今年の梅雨は、まだ明けないようだーそんなことを思いながら千代乃が自室で読書をしていると、誰かが雛乃と置屋の玄関先で話をしている姿がガラス戸越しに見えた。
「姐さん、大変です!」
「どうしたの?」
「土方様の奥様が、自殺されました!」
「え・・」
その言葉を聞いた瞬間、千代乃の世界が急に反転して暗くなった。
「千代乃、気が付いたかい?」
「おかあさん、わたしは・・」
「あんた、急に倒れたんだよ。今日はお座敷を休みな。」
「わかりました。おかあさん、土方様の奥様が自殺なさったって、本当ですか?」
「ああ。」
藤子はそう言うと、布団から起き上がろうとしている千代乃を手で制した。
「土方様の家には行かないほうがいい。行ったらあんたが辛い思いをするだけだ。」
「はい、おかあさん。」
「それじゃぁあたしは会合に行ってくるから、留守を頼んだよ。」
ガラス戸が閉まり、藤子の姿が廊下から見えなくなった後、部屋に雛乃が入って来た。
「姐さん、さっきは驚かせてしまってすいません。」
「謝るのはわたしの方。急に倒れたりして、ごめんね。」
「何か作りましょうか?」
「大丈夫。」
「それじゃぁわたし、踊りのお稽古に行ってきますね。」
雛乃は少し冷めた茶が入った湯呑を載せた盆を千代乃の前に置くと、踊りの稽古へと向かった。
広い置屋で一人になってしまった千代乃は、読書を再開しようとしたが、本を開いた途端少し眩暈がして読書を諦めて横になった。
布団の中で寝返りを打った時、一週間結っていた髪が解けて自分の上に金色の波が広がるのを千代乃は感じた。
いつから、自分は髪を伸ばし始めていたのだろうか。
この置屋に引き取られる前からだったのか、それとも引き取られた後に髪を伸ばしていたのか、それすらも最近千代乃はわからなくなってきた。
目を閉じると、千代乃の脳裏に浮かぶのは雨に打たれながら妻の葬儀で喪主としてすべてを取り仕切り、弔問客達に対して毅然な態度で接している歳三の姿だった。
歳三の妻・蕗子が突然土方邸の二階の踊り場から投身自殺を遂げたことは、瞬く間に社交界で広がった。
土方家と親交が深い大鳥医師は、蕗子の自殺の原因は、“精神的な病”からくる発作の所為であると発表したが、彼女がその病を発症するに至った原因は、彼女が婚家で蔑ろにされたからではないのかという憶測が飛び交いつつあった。
「まさか、こんな事になるとはね・・」
「歳三、お前は蕗子さんの様子がおかしいことに気づかなかったのか?」
「すいません・・」
「あなた、わたくしは蕗子をこの家に嫁がせることに最初から反対していましたのよ! こんな家に嫁いだら、あの子は壊れてしまうって! 事実、そうなってしまったじゃありませんか!」
蕗子の母・美砂子は葬儀の席で娘を自殺に追いやった歳三を口汚く罵った。
「兄さん、少し部屋で休んだ方がいい。」
「わかった・・」
妻の両親が土方家から出て行った後、自室に戻った歳三は着替えもせずに寝台の上で大の字になって泥のように眠った。
外では、土砂降りの雨が降っていた。
素材提供:
MILKCAT様
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