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2021.09.28
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カテゴリ:昔話・物語
帰ってきた怪しい話 第0020話 「社会を変えたTVアニメ その4」

 日本には春画(しゅんが)という絵画のジャンルがありまして、ざっくりと解説すると”Hなこと全般を描いた絵”ということになるのですが、あまり詳しいことを書くと事前の自動チェックが入って登録不能になりかねない時代だったりします。

 何をオーバーなことをと思った人もおいでとは思いますが、例えば、過去に紙の本でエロ漫画ではないと分類されて普通に書店の店頭やコンビニで売られていたことのある青少年向けの漫画が電子化されて某・電子書籍サイトからダウンロード販売されるような場合でさえ、サイトの運営側が事前チェックで自動的に合否判定をしていることが珍しくない御時世に既になっています。

 故に、利用している自動チェックソフトの違いで同じ内容のAという漫画が、Bというサイトでは”Hな表現があるのでうちでは売らない”としていてもCというサイトだと”合法の範囲内なのでうちでは販売します”といった現象が既に生じています。

 もっとも、なぜに規制されるのか?なぜに規制したがるのか?といったあたりを調べていくと、”所詮、この世は色と欲”という至言に辿り着き、他人を支配したがり資源を独占したがる連中が、”酒などの嗜好品、賭博、異性関係全般”といった、そもそもなんで赤の他人にあれこれ言われなきゃならんのか?と。

 或いは、”Hなことはいけないと思います!”と、まほろさんのような発言を繰り返している人に、”Hなことをする仲にならないなら永遠に「知り合い」とか「知人」止まりで「彼氏や彼女」、「配偶者」といった関係にはならないってこと?・・・・・何事も”過ぎたるは及ばざるがごとし”だと、私は、思いますが?

 春画の類の起源は、芸術性や画力に目をつむると縄文時代の土器のあたりにまで遡れるような気がするのですが、平安時代の中期頃に書かれた源氏物語の前半に出て来る”雨夜の品定め”が、21世紀の男子中高生たちの間でも(異性の目が無い)教室や部室の片隅などで未だに開催されることがある一種の通過儀礼であり、通過していない人の方が何かと(手が後ろに回るレベルで)後々の大きなしくじりに繋がる ・・・ ような気がするのは気のせいか?

 源氏物語には、ある種のダイジェスト版とも言える”源氏物語絵巻”という彩色画で物語の印象的な場面を描いてた巻物が平安時代以降も何種類か作成されているのですが、基本的に源氏物語は光源氏の”俺の空”ですし、独立して屋敷の主になる頃からはラノベの定番であるハーレム形成物語の側面も強くなっていきますから、まあ、インスパイアされたと思われる春画の類はそれなりに存在します ・・・ 学校の教科書に掲載されるかどうかはともかく。

 ただ、烏帽子をかぶって狩衣を着た貴族と思しき男性が(自主規制)といった光景は、描かれた当時は日常の光景の一種のパロディだったのかもしれませんが、千年前から似たようなことやってたんだと”くすっ”と笑えるようにならオトナの男だし、秘すことを知らず、場所も相手も選ばずに思うがままに口に出して周囲に触れて回るようだと永遠の乳幼児というかお子様に区分されるあたりにもほとんど時差の類が無いのかもしれません。

 もっとも、教科書の類に掲載されているものとは異なるは春画系の美術品の中で、ほんと時代も洋の東西も問わないな~と思ったのがポンペイの壁画というか彩色タイル画で、まるもろの構図作品とか一部分だけ誇張して表現されている作品とか、当時のローマ人にそこはかとない親近感を抱く日本人は意外と多いのではなかろうか?

 それはそれとして、物語の印象的なシーンを同じサイズの彩色絵に描き起こし、一巻きの巻物に編集する絵巻物の手法や仏教の説法で絵を利用する手法は、時代が下がるほど庶民の娯楽にも流用されるようになり、戦前の昭和の頃には日本ならではの”紙芝居”に収斂されていきます。

 逆に言えば、海外にありそうでないのが”庶民の子供相手の紙芝居の文化”で、内容的には近いものがある人形劇や影絵の文化などは世界的に散見されることを考えると不思議と言えば不思議なのですが、日本では産業として”紙芝居”から”貸本漫画”が派生し、月刊や週刊の”商業誌漫画”雑誌が興隆していくことになります。

