「なんで女郎屋の女衒が、花街をうろついてはるんどす?」
「最近の輩は縄張りを平気で無視して商売やるさかい、かなんわぁ。」
女将はそう言って嘆息すると、香欖(からん)を見た。
「香欖ちゃん、あいつらには気を付けや。絶対に捕まったらあかんで。」
「へえ、おかあさん。」
「お風呂沸いてるから入りよし。今なら誰も居てへんさかいな。」
「おおきに。」
香欖は自室に入り、だらりの帯を緩めて浴衣に着替えると、花簪を抜いた。
温かい湯の中に浸かると、全身の疲れが一気に取れた。
「香欖ちゃん、湯加減はどうえ?」
「ええ塩梅どす、おかあさん。」
「そうか。」
戸の向こうから女将の優しい言葉を掛けると、風呂場から遠ざかった。
風呂に入る時だけが、香欖にとって唯一心が安らげる時だった。
男でありながら舞妓となり、花街で生きていくことを決めたその日から、正体を暴かれてはならないと思い、常に気を張っていた。
芸事の稽古も人一倍やり、お座敷での客あしらいは先輩芸妓達から学ぶとともに、花街でのしきたりを守ってきた。
いつか姉と再会できる日を夢見て、香欖は暫しの休息を味わっていた。
元宮伯爵邸の使用人部屋に、1人の少女が鏡の前で立っていた。
彼女の手には、爾子のドレスがあった。
「ふふ、これでわたしもお嬢様・・」
少女は口端を歪めて笑いながら、爾子のドレスに袖を通してくるりと鏡の前で一周した。
彼女は元宮伯爵邸で奉公している女中で、爾子のように女学校への進学を希望していたが、家庭の事情で女中奉公を余儀なくされた。
それ故に彼女は、自分と同い年でありながら経済的に恵まれている爾子お嬢様に対して憎しみを持っていた。
“お嬢様ごっこ”に飽きた彼女は、爾子のドレスを脱ぐと、それを羅紗鋏で切り裂いた。
「憎い・・あの女が、憎い。」
少女の全身から、黒い瘴気が立ち上った。
「山瀬さん、今度はわたくしと踊ってくださいな。」
「ずるいわ爾子様、わたくしが山瀬と踊るのよ。」
「いいえ、わたくしとよ。」
大広間では、羅姫と踊り終えた山瀬が爾子とその友人達に囲まれて困惑していた。
「モテる男はつらいわねぇ、山瀬。」
「からかわないでください、お嬢様。それよりも哲爾様をお探しにならなくても良いのですか?」
「良いんじゃないの? 哲爾様にはあの娼妓がお似合いよ。」
羅姫はそう言って扇子を閉じた。
一方哲爾は、娼妓・小菊とともに伯爵家の中庭で夜風に当たって涼んでいた。
「哲爾様、あの金髪の方は、もしかして哲爾様の・・」
「あいつとは結婚する気はないし、向こうもその気じゃないから、心配するな。お前を身請けする金は充分貯まったし、何年かかるかわからないが、2人で暮らせる家も用意してある。お前は何も心配するな。」
「ですが、哲爾様・・」
「俺はお前を愛しているんだ、小菊。俺を信じて欲しい。」
「哲爾様・・」
小菊は憂いを帯びた栗色の瞳で哲爾を認めた時、すずが2人の間に割り込んできた。
「お兄様、まだこんな方とお付き合いなさっていたのね!」
すずはそう言って美しい眦を吊りあげると、小菊を突き飛ばした。
咄嗟の事でよけきれなかった彼女は、地面に尻餅をついてしまった。
「すず、小菊に何てことを!」
「お兄様、この女との結婚は反対だとおっしゃっているのに・・わたくしとお父様達を裏切るおつもりなの!?」
「お前には関係ないだろう!」
哲爾がそう声を荒げた時、小菊が突然下腹を押さえて苦しそうに呻いた。
「小菊、どうした!?」
「赤ちゃんが・・」
薄紅のドレスが、徐々に赤黒い血に染まってゆくのを見て、哲爾は堪らず彼女の身体を抱き上げて元宮伯爵邸から飛び出していった。
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