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2021.10.25
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カテゴリ:昔話・物語
帰ってきた怪しい話 第0022話 「社会を変えたTVアニメ その6」

 学校の歴史の授業などでも知られている”鳥獣戯画”は、現存する資料の中では最古級の”漫画”のルーツではないかと、私は、考えているのですが、鳥獣戯画はイラスト集や図案集としての側面もあることから作成編纂された当時の雑多な絵全般の資料集と考えておけば十分かなと。

 植物園や動物園などが無く、写真や映画といった記録手段が開発されるまでは実物を見ながら絵に手描きで描いて残したり、(彩色)版画で複製画を作ったり、石を刻んだり、粘土で像を造るくらいしか視覚情報の情報伝達手段が無かっただけに、先人たちが精密な資料集を編纂してくれていると後輩たちは随分と手間が省けて助かったのではないかと。

 江戸時代の中頃というか、町民文化が隆盛していった、所謂、文化・文政の頃になると、瓦版や浮世絵、錦絵などの文字や絵の複製技術が発達し、製紙技術の発達と普及などで紙の量産と廉価化が進み、庶民の教育水準が上昇しいたこともあいまって、主に都市部で貸本業が商売として成立するようになっていくのですが、各種の図鑑や料理の手引書、高級和菓子の彩色カタログ、彩色地図(切絵図)、観光案内(名所図会)などの作成も盛んになっていきます。

 いろいろな資料が作成され、文字の読み書きが怪しい庶民でも絵で見れば腑に落ちるというか理解しやすく記憶に残しやすいとなると、”商業イラストの描き手”が必要となり、需要が増えれば増えるほど、”素人でも手軽にイラストを上手に短期間で描けるようになれないか?”といったニーズが高くなっていったようです。

 まあ、その延長上に”漫画の描き方入門”といった入門書を昭和の頃の売れっ子漫画家さん達も世に出していて、石ノ森章太郎や手塚治虫などの漫画技術の解説書をバイブルにしている漫画家がプロ、アマ問わず珍しくないことは比較的知られた話になります。

 そのあたり、既に商業的に成功していて世間にそれなりに名の知れている大家が残した”イラストの作画事例や作画技術の解説書”として最古のモノにして、現代漫画の直系の祖という気がしているのが”北斎漫画”(私に言わせると、連作画集兼技術解説書群)で、90歳まで生きた葛飾北斎(1760-1849)が50~60歳頃に手掛けたらしい。

 勘繰れば、弟子入り志願者が多くなってきて教える時間や手間暇がめんどくさいと思ったのが作成の動機だったのではなかろうか?自学自習用の教材テキストを作っておけば門下の誰かが適当に対応するんじゃね?とか考えたような気がするのは気のせいか?・・・ちなみに、公認というか存命中の直系の弟子だけで200人を越えているという説もある。

 北斎の絵に関して言えば、”溜息しか出ない”。

 ただ、屏風絵や錦絵、挿絵の類までマルチに描いている北斎に関してあれこれ考えていて、ふと疑問に思ったのが、雑多な題材で貸本の挿絵などに納まる程度の大きさのイラスト程度の絵を”漫画=漫然と描かれた絵画”と定義するとして、では、漫画の対義語や反語に該当する言葉や用語って何?ということ(辞書的な定義は存在します、念の為)。

 戦後の日本漫画業界の方向性を良くも悪くも決定づけ、漫画の神様と呼ばれることもあった手塚治虫の場合、漫画のネタにしたのは北斎ではなく写楽(東洲斎写楽、江戸時代中期に10カ月だけ(1794-1795)活動した。本名、生没年等不明)でしたが、私は、どうしてもというか何故か手塚風の丸っとデフォルメされたラインというかデザインが嫌いで、ウルトラマンやウルトラセブンなどの美術監督で知られている成田亨(1929-2002)の鋭角デザインが好みなので、正直、手塚作品は漫画もアニメも”イラっ”とすることが多いです ・・・ と言いながら大半の手塚作品を読了していますが(笑)。

 ある意味で、手塚治虫を筆頭とするトキワ荘時代の人気漫画家さんたちの描く漫画は”丸っ”としていて、我らが石ノ森章太郎や永井豪にしてもその影響から抜け出すことができず、よりリアルな作画を指向して”劇画”を自称した漫画家さん達もまた”丸っ”から抜け切れていないような気がします ・・・ その辺りから時代を遡ってあれこれ考えると、葛飾北斎→手塚治虫→日本の漫画家、という系譜のせいかもなあと思うわけです。

 それはそれとして、手塚作品を読んでいて”イラっ”とすることの一つに”武器や武具の類がリアルでないこと”があるのですが、もちろん手塚治虫の画力からすればリアルに描けなかったのではなく描きたくなかたのではないか?と思いますが、長谷川町子(1920-1992)が”サザエさん うちあけ話(1978)”の中で描いたデフォルメされているB-29 (らしき爆撃機)の場合、リアルでないのにリアルに感じましたから、そもそも武器や兵器が潜在意識のレベルで嫌いだったのかなと。