 そういった流れで確立されていったためか、油絵や彫刻が起源の欧米の漫画に立体的な三次元デザインや三次元デッサンが多いのに対して、日本の漫画には絵巻物の時代から紙芝居を経て続く二次元デザインや二次元デッサンが多いと、私は、思うのですが、漫画家の手塚治虫が立ち上げ、その成功でTVアニメといえば人気漫画家が描いた原作漫画があるのが当たり前と言う日本のTVアニメのキャラクターたちは未だに良くも悪くも二次元デッサンが主流です。

 なお、TVアニメの二次元デッサンと三次元デッサンのキャラクターといっても、漫画作品となると”立ち位置や配置される場所”といった”空間把握能力”の有無というか差で、”一人一人の登場人物はフィギュアのように立体的に感じるのに、人と人との間合いや奥行きに違和感が生じる”といった無理が生じるかどうかとは別の話になります。

*個人的に、この人の空間把握能力や三次元から二次元への落とし込み(変換)能力は凄いと思った漫画家の筆頭は、水谷なおき(1960~1999)。

 例えば、手塚治虫のキャラクターの多くは二次元デザインで、彼らが配置されている(コマの中の)空間は三次元デザインになっていることが多いため、手塚作品の多くのシーンは読み手が自身の頭の中で俯瞰図に置き換える(視点を切り替える)ことができるのですが、アトムやサファイア姫といった主要キャラクターでさえ矛盾なくフィギュア化することは(ほぼ)不可能 ・・・ だと、私は、思います。

 その意味で、手塚作品をコンピュータを使って三次元アニメとして違和感なく(或いは少なく)リメイクする際の難易度はかなり高くなると、私は、予想しているのですが、トキワ荘世代の漫画家さんたちの多くはキャラクターも空間も二次元というか紙芝居や一コマの新聞風刺漫画からの影響が強い世代ではないかと。

 そんな漫画家さんたちが駆け出しだった1940~1950年代に、キャラクターは二次元でデザインしていても、それらを動かす空間を三次元でデザインしてあることで、”新・宝島”を読むと”実写映画のようにキャラクターがぬるぬる動くし、コマの中のシーン(というか視点)が勝手に切り替わる”と頭の中で置換し驚嘆したのではないかと ・・・ 立体化能力や空間把握能力が低い人ほど紙芝居との違いがわからないと思います。

 二次元空間世界と三次元空間世界との違いという点で言えば、対戦格闘ゲームで一世風靡した初期の”ストリートファイター2”という二次元空間が舞台のゲームと、三次元空間の再現とポリゴンという概念を広め定着させた”バーチャファイター”という三次元空間が舞台のゲームを実際に操作してみた方が違いが分かりやすいと思います。

 まあ、誤解を恐れずに書いておくと、手塚治虫が”ストリートファイター2”とすれば、手塚以前は”イー・アル・カンフー”で、打倒手塚で編み出された”劇画”というジャンルが”バーチャファイター”と考えると、言わんとすることが分かってもらえるか?かえって”なんのこっちゃ??とさらに混乱するか?

*紆余曲折の末、ストリートファイター2はストリートファイター3に素直に進化することはなく、キャラクターだけ三次元化を進めたものの、・・・ 話が長くなりそうなので、以下略(笑)。

 新・宝島で手塚治虫が衝撃の漫画家デビューをかざった1940~1950年代の日本というのはよく言えば戦後の復興期で、素直に言えば戦後の混乱期だったのですが、(某先輩に言わせると)戦前から、紙芝居、貸本漫画といった業界は”著作権?何それ?美味しいの??”という無法地帯だったと書いてもいいそうです。

 そういった時代背景だったこともあってか、手塚作品に限らず、他の漫画のキャラクターが無断で描かれていたりストーリーが流用されていたりということは漫画業界でも日常茶飯事だったのですが、手塚治虫をして好評すぎたと言わしめたTVアニメ「鉄腕アトム」の大成功は、それまでの紙の本という媒体で数千~数万冊規模で売れれば御の字だった漫画家たちに巨万の富を短期間でもたらすことにもなったわけです。

 手塚治虫の凄いところは、映画作品としてのディズニー映画の技法云々だけでなく、ディズニー映画(というかハリウッド映画)が既に確立していた映画の版権ビジネスとしての稼ぎ方もアトムを製作する時点で導入していて、当時の著作権などが事実上存在し無い紙芝居や貸本漫画といった既存の業界相手の商売と一線を画しているなあと。

 つまり、”原作漫画”+”TVアニメ”+”キャラクター関連商品(のロイヤリティー)”+”映画化”といった”メディアミックス”の原型というか日本の漫画版権ビジネスのプロトタイプを作り上げたのも(結果的に)鉄腕アトムであり手塚治虫だったということ。

