほぼ10割が、”どこかに生身で集まって一定の期間(というか時間割で)で更新試験を受ける制度”そのものに疑問さえ持っていないこと ・・・ VR技術も活用すれば生身で対面方式の集団研修を受ける必要が既に無くなって来てるんじゃないかと。

というか、コロナ騒動で、世界的な規模でインターネット利用を前提とした(ある意味でスタディアプリ方式の)電脳利用授業が試行されるようになり、特定の学校という場所に集まって一人の(生身で能力にバラつきの有る)先生に一度だけ授業を受けるという従来型の”黒板にチョーク方式”の学校教育が、大きな転換点に直面しているという現状認識が出来ていない「学校の先生」に、十年程度後のことでしかないの2030年代に社会人になる子供たちの教育を任せていいのか?

*まあ、こう書くと、”今は、黒板にチョークで授業なんかしてなくて、電子黒板やタブレットを使った授業が云々になっている。これだから現場を知らない素人は云々・・・。”と言い出す間抜けが必ず、現場の教職員からでさえ、出て来るとしたものですが、電子黒板にタブレット云々といっても結局、従来と同じスタンドアローン型の授業ですし、授業内容の蓄積も広域情報共有もやってないというかそういった既得権が激変する制度の構築整備や移行が四半世紀以上も進んでないことに危機感を感じて対応を求めている現役の先生が皆無に近いことが深刻な問題ってことなんですけどねえ?書くだけ無駄かもとは思いますが。

教員免許更新制度のカキコで笑ったことの一つに、現役の教職員でない(=定期的な研修等を受けてアップデートしていない)、昔々に教員免許を取得しただけで教員として教壇に立ったことも無いようなぺーーパードライバーならぬペーパーティチャーまで”教員免許更新制度が廃止されるなら、私の教員免許も死ぬまでノーチェックで永年有効(資格)にしろ”と言い出していること ・・・ ある意味で教職員より直接”国民の生命財産の保全保護”に関わる自衛隊の自衛官でさえ、退役後に予備役自衛官に登録すると年に一定の期間の(再)訓練参加した人材が非常時などに現役復帰できる制度になっているだけに、そのノー天気さと認識の甘さがなんとも。

故に、産休時などの代用教員制度を廃止して、教職員として恒常的に就労することがないまま、教員免許を維持したい場合は、予備役教職員として登録し、年に一週間程度の研修受講に毎年参加するか現役教職員が産休・病休など合理的かつ犯罪行為に関連しない理由で中長期に休職する場合に教職員として一定期間就労することに制度改変すれば、免許だけは維持したいけど(短期間であっても)学校の先生になる気は爪の先ほども無いような人材を排除できるんじゃなかろうか?

というか、小中学校(そこに高校を含めてもいいとは思いますが)の学校の先生の大半は、(地元の)国立大学の教職員養成学科や教職員免許取得が可能な学部や学科の卒業生ですから、その養成段階というか教員免許を取得するまでに多額の税金が投入され、奨学金などの借り入れや返済免除の規定などでも教職員に就労した卒業生と他の産業に就労した卒業生とでは明快な優遇制度の差があるあたりでも、”そもそも、教職員免許を取得しながら、卒業後に教職員として就労しないのなら(授業料が免除されていた場合は)授業料相当額の支払いや一定期間経過後の教員免許の(自動)失効を制度化すべきでしょう。

教員免許の更新制度に関して、やはり一定期間で更新試験に合格しないと失効する自動車運転免許制度と比較してあれこれ主張する人(というか現役の教職員と推定される人達)も目についたのですが、教員免許は取得するための教育段階(自動車免許でいえば自動車学校で受講している段階)で既に多額の国費という名の税金が投入され、教育実習などで生徒や学生にも負担や不利益を強要しているだけに、自腹で全額負担が主流の自動車学校とを同じ土俵で論じたがるあたりで、”これだから学校の先生たちは浮世離れしている”と私なんぞに書かれてしまうわけです。

また、日本国民の場合、小中学校は義務教育とされ食事費用を除く教育費は基本的に無償か公的な補助が支給され、国民皆兵ならぬ国民皆学生(あるいは生徒)を9年間は経験している ・・・ ”ゆたぽん”のような自ら国民としての義務を放棄する人も少数ながら実在しますが”義務を放棄するなら”権利”も放棄するということでいいんでしょうなあ? ・・・ だけに、”なんで此の程度の能力しかない人や人格や言動に明らかに問題がある人が辞めさせられず、民法どころか刑法の犯罪者に該当するような人でさえ「学校内のことだから」で処罰も収監もされない”といった事例に遭遇することが珍しくない現状を改善する手段の一つとして教員免許更新制度は有効というか、そのために活用する制度だとも思います。

大学だと、特定の”受講したいと思う先生の授業”を学生の側が選択できる余地が広がり、”人気のある先生の講座と人気の無い先生の講座”が分かれてしまうことが珍しくなくなるのですが、なぜか小中(高)の学校の先生たちは”上から目線”というか、”客観的な(進学実績といった)指標で評価されて、その評価が給与や昇進などに反映される制度”への改変を拒み続けてるよな~と。

この四半世紀の間に、コンピュータ関連の専門学校は増加し、そこからの卒業生や教職員は増加しているのですが、昔ながらの高等師範学校用の教員養成教育が主流というか(私学も国立も)大学の教員養成課程は十年一日というか何がやりたいのかよくわからんなあ?

