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カテゴリ:邦画(09~)
ターゲットを中年男性に絞っているためか、少し観客が少なかった。今回私の評価は低いが、娘がいる男が見たならば、もう少し評価も変わるのかもしれない。
監督 杉田成道 出演 役所広司 (瀬尾孫左衛門) 佐藤浩市 (寺坂吉右衛門) 桜庭ななみ (可音) 山本耕史 (茶屋修一郎) 風吹ジュン (茅野きわ) 今思えば、この映画を見るとき、二つの不利な部分があった。ひとつは上記「娘がいるかどうか」。まあ、これは仕方ない。もう一つは、ついメイキングを見てしまったのである。そのメイキングではヒロイン桜庭ななみに焦点を当てていて、杉田成道監督がそれこそ娘を育てるように厳しく優しく手取り足取り指導しているさまを見てしまったのである。白紙のまま、桜庭を見ていたならば、「書道ガール」の元気な彼女が別人となって登場していたので、びっくりして一挙に映画の世界に入っていけたのかもしれないのだが、なんか監督の気分になって一挙手一投足が気になって彼女の演技に入り込めなかった。 しかし「花のあと」の彼女よりはよっぽどいいと思う。さすが杉田監督。ただし、満点はあげられない。なんかまだ「演じようという気持ち」が100%消えていないのである(すっかり監督気分)。 この映画は孫左と嫁ぐ可音の父娘の物語である同時に歳の離れた恋愛映画であることをめざしたのだと思う。しかし、恋愛の部分は桜庭には荷が重すぎたようだ。 以後の文章はネタバレは避けたいけれども、論の立て方からどうしても分かる部分があります。まだ映画を見ていない方はご了承ください。 孫左の最後の行動は当初その日でなくてもいいじゃないか、と思ったが、それは手紙を残しておけばすむことだし、悲しみに耐えるだけの訓練を16年かけて孫左はさせていたはずだ。孫左はこの日のためだけに生きてきたのである。そしてそれこそが孫左の考える、「武士」というものなのだろう。孫左は足軽であった。だからこそ、よけいに「武士」であろうとしたのだと思う。浅野家中ではなく、大石家中だった。だからこそ、武士として評価されるにはあの方法しかないと思っていたのだろうし、第一あのまま生きながらえていたならば、商人として世間からみなされる可能性が十二分にあった。「葉隠」は既に書かれていたと思うが、「情」よりも「大義」を優先させるということは、あまりにも当たり前の原則であった。そのことが元禄時代には崩れかけていた。(戦国時代からあったかどうかは知らない。そういう意味では「忠臣蔵」の思想はそもそもが虚構であったということはいえるかもしれない)だからこそ余計に本来の「義」を大切にしたかった。思えばあまりにも堅苦しい武士の世界であることよ。と私は思う。(もしあれが史実だったとしたら、生き残った寺坂は四十七士に数えられていて、孫左は数えられていない。結局孫左の願いは叶えられなかったということになるのではある。思えば孫左は哀れである) この結末の付け方が史実だったかどうかは知らない。しかし100年後の日本人から見たら、現代の日本人のけじめのつけ方もかなり無茶なものに見えるかもしれない(100年後政治家のために自殺した秘書のことを描いた映画が出来るかもしれない)。この映画が封建思想の宣伝にあるのだとは私には思えない。時代劇のいいところは、「現代ではそこまではしないだろう」ということでも、「時代のせいだから」ということで説明がつくというところである。(SFでも同じ。特攻とか無茶なことでも地球の運命がかかっているとしたら実行できる)そういうファンタジーの部分を描くことで現代でも通じる普遍的な部分を強調させるところに時代劇の面白みがある。そういう意味では「究極の真面目人間」を役所広司はきちんと演じたと思う。その真面目人間が、殿の娘を育てて嫁に出す。娘は幼いころから父代わりの人間は父ではなく、家臣だということを知っているから、夫婦になる可能性がゼロではないことを知っている。実際淡い恋心を持つ。娘が父親に恋心を持つのと似ているが、この場合は「究極の初恋」である。 現代でもよくあるその結ばれない「究極の初恋」を監督は描きたかったのだと私は思った。 この映画はいまいちだった。私が監督ならば、最後の場面、回想の場面を2-3分で終わらすのではなく、5-6分は掛けた。そこで、可憐で可愛いだけの娘を描くのではなく、娘から姫に変わる瞬間を、少女から女に変わる瞬間を、そして失恋して娘に戻っていく、その表情まで描いて、可音のその後の人生まで想像できるようなそんな終わらせ方をしたならば、たぶん私は滂沱の涙を流したと思う。 美術は素晴らしい。照明もすばらしかった。時代考証、役者の所作共に完璧だったように思う。だからこそ惜しい作品であった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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