 では、逆に戦後の漫画にリアルな武器や武具の描写を持ち込んだのは誰か?と考えると、”秘密探偵JA(1964)”、”ワイルド7(1969-1979)”の望月三起也(1938-2016)か、松本零士(1938-)あたりだと、私は、思いますが、戦後しばらくの間の少年漫画のジャンルに、第二次世界大戦中に活躍したゼロ戦や紫電改といった戦闘機や伊号潜水艦(イ、ロ、ハ)などをモチーフにした(架空を含む)潜水艦が活躍する漫画群があったのでそちらを元祖とするのもありかもしれません ・・・ 行き着く先が”タンク・タンクロウ”や”のらくろ”になったとしても。

 もっとも、私の区分で松本零士と言えば長らく”意味不明な猫漫画を描く少女漫画家”で、SF漫画家に区分が変わったのが”光速エスパー(1968-1969、1969-1970)”、”ミステリーイブ(1968)”、”セクサロイド(1970)”あたりからだったりします ・・・ その辺り、”少女漫画(業界)で成功する男性漫画家は変態だ!”といった主旨の発言を目にした覚えがあります(笑)。

*大四畳半系(大四畳半、男おいどん、等)と虫系に関しては長くなるので略。

 ちなみに、史実を下敷きにした架空の戦争ものを本格的に世に出すようになったのが、”ザ・コックピット(1975-)”、”HARD METAL(1984-1990)”あたりで、初期の戦場漫画もの路線は微妙というか2年半ほど松本零士のアシスタントをしていたことのある新谷かおる(男、1951-)の”戦場ロマン・シリーズ(1977)”に継承されているような気がしないでもない。

*新谷かおる=やったらん、のモデル説は一部で有名。

 というか、少年漫画の戦記物が第一次、第二次世界大戦の呪縛から解放されたのは新谷かおるの”エリア88(1979-1986)”のヒットに寄るところが大きく、1980年代にジェット戦闘機同士の空中戦で”ベテランパイロットを撃墜できるコンピュータ制御の無人機”を登場させているあたりで、日本のSF漫画の黄金期だったなあと(遠い目)。

 宇宙戦艦ヤマトのTVシリーズは、同時期に小松左京の”日本沈没”が映画もTVも大ブームとなったことで国産SFに特需景気が訪れていたにもかかわらず視聴率的に惨敗して、事実上の2クール打ち切りとなったのですが、本放送時に熱狂的なファンになった中高生あたりが成長して社会人や大学生になって時間と金を手にするようになったことで数年後に社会現象を起こせる主体になったわけです ・・・ オタク第一世代の黎明期ともうせましょう。

 時期的にハリウッド映画”スターウオーズ(初期三部作、1977、1980、1983)”が記録的なヒットとなった直後の1978年に、劇場版”宇宙戦艦ヤマト(1977)”の事前予想を大幅に上回るヒットを受けて急遽作成された劇場版”さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち”が封切られたのですが、事前の目標興行収入15億円だった”さらば宇宙戦艦ヤマト”の興行収入が43億円(配給収入21億2千万円)に達し、この配給収入の記録は1991年にジブリの”魔女の宅急便”(21億5千万円)に抜かれるまで首位をキープしたことでも有名というか伝説になります。

 ちなみに、1978年の時点だと配給収入21億2千万円というのは実写映画を含めて戦後に封切られた邦画全体でも4位(ちなみに、1~3位は、八甲田山、人間の証明、野生の証明(1978))でしたから、まさに”事件です!金田一さん!!”と言いたくなるような社会現象になったわけです。

 この劇場版・宇宙戦艦ヤマト1~2の記録的な大成功は、それまで日本の実写SF映画を牽引してきた円谷特撮映画とTVアニメを立ち上げ牽引してきた手塚作品を一気に”過去のモノ”にもしてしまったのですが、スターウオーズや宇宙戦艦ヤマトのような”スペースオペラ”調の作品が(あえて言えば)”W3”くらいだった手塚治虫にとって手持ちのコマが無い状況だったとも言えます。

*W3(ワンダースリー)はW3で、少年マガジン→少年サンデーへの移籍騒動が生じたことでエイ〇ン関係者までも絡む黒歴史の一つとして知られています。

 ちなみに、円谷特撮映画の凋落は、かってはドル箱だったゴジラシリーズが、”メカゴジラの逆襲(1975)”の観客動員数が91万人とワースト記録を更新したこともあって以降のゴジラ映画製作が休止となった作品として知られていることが典型的ですが、1975年という年が洋画の興行収入が初めて邦画の興行収入を越えた分水嶺の年でもあったのですが、一作目の”ゴジラ(1954)”から21年続いた昭和ゴジラの製作休止は確実に一つの時代の終焉でもあったと、私は、思うのですが、製作休止が1984年の”ゴジラ”まで続いたあたりでも、いかにゴジラというコンテンツが”子供だましの怪獣プロレスなんだから金をかけなくても大丈夫”とばかりに使い潰され磨り潰され衰弱していたのか分かりやすい。