まあ、20世紀の終わりころというか21世紀初頭の”学校教育の専門家”や”現役の教職員”の大半というか”ほぼ全員”が”コンピュータ関連技術や関連知識の素人集団”でしたし、その後も他の先進国どころかアセアン諸国や中国、印度などと比較しても”教育におけるコンピュータ(やインターネット)の利活用及びそれに携わる専門教職員の養成”に消極的というか、そもそも”自分が知らないことを後輩たちが知っていると不利になる”と言わんばかりの対応を続けている内に、コンピュータ関連教育の後進国というか2周目、3周目の周回遅れになったなあと ・・・ もちろん、個人的な私見にすぎませんが。

ここのところ、おっかないなあと思うことが多くなっているのが”ゆとり教育世代”が教える側の中堅どころにぼちぼちなっていることで、彼らの理想とする教え子たちが(昭和の悪ガキ世代からすれば)よく言えば”自発性に乏しく、おとなしい”、整体師としての視点だと”動物としてのエネルギーに欠ける個体がやたらと多い”かなと。

商売柄、乳幼児というか小学校に入学する前くらいまでの小さい頃から、社会人になるあたりまで関わることがままあるのですが、平成の頃までだと”なんか、あれほど活発で素直だった子が、小学校にあがると途端に不機嫌で消極的になっていくなあ~”という気がするくらいだったのが、平成の終わりころから”なんで保育園児や幼稚園児という、本来、野蛮と言うか野生動物に近いのが当たり前の連中が消極的というよりエネルギー不足みたいになって増えてるんだ?”と感じることが多くなり、”これってかっての食肉用の養鶏場で、明るいと暴れるからと場内を暗くして、鶏に専用のピンクのコンタクトレンズをさせて、多頭飼育してたのとどこか同じ匂いがするなあ~”と。

今思い出しても、薄暗い場内で専用のピンクのコンタクトレンズを着用した鶏たちが鳴くことも騒ぐことも無いままで林立していた光景には違和感というか”商業主義というか効率を優先させた先にあるもの”という気がすると同時に、保育園や幼稚園まで教育関係者の合理的な管理の先駆的な光景があそこにはあったのかもなあという気がしますな。

それはそれとして、公教育はもう当てにできないと考える人が富裕層や一部の(私学系や学習塾などの)教育関係者などから出るようになって久しいというか、”ゆとり教育”より”受験戦争教育”の方がましじゃね?という人たちが”大学教育は海外の有名校への進学を前提にした高校教育から”という流れを生むようになってからでも久しく、その流れは中高一貫校などでも加速しているなあという気がしていますが、結局のところ”文部科学省を解体して教職員などの既得権益を破壊しないとどうしょうもないところまで来ている”んじゃないかなと。

その昔、”勉強は学習塾で。道徳教育や社会常識は家庭で。”と学校の先生たちが言い出して唖然としたことがあったのですが、”じゃ小中(高)学校って何を教えるとこなの?卒業証書を配布するのが主な仕事ってこと?”と思ったのを覚えているのですが、平成の中頃から”勉強は学習塾で。道徳教育や社会常識は家庭で。”に加えて”専門性の高い、野球やサッカー(そこにテニスやゴルフなどを加えてもいいと思いますが)は、学外のクラブチームなどで専門家に。”という時代になったなあと。

ある意味で、学校の体育会系の部活動で将来的に(プロやセミプロ、インストラクターなどとして)飯の喰える人材になりたければ、従来の公教育の学校の部活動に関わるのは時間の無駄という時代に既になってるのに、なんか学校の先生達って体育会系の学校の部活動すでに時代遅れになってるのにしがみついているような気がしないでもない。

柔道や剣道の類だと、(三段以上の)地元の有段者、警察や自衛隊などなどと連携した方が、”授業の為になんとか初段(黒帯)を取得した”程度の学校の(体育の)先生に教わるより安全かつまともだと思いますし、将来的に、警察、消防、自衛隊などへの就職を考える場合も護身や自衛目的でも現実的じゃね?なんで学校の先生たちって実質的に素人同然なのに抱え込んで既得権益化を試みておきながら”大変だ大変だ!過労死しそうだ”と、この世の中で自分たち程大変な思いをしている職業人はいないかのように主張するのかなあと。

以前から、世界を舞台に活躍する音楽家でも公教育の学校の音楽の先生に師事してプロになるピアニストやバイオリニストの類は稀でしたが、プリプリ(プリンセス・プリンセス)あたりがバンドで活躍したあたりから高校生世代でも学校の音楽の授業の必要性は揺らいでいたというか、高校くらいからプロ化した宇多田ヒカルやADOのような人材が世に出たり、芸能界のアイドルグループの活躍の場が電脳空間にまで広がったことでもまた、プロやセミプロで飯を食う気でいるなら特に、学校の音楽の授業って時間の無駄じゃね?

どの分野でも、プロやセミプロとして飯を食ったり関連産業に就職する気でいるなら、ユーチューブの各種動画講座よりも教えられるレベルが低いままで安住している”教員免許を持っているだけ”の人材に自分の将来を託すことがかなり危険な時代になっていると、若い衆は考えた方がいいんじゃなかろうか?・・・

・・・と言いながら、もちろんというか、”死にかけている時代遅れの爺の戯言なんぞは信用しない。学校の先生の言うことや教えてくれることこそが真実にして唯一無二の指標だ!”という若い衆はそれはそれでいい人生かもねと思いますし、そもそも関わる気もありませんが(大笑)。

では、また~。





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Last updated  2021.08.24 07:18:32
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