「ダリヤ、居るの?」
ルチアがアンダルスとともにダリヤの部屋を訪れ、ドアをノックした。
だが中から返事はなかった。
「ダリヤ?」
ルチアがドアノブを回して部屋に入った途端、噎(む)せ返るような血の臭いがルチアの鼻を刺激した。
恐る恐るルチアが部屋の奥まで進んでいくと、ベッドの近くにはエルムントが倒れていた。
「お師匠様!」
血の気の無い顔をしたエルムントの姿を見たアンダルスは、彼に抱きついた。
「一体何があったんです?」
「アンダルス・・」
エルムントは低く呻いた後、ゆっくりとエメラルドグリーンの瞳を開いてアンダルスとルチアを見た。
「どうして・・どうしてこんなことに?」
アンダルスは涙で顔を濡らしながら、己の手についているエルムントの血を見て愕然とした。
彼は腹部を無残にも、鋭利な刃物で切り裂かれていた。
誰が彼にこんな惨い事をしたのか、アンダルスは想像がついた。
「あいつが・・やったんですね?」
「彼を許してやりなさい・・彼にも事情があるのだから。」
「そんな・・」
ダリヤに傷つけられ、瀕死の状態でいてもなお、エルムントはアンダルスにそう優しく諭した。
「いつかこんな日が来るのではないかと、思っていましたよ。それが、早すぎただけで・・」
「嫌だ、俺を置いて逝かないでください!」
自分の身体に取り縋り、泣きじゃくる弟子の髪を、エルムントはそっと撫でた。
「わたしは勘違いしていたようですね・・あなたはもう、自立したと思っていたのに・・まだ甘えん坊だったんですね・・」
「師匠が居なくなったら、俺はどうすれば・・」
「大丈夫、あなたはわたしなしでも生きられます。あなたはもう、ちゃんと自分の考えを持っている。アンダルス、お父様のことですが・・」
「あいつなんて、父親じゃない!勝手にわが子を捨てた奴なんか・・」
「アンダルス、聞きなさい!」
ユーリスを拒絶するアンダルスに、エルムントは鋭い声で彼を制した。
「彼はあなたを好きで捨てたんじゃない。ずっとあなたの事を探していたんですよ。死んだと知らされたときも、あなたが生きていると信じてあなたを探し回ったんです。あなたとはまだ本当の父子として分かり合えるのには時間がかかるでしょう・・あなたは、お父様に歩み寄る努力をすれば、本当の父子となりますよ。」
そう言ったエルムントの顔から徐々に血の色が消えてゆき、アンダルスの手を握る力が弱々しくなっていく。
「俺にとって、お師匠様が父さんでした!血は繋がっていないけれど、俺にとっては・・」
「わかっています・・わたしも、あなたの事を実の子だと思って愛していましたよ。」
エルムントはそっとアンダルスの頬を空いた手で撫で、彼の顔を見ようとしたが、目の前に深い霧がかかっているようで彼が今どんな表情を浮かべているのか見えない。
「ルチア様・・」
おそらくアンダルスの背後に立っているであろう王女の名を呼ぶと、彼女が自分の前に腰を下ろした気配がした。
「アンダルスのことを・・宜しくお願いします。」
「わかっているわ、エルムント。」
「あなた様には感謝しております、ルチア様。無名同然のわたしたちを拾ってくださったことを・・」
「あなたがこの世から居なくなったら、世界は終わりだわ。」
ルチアの声が涙声になっているのを、エルムントは静かに聴いていた。
もう、死期が近い.
「アンダルス、強く生きて・・わたしの分まで・・」
「嫌だ、死なないでください!」
「あなたと会えて・・幸せでした。」
エルムントはそう言うと、ゆっくりと瞳を閉じた。
それと同時に、ルチアとアンダルスの手を握っていた彼の両手が、力なく床に落ちた。
「お師匠様・・?」
アンダルスは一体何が起こったのか解らず、エルムントの手を握り締めた。
だが、それは再び力なく床に落ちた。
「嫌だ・・目を開けてください!」
エルムントの身体を激しく揺さ振ったアンダルスは、もう二度と彼が目覚めないことを知っていた。
だが、諦めたくはなかった。
「ルチア様、死んでなんかいないですよね?まだ、温かいんだもの・・」
「そうよね・・嘘に決まっているわ・・」
エルムントの死を目の当たりにしたルチアは、そう言ってアンダルスを慰めたが、彼が死んでいることは明らかだった。
「起きてください、お師匠様。お師匠様がいない世界で、俺はどうやって生きればいいんです?」
アンダルスはそう言うと、エルムントの身体に覆い被さって泣いた。
それはまさに、慟哭といってもよいほどの、激しい魂の叫びだった。
「ルチア様、その血は・・」
「エルムントが、死んだわ。」
エルムントの返り血でドレスを汚したルチアが放った言葉を聞いたレオンは、絶句した。
「彼は今何処に・・」
「アンダルスと一緒よ。暫く彼をそっとしておいてあげましょう。」
「着替えの用意をしてまいります。」
エルムントの訃報を聞いても表情を変えずに、レオンはそう言ってルチアの部屋から辞した。
(エルムント殿・・)
レオンの脳裏に、エメラルドグリーンの瞳を輝かせ、桜色の唇から美しい詩を紡ぎ出すエルムントの姿が浮かんだ。
彼は稀代の吟遊詩人でもあり、この国の宝であった。
その死の知らせを受けて、レオンは立っていられないというのに、それを目の当たりにしたアンダルスとルチアはきっと激しく動揺しているに違いない。
(エルムント殿・・安らかにお眠りください・・)
エルムントの冥福を祈る以外、レオンは出来ることがなかった。
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