*アトムの版権ビジネスは当時の金額で一億数千万に達したという説がある ・・・ 資産管理や法律のプロを雇用しないと、詐欺師やペテン師の類が暗躍し、多額の使途不明金や複数の失踪したり不審死する関係者が出かねない金額ですな。

 TVアニメの成功が手塚治虫に文字通り巨万の富を短期間の内にもたらしていく光景を直接目にすることになった漫画家やSFドラマの書ける小説家たちに”俺だって巨万の富を・・・”という野心を持たせるのに十分だったようですし、”エイトマン”の原作で平井和正が同世代のSF作家の中で群を抜いて稼いだこともあって、あちこちで”裏切りのメロディ”が流れるようにもなっていったのですが、手塚治虫のTVアニメ部部門の会社”虫プロ”がドラマの舞台になっていったんだなと。

 ある意味で、虫プロで育ったり育てて一人前になったスタッフをよく言えばヘッドハンティングして後発他社が引き抜いたり、虫プロ内で”独立して自分たちで別会社を立ち上げた方が儲かる”と徒党を組んでから脚抜けをしたりと、仁義なき戦いというか、まあ酷い話があれこれと生じ、エ〇〇ンのように(以下略)。

*毎週30分のTVアニメを年単位で製作し続けるノウハウというのは”鉄腕アトム”以前には存在しないので、シナリオの作成、セル画の作成、スケジュール管理などなど、後発組からすれば喉から手が出るほど貴重なノウハウを持っている若手を本人たちに気づかれないように如何に安く買いたたくかという時間帯であったとも言える。

 鉄腕アトムを筆頭に、”SF作品も”描いて社会的にも金銭的に若くして桁違いの成功を手にした手塚治虫 
に対して、SF小説が本業と自称する”早川こけたら皆こけた”世代の日本のSF作家たちからすれば「SF作品としては手塚作品は子供向けで大したことはない。俺の作品の方が・・・なのになぜSF小説小説では儲からない?」と自問自答してたのではあるまいか?

 そう考えると、既に成功している手塚治虫の思考法や商業戦略を研究したり模倣して理論的に整理し体系化したりアレンジする知恵者が出て来るのは時間の問題だったとも言えるのですが、”いいもの(作品)さえ書いていれば売れる”と考えたか”売り方も工夫しないと駄目じゃね?”と考えたかでも、その後の明暗が分かれたでしょうし、追われる側になった手塚治虫からすれば勝てば勝つほど敵が増える状況が深刻になっていった時間帯だったのではなかろうか?

 ちなみに、SF作家業界には小松左京(1931-2011)など中核になるボスがいて仲間意識が強く、好きでやっているものの小説業界で格下扱いされる売れない分野だったこともあってか、アンチ手塚の言動もまた多かったのですが、”もりみのる”は漫画家デビューでしたし、1970年代前半に小松左京の”日本沈没”が社会現象になるレベルで大ブレイクして国産SFというジャンル全体に特需景気が到来するとSF作家業界のアンチ手塚の言動は急速に沈静化していったのでした ・・・ 他人をあれこれ言っている暇があるなら一文字でも多く書けという時間帯になったということだったのか?

 それはさておき、定期的に毎週放送されるTVアニメが量産されるに連れて、相対的に手塚アニメの地盤沈下が進んでいったのですが、金銭面で考えると”なぜ手塚治虫は漫画家を続けたのか?”が謎ですし、実際、虫プロなどの倒産(1973)といった”うまく立ち回って勝ち逃げしておけば回避できた”であろう漫画以外の負担も背負いこむことになっていきます。

 皮肉なことに、TVアニメの”時代が変わった”ことを実感した作品”海のトリトン”の原作もまた手塚治虫でサンケイ新聞連載(1969-1971)とTVアニメ(1972)では主要な登場人物(?)以外はほぼ別物で、アニメを見てから原作を読むと”コレジャナイ”感に襲われる人が珍しくないのではなかろうか?

