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カテゴリ:考古学
昨日の続きです。さていよいよ垣内(かいと)遺跡に行く。寒い。雪がかなり本格的に降ってきた。けれども用意していた説明会の文書が足りずに急遽コピーをしにとってくるような盛況ではあった。みんな背中を丸めて教育委員会の人の話を聞く。弥生後期後半(AC.120-220)の遺跡。標高200Mと山の上にあり、遺跡範囲は東西500M。今回は圃場整備でこの遺跡が見つかった、という。
雪の中での説明会 現地説明会資料のまとめにはこうかかれている。 今回の調査では、鉄製品やその未制品、鉄素材や鉄器作りの際に出る鉄片などどともに鉄器作りに使ったと見られる石制工具類、多数の炉跡を有する建物跡(鍛冶工房跡)が発見されました。 竪穴建物跡を見学する これらの内容は当時の鉄器作りの様子を具体的に知ることが出来る貴重な資料となります。 また平成19年度の調査とあわせると、全部で10棟の鍛冶工房跡が存在した可能性があります。確認した全建物跡17棟に占める鍛冶工房の割合が高く、まさに「鍛冶のムラ」とも呼べる様子が見られます。今回の調査で、これらの工房跡がすこしづつ時期と場所変えながら、弥生時代の終わりまで継続して営まれていたことが明らかになり、安定的に鉄器作りを行なっていたものと考えられます。 この建物からは炉跡は発見されず。用途は不明。 鍛冶工房跡の詳しい説明は省略。私は見学の群れには加わらず、教育委員会の人に質問攻めをしました。そうすると現地説明資料では分らなかったことが、見えてくるのです。一つ大きく分ったのは、鉄の遺跡なのでこれからの遺跡分析によってでしか分らないことがあまりにも多い、ということです。だから結果的には私の疑問に答えてくれるような現説(現地説明会)ではありませんでした。 鏃。しかし、クリーニングしないとよく分らない。 例えば、出土した鉄製品は主に鏃(やじり)なのだが、他に生活用具を作っていたかどうかは謎だと言うことです。けれどもこの鉄分析によって朝鮮半島で作ったのか、中国で作ったのかぐらいはわかるだろうということでした。ここに常時何人が働き、どれだけの量の鉄を生産したかは謎のまま。非常に興味深いのは、この鉄工場が弥生後期後半から突如立ち上がり、弥生の終了とともに終わり、決して大和朝廷の台頭する古墳時代には引き継がれなかったということです。 生活土器が出土しないのも特徴です。しかしミニチュアの土器はありました。これは祭祀用でしょう。人はいったいどこに住んでいたのか。聞くと、ここから通勤圏内にしかも同じように200M高地に弥生住居跡がいくつもある。 ミニチュア土器。本来のものよりふた回り小さい。 鉄を作るためには大量の燃料が必要だ。燃料はどうしていたのか。島内で燃料は確保できたのか、聞いてみました。鉄を加工するためには高温化が必要である。しかしどのようにしていたかは結局は謎だそうです。ひとつはついにふいご(送風管)施設は見つからない。(もっとも弥生時代の鉄遺跡では見つかったためしがないらしい)送風はいったいどうしていたのか、これからの課題である。高温化のためには炭を作るのが一番なのだが、まだ炭焼き跡は発見されていない。どうやらこの鉄工場では鉄を溶かすほどの高温化はしなかったようだ。しかし一部分では土の色が変わっているので、溶かすまでやったかもしれないとはいっていた。木材は島内で十分に確保できたようです。備長炭の材料でもあるウメバガシもこの島には豊富にあるらしい。 垣内遺跡 遠景 少しびっくりしたのは、この遺跡と邪馬台国とを結びつけることを担当者はひどく嫌っていたということです。鉄製品は島内だけで消費したかもしれない、と担当者は言っていました。でもそれだと突然(しかもこれからというときに)鉄の生産がストップした理由が分らない。報告書が出来上がるのは、数年後、下手をすれば10年後ぐらいになってしまう。今すぐにでも、ここをテーマにシンポジウムを開いてほしい。 海が近い。山の上だが、交通の便はよさそうだ。 約100年間に淡路の島に大鉄器工場が出現し、ちょっとした新興住宅地を作り、そして消えていった。時はあたかも、初めてクニが出現し、「倭国大乱」の真っ最中であり、その直後におそらく大和に吉備、出雲、近畿、北九州の連合国家が出来上がり、箸墓古墳が築かれた頃である。約三代から四代に渡るであろう、鉄の技術屋集団(遺跡の数から私が推測するに常時100人以上はいただろうと思う)は、何処からやってきて、何処に行ったのか。大きな謎を抱えたまま、太陽沈む方向に、山を100以上超えて帰っていきました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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