*ゴジラが正義の味方の怪獣王ゴジラとして客演した実写TV特撮”流星人間ゾーン(1973)”は、そもそもゴジラを主役とした実写TV特撮番組という企画が元ネタとして知られているものの、唐突に4話からゴジラが登場するようにはなったものの視聴率は低迷し2クール打ち切りとなった ・・・ 既にその段階以前から製作陣が思っていた以上にゴジラの神通力は無くなっていたのではなかろうか?
**ちなみに、流星人間ゾーンに関しては、今となっては、ゴジラが客演していた云々よりも”ゾーンファイト!パワー!!”のシーンの方が有名と言えば有名 ・・・ 一部では。

 というか、”スターウオーズという宇宙を舞台にした凄いSF映画がやってくる!!”ということで、あわてて引っ張り出されたというか急遽リバイバル放映(1978・3、東宝チャンピオンまつり)された円谷特撮映画が”地球防衛軍(1957)”や”宇宙大戦争(1959)”だったという辺りで、或いはスターウオーズのヒットも受けて急遽製作された実写SF映画が東宝が”惑星大戦争(1978)”で、スターウオーズの日本封切り(1978)後に封切られた東映の実写SF映画が”宇宙からのメッセージ(1978)”くらいだったというあたりで、なんだかな~と。

 もっとも、小松左京の原作SFを実写映画化した”さよならジュピター(1984)”と比べると、石ノ森章太郎がアイディア出しをした”宇宙からのメッセージ”の方がマシに思えるのが不思議で、大御所たちがこだわった末に”さよならジュピター”が興行的に大コケ失敗したことで完全に円谷特撮映画の系譜は終焉を迎えたなあと、私は、思ったのですが、新劇場版エバンゲリオンの最終話の終盤で、”Voyger~日付のない墓標”が流れたときに、故人となられた小松先生の大コン絡みのことや”円谷特撮の灯が途絶えたあの時”への追悼のような気がしたのでした。

 それはそれとして、”宇宙からのメッセージ”の評価が今一つだった理由の一つに”既に蒸気機関車が宇宙空間を疾走して長距離旅行をしていて、宇宙人の超テクノロジーも使って復活した第二次世界大戦時の戦艦大和がイスカンダルまで行って帰ってきてるのに、帆船が宇宙を航行すると言われても新鮮味は無いよね?”といった意見や感想があったのではないかと。

 スターウオーズに対抗して製作された日本のSF宇宙ものの特に実写映画は、1960年代くらいまでは世界の最先端とまともに競争できていた円谷特撮の資産をいつの間にか食いつぶしていて、SF作品としてのクオリティも”子供相手の作品なら子供だましの適当なもので良し”と値切っている内に20年かけて凋落したんだなあと。

 もっとも、アニメ映画の場合、ヒットしている漫画原作が既に存在していたり、企画段階から原案協力の形であっても漫画家が参加していると”時短”と”経費削減”に直結することが既に手塚治虫によって実証されていましたし、ヤマトの成功でTVシリーズのダイジェスト版でも十分いけることが実証されたことで、TVアニメ化や劇場版アニメ製作のハードルが心理的なものを含めて下がったから、数が造れるようになり実績の乏しい若手のクリエーター達にも成り上がるチャンスが増えたのは確かな話になります。

 劇場版・宇宙戦艦ヤマトの成功で一躍時の人になった松本零士でしたが、宇宙を舞台にしたSF作品の新作を求める声に”銀河鉄道999”と”宇宙海賊キャプテンハーロック”、”千年女王”といった作品を次々と投入できたことで1970年代中盤から1980年代前半にかけて一つの時代を築き、TVアニメがヒットしたら劇場版アニメの製作という流れを定着させたと言ってもいいのではないかと。

 ただ、手塚治虫に”リボンの騎士”のサファイア姫、松本零士に”銀河鉄道999”のメーテルといった、作品そのものは読んだことも見たことも無いけれど、絶対エース級のヒロインの姿と名前は知っているという、ある意味で手塚治虫が愛用したオールスターシステムを松本零士も踏襲したことで、複数の作品に登場することで息の長い知名度抜群になっていくキャラクターを創作することのメリットが知られるようになったかなと。

 かくして、一時代を築いた松本零士ですが、当然、”誰がポスト松本零士になるのか?”という次の覇権闘争もまた時間の経過とともに混戦状態になっていくのですが、その辺りの話は、長くなってまいりましたので、続きは次回の講釈で。

 では~。





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Last updated  2021.10.26 04:16:44
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