 分野としては伝奇SFのはしりで、冨野由悠季の初監督作品、西崎義輝の初プロデュース作品、手塚治虫の初原作提供だけ作品として知られる --- アニメのテーマ曲に”須藤リカ”と”かぐや姫”が歌う実写映像も使われ若手(当時)のJ-POP系の歌手がテーマ曲を歌うこと自体が画期的であった。

*かぐや姫といえば、南こうせつ。
*後年、キャッツアイのOP(Cat's Eye:1983)がヒットしたとき、杏里がTVのベストテン番組でキャッツアイを歌う時、なぜか”オリビアを聴きながら”も歌うことが多く、アニソンを格下扱いする歌手は意外と多かった。
**その点、”ルパン音頭(1978)”を歌い上げて伝説となった大御所の三波春夫(1923-2001)は偉大であった。

 時期的に”海のトリトン”が製作された頃の手塚治虫というか虫プロは倒産がちらつく下り坂で、漫画「ブラックジャック」の連載(1973-1978、-1983)がヒットして浮上するまでの間の手塚治虫は”あの人は、今”状態に陥っていく低迷期というか、天才・手塚もこのまま消えていくのかと思われていたと書いてもいいくらい姿を観なくなっていた(冬の時代 1968-1973) ・・・ 知名度はそれでも抜群でしたが。

*ある意味で青少年向けで最後の長期連載となった、三つ目が通る、の連載開始は1974。

 さて、”海のトリトン”のTVアニメが放送されていたころ、”宇宙戦艦ヤマト(1974)”の企画も動いていました ・・・ 虫プロ時代の人材資産を流用しながらプロデューサー西崎義輝の時代が始まったのですが、手塚の低迷→西崎の勃興→西崎の低迷→手塚の再浮上、とでもいった周期を感じないでもありません。

が、”宇宙戦艦ヤマト”のTVアニメ化こそが、鉄腕アトムのTVアニメ化の次に到来した二度目の大きな変革というか、社会をTVアニメが変えてしまった始まりのコンテンツではないかと。

 皮肉なことに、宇宙戦艦ヤマトには鉄腕アトムのような先行販売されている原作漫画も原作小説も存在
せず、企画原案に関わった豊田有恒(1938-)によれば西遊記などの古典を元ネタにしているようですが、ヒットしたが故にもめにもめた、いわゆる”ヤマト裁判”で痛み分けというか”で、結局、誰が著作権を持っているのかではなく、誰が原作を書いたの?”と聞きたくなる状態で結審しているのは比較的知られた話。

 宇宙戦艦ヤマトの初回放送時は裏番組(猿の軍団、アルプスの少女ハイジ、などなど)が強かったこともあってか、一部の熱狂的なファンを産んだものの視聴率は低迷して事実上の途中打ち切りとなり、当初の企画段階で52話(約4クール)くらいで構想していた作品は圧縮されカットされで約2クールのしょぼい作品になってしまったのでした。

 かくして、苦労して目的地のイスカンダルまでたどり着いたヤマトは”あっ!”という間に地球に戻ってきてエンディングを迎えるのですが、イスカンダルという名称が印度まで大遠征したアレキサンダー大王のことといった設定や伏線の多くが日の目を見ることが無かったようですな~というか、今となってはイスカンダルといえばFateが初めてだったという時代ですな。

 しかしながら、時代はまだ各家庭にビデオデッキの類が普及する以前でしたから”もう一度見たい”と思えばTV局に再放送の嘆願をするくらいしか現実的な手立てがなく、そうした全国からのファンの要望もあって、TVシリーズをさらにつぎはぎにして”宇宙戦艦ヤマト”の総集編・劇場版(1977)が作成されたのですが、西崎プロデューサーは(その画像としてのクオリティの低さなどから)売り物として受け入れられるのかどうか半信半疑だったようで、保険を兼ねてファンクラブの活動がしっかりしていた”海のトリトン(前編)”を劇場版として製作して同時上映としたというのは比較的知られた話になります。

 結果的に、劇場版のヤマトは大当たりしてしまい、ヤマトがこけたときに少しでも資金回収する予定だったのか”海のトリトン(後編)”の作成は長らく立ち消え状態となり、LD版あたりで目にしたファンが多かったのではなかろうか?

 ヤマトが社会を変えたアニメだと私がしばしば言っているのは、”ワープ”といった作品中に登場する、当時は一般的ではなかったSF用語の類が、TVアニメをほとんど見ることのない世代や女性たちにも広く浸透して一般名詞化していったためで、それは”スペースコロニー”が機動戦士ガンダムによって一般名詞化していった光景と酷似しています。

 まあ、ヤマトにしてもガンダムにしても社会を変えてしまうアニメは、どこか早いところがあるのか御本放送時に途中打ち切りの憂き目に遭いやすいのかもしれません ・・・ 途中打ち切りで復活することのないまま現在に至る作品にも幾つか心当たりはありますが(大笑)。

それでは、松本零士に辿り着けないまま、続きの話は、次回の講釈で。





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Last updated  2021.09.28 14:52:22
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