『ちょっとぉ、あんたあたしから逃げられるとでも思ってるわけぇ!?』
千尋の通報を受けた警察官が琴を連行するまで、彼女はマンションのエントランスで暴れていた。
彼女が警察に連行されるまで、陸は歳三の胸に顔を押しつけ、声を殺しながら泣いていた。
「陸、もうあいつはどっかへ行っちまった。」
「本当?もう来ない?」
「ああ。だから安心しろ。」
安堵の表情を浮かべた陸が漸く歳三から離れると、彼の涙と鼻水で濡れたシャツを歳三は素早くキッチンマットで拭いた。
「今夜はこちらに泊まられては如何です?あの人がアパートに来るかもしれませんし。」
「そうだな。陸、そうするか?」
「うん・・」
「じゃぁ、向こうでお布団の用意をしてきますね。」
千尋はそう言ってリビングから出ると、全く使われていない客用の寝室へと向かった。
上京した際、兄の聡史から“いい物件を見つけた”との連絡を受け、契約したのがこのマンションの部屋だった。
一人暮らしだというのに客用の寝室があるのは無駄だと抗議する彼に対して、兄はこう答えた。
『万が一のことを考えないと駄目だろ?』
その“万が一のこと”が起きて、この寝室の出番が来るとは当時自分も兄も思わなかっただろう。
「先に風呂、入っていいか?」
「どうぞ、お構いなく。」
歳三が陸とともに浴室へと消えていくのを見た千尋は、リビングのソファに腰を下ろして深い溜息を吐いた。
歳三の元妻・理紗子と会うのも嫌だったが、あの琴とかいう女が自分の所に押しかけて来たのはもっと嫌だった。
理紗子は歳三と一時期は揉めたものの、陸の親権を彼に渡して新しいパートナーである東弁護士と再婚しようとしているし、向こうにも未練がない筈だった。
だが琴は違う。
この前、自分の元にわざわざやって来て宣戦布告してきたのを見ると、彼女はまだ歳三に対して未練があると思ってもよさそうだった。
今回は琴を退けたが、次はいつ来るのかが判らないし、向こうが何を考えているのかもわからない。
一体彼女は何がしたいのだろうか―そう千尋は思いながらも、ついうとうとしてしまい、ソファに横になって目を閉じた。
「風呂、上がったぞ。」
歳三がバスタオルで濡れた髪を拭きながら浴室から出て来ると、やけに静かだったのでリビングに彼が入ると、千尋はソファでいつの間にか寝てしまっていた。
一瞬彼を起こそうかと思った歳三だったが、余りにも千尋が気持ちよさそうに眠っているのを見て、やめた。
彼を起こす代わりに、そっと近くにあった毛布を彼に被せると、歳三は浴室へと戻った。
「あれ、千尋さんは?」
「ああ、あいつは疲れて寝てるようだから、寝かせてやろう。」
一方、歳と陸が住むアパートの前では、案の定琴が二人の事を待ち伏せていたが、彼らが一向に現れないことに苛立って、アパートを後にした。
(歳、あたしから逃げられると思ったら大間違いなんだからね!)
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