17年前、吉原・黄尖閣の牡丹太夫を砒素(ひそ)で毒殺したのは、かつて牡丹太夫が振袖新造(ふりそでしんぞう)であった頃に牡丹太夫から熱湯をかけられ、顔に醜い火傷を負った黄尖閣の下男・六郎だった。
六郎はかつて翡翠と呼ばれ、いずれ黄尖閣一の太夫となるといわれていた。
だがその才能に嫉妬した牡丹が、六郎に些細な言いがかりをつけて彼に熱湯を浴びせた。
その所為で顔に酷い火傷を負った六郎は、太夫となることを諦め、黄尖閣の下男となった。
六郎失脚後、牡丹太夫が黄尖閣の看板を背負うことになり、六郎は間近で太夫として輝く牡丹の姿を毎日見る事になった。
そしていつしか彼の中では、牡丹に失脚させられた積年の恨みが募ってゆき、それは憎悪となって爆発した。
六郎はあの日、牡丹に砒素入りの茶を飲ませる前に、毒味と称して自分も毒入りの茶を飲んだ。
だが砒素入りの飴玉(あめだま)を毎日舐めて砒素に耐性がついていた六郎は中毒を起こさなかった為、彼を信用した牡丹は何も疑わずに毒入りの茶を飲み、そのまま死んだ。
「と、事件の真相はこんなものです。」
「人の恨みっていうのは、恐ろしいもんだなぁ・・」
「ええ。六郎は牡丹を殺してはじめて、安らかな気持ちになったと供述しております。恐らく彼は牡丹が生きている限り、一生彼への憎しみを抱えたまま生きていくのが嫌だったんでしょう・・」
山田が去った後、一人になった歳三は溜息を吐いて冷えた茶を飲んだ。
牡丹太夫は才能こそあれど、その才能をひけらかし、周囲に尊大な態度を取って敵を作っていた。
もっと彼が謙虚であれば―ライバルである六郎を卑劣な真似をして蹴落とすようなことをしなければ、彼は命を取られるようなことはなかっただろう。
「お父様、もうお客様とお話は済みましたの?」
「ああ。眞琴、稽古はどうだった?」
「先生は今日もわたくしのことを褒めてくださいました。けれど、稽古が終わった後、先生に会いに来た方が何やら物騒な話をしていて・・」
「物騒な話?」
「ええ。何でも、先生の家はかつて自分の父親の家だったから、父親が生きている内に返してもらうとかなんとか・・お父様、警察を呼んだ方がいいのでは?」
「放っておけ。先生とその人との間の問題に、お前ぇが口を挟む資格はねぇ。」
「ですが・・」
「お父様の言う通りですよ、眞琴。」
「お母様・・」
母屋から離れに戻ってきた千尋がそう言って自分を見つめていることに気づいた眞琴は、そっと目を伏せた。
「眞琴、あなたはもう女学校を卒業したのですから、これから己の道を見つけなければなりませんよ。」
「わかっています、お母様。ですが、これからどうすればよいのかわたくしにはわかりません。」
「焦らなくてもいいのです。今はただ、己に出来る事を為せばいいのですよ。」
「わかりました、お母様。」
「もうこんな時間ですから、お昼にしましょうね。」
千尋がそう言って台所へと向かおうとした時、彼は胸に鋭い痛みが走り、流しの前に蹲った。
「お母様、しっかりしてください!」
「千尋、今医者呼んで来るからな!」
町医者が“いぶき”の離れに来たのは、歳三が離れを飛び出して数分後のことだった。
「心臓が少し弱っているね。余り無理をさせない方がいいよ。」
「わかりました。先生、お忙しいのに診察に来て下さってありがとうございました。」
歳三はそう言うと、町医者に向かって頭を下げた。
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