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カテゴリ:読書(09~ノンフィクション)
いま「日本の名著」を少しずつ読んでいるということは既に書いた。一番最初に読んだのが「佐久間象山・横井小楠」である。
訳者・編者の松浦玲は昭和六年生まれでこの全集の中では若い部類に入る。月報では1970年6月6日、べ平連のデモで忙しかった小田実を呼び出して対談している。松浦自身が50-60年代安保闘争の闘志だったからである。松浦はこの対談の最後で小田実にこんな質問をした。 「そこで僕のほうから小田さんに伺いたいのだけれども、政治に対するかかわり方としてこれは、ひとつは象山や小楠たち儒者のように権力側から求められて宰相として理想的政治を行うという生き方、この場合は求められなかったり首になればそれで終わりだ。もう一つは自分たちの理想を実現するためには革命をやって新しい権力を作るという方式、明治維新でいえば大久保や西郷、現在で言えば社会主義、共産主義革命ですね。しかしこれは目標実現の過程で統一戦線とか政治的妥協とか、組織悪だとかいろいろ出てきて、遠回りをしているうちに、肝心の理想のほうがどこかにいってしまう例が多い。そこでベ平連ですが、この二つのどちらでもないということは良く分かるのだけれども、小田さんがおっしゃっているのは、権力が邪悪なことを執行しているのをゲリラ的に麻痺させ阻止しようということですね。そういうことを永遠に続けていこうということなのか。それとも状況によっては多数党になったり権力を取ったりするのか。」 小田実は以下のように述べた。少しはしょる。こう言っている。 「私は在野に徹するということがひとつ。権力の中に入らない。そうすると永久に批判勢力に止まるだろうという考え方をするけれど、僕はそうは思わないのだな。……私は一つは戦後の時代に青年前期を通過したということがあって、権力なしで人間は暮らしていけるのではないかと、時々考えるのですね。戦争末期、敗戦初期はそういう状況だったでしょう。だから、そういう面がわれわれのやっている運動の中で可能な面として出てもいいのではないかと思うのですよ。」 「戦争末期、敗戦初期はそういう状況だった」という認識は間違っていると思う。けれども実に小田実らしい言い方た。(この対談はおそらく突然松浦のほうから言われて小田は軽く答えたものに違いない。小さな月報なのでおそらくここに出たきりだったろう)べ平連は永久的にゲリラ戦法は取ることはできなかった。ベトナム戦争が終結したとき、そのまま組織を維持させる道もあったと思うのであるが、小田はいったん解散させる。その後紆余曲折があったが、私は小田実の人生を全部知っているわけではないので、軽々しいことは言えないが、結局「在野に徹する」ということは貫いた。そして、大きい影響力を持った。その姿勢はりっぱだと思う。 小田を戦後の思想家の一人に連ねるかどうかは、小田の著作集を一通り読んでみないとなんともいえない。私の「思想家」というときの基準は二つ。「その思想が広く影響力を持つこと」「その思想に一貫性があること」。江戸明治と違い、現代の政治家のほとんどが二番目の基準のために思想家の部類に入らないということは言うまでもない。 この対談で面白いと思ったことのもう一つは、松浦の最初の「問いの立て方」である。ひとつの「正義の思想」があるとする。その思想は時には政治の表舞台に立つことはあるが、その多くは長続きしないし、時には無力である。一方「革命家」がいる。彼らは困難ではあるが、政治を変えることが出来る。しかし歴史は「目標実現の過程で肝心の理想のほうがどこかにいってしまう例が多い。」ことを語っている。市民運動の走りであるべ平連はどこに向っているのか、松浦は興味があったのだろうと思う。 憲法九条は「正義の思想」である。これは極めて「現代の課題」だ。私たちはこの思想をどのように生かしたらいいのだろう。 ひとつの処方箋はきっと歴史の中にあると思う。私は「佐久間象山・横井小楠」の解説の中で、1862年の朝廷から「攘夷督促」の要求が来たときに、横井小楠の解決策と一橋慶喜の解決策とその後の歴史を読んで、まるでこれは今現在の「普天間問題」だと思った。詳しくはまた別のところで述べる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年12月27日 09時34分00秒
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