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カテゴリ:邦画(11~)
楽天がTB出来なくなったために、映画記事は別のブログに移したのだけど、現在止まっている。根が怠け者のの私は二つのブログを運営するなんて到底無理だったようです。データとか、写真とか張るのもめんどくさいので、映画を観たときのメモをそれでもこちらに記録しておくことにします。とりあえず、この前紹介した映画の続きから。去年10月に観た映画の10月分の残りです。
「チェルノブリ・ハート」 2003年の米国アカデミー賞ドキュメンタリー部門でオスカーを獲ったチェルノブイリ周辺の放射能治療、小児病棟、乳児院を取材した短編である。 2003年当時は、もちろん反原発のアメリカの運動家が作った映画として受け取られただろう。しかし、今は全く違う見方でしか見ることのできない映画になってしまっている。 フクシマで起きたことは、その十数年後にどのような結果をもたらすのか。そのひとつの姿がここにあると、いえないことは決してない。もちろん日本とウクライナやベルラーシは違う。甲状腺がんの管理も日本のほうがきちんとするだろう。 しかし、問題はパーセントや数の問題ではない。 しかも、私は「ここまでは……」と思っていなかったのであるが、ここまで放射線は遺伝子に瑕をつけるものなのか。 事故以来飛躍的に伸びた数はがん患者だけではない。精神病病棟や小児病棟、そして遺棄児童施設には何十倍もの精神病や異常を持った子供たちがいた。子供らしいまっすぐな瞳を持ちながら、正視に耐えない病状を見せる。ベルラーシでは現在も新生児の85%が何らかの障害を持っているという。信じられない。 一体日本はどうなるというのか。 冒頭と最後に監督の日本用の呼びかけの言葉が日本語字幕で流れた。おそらく、オリジナルより相当変えた作品になっていると思う。2006年に撮られた「ホワイト・ホース」という短編も付いていた。事故から20年後、初めて故郷に帰った青年の半日を映したものだ。薄い雪で覆われた北国は雑草が蔽い茂ることもなく、ただコンクリート製のアパートがボロボロになって残っている。10歳のときのベッドがあった部屋でことばをなくす青年。最後に字幕で一年後に彼は死んだと告げられた。事故があったときに、アパートの窓から事故の火を見て、両親に止められたのに見学に行ったという。 なんか悪い夢を見ているようだった。 「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」 冒頭のイーダとムッソリーニの二度目の出会いの場面が象徴的である。 若き日の社会党員ムッソリーニが協会の集会で、社会主義者の意見も聞いてみようと彼の意見を求める。暫く黙った彼は、おもむろに「手短に話す」とポツリ言う。ここで既に聴衆は彼の話術に嵌っている。ムッソリーニは聴衆から時計を預かる。 「私は神の存在に疑問を持っている。私に五分の時間を与えよ。その間に私を殺すことができるならば、神の非在は証明されたとする」 五分間はもちろん速やかに過ぎる。「神の存在は否定された!」会場は大混乱に陥る。それを見ていたのがイーダだ。イーダ7年前に官憲から追われる彼を助けたことがある。そのときからイーダは彼のことを好きだったが、今夜の茶番で決定的にムッソリーニを愛したようだ。 <ムッソリーニと私は同類だ。目的のためならば手段は選ばない> 台詞はないが、おそらくそう思ったことだろう。また目的のためにほとばしる情熱を持っていたことも、イーダは惚れちゃったに違いない。一目でムッソリーニの本質に気がつき、しかもそれを愛してしまった。けれども彼女は女である。彼女の資質はムッソリーニと 同じであっても、それを表現する場はない。必然的にムッソリーニに総べてを託す。全財産を彼に与え、ムッソリーニはそれを元手にファシスト党を設立する。 ムッソリーニが詭弁を重ね、「行動的中立」という理屈で第一次世界大戦の参戦を主張し、愛国主義を武器にファシスト党の党首を経てイタリアの最高指導者になる家庭を映す。 イタリア映画でムッソリーニを全面的に描いたのはこれが初めてではないか。それほどまでに客観的に彼を描くのには時間を要したということなのか。 一方でイーダはやがてムッソリーニ正式な妻も子供もいることを知るのであるが、自らの子供を正式にむっソー煮の子供と認知してもらうために手段を選ばない。けれどもそのせいで、権力を持った彼によって精神病院に追いやられる。ムッソリーニとイーダとの性質は同じであったが、いかんせん目的が違ったのである。彼は「自分の野望を実現すること」彼女は「ムッソリーニの愛を得ること」これはたぶん究極の「すれ違い」ドラマだったのだろう。 ムッソリーニが次第とファシズムの狂気に落ちていくのと併行して、狂人がいる精神病院の中でイーダが次第と理性的になっていくのが対照的であり、なかなか見事な作劇だった。 映像的には印象的なカットを繋ぎ合わせる「キュビズム的」な作り方。ちょっと注目すべき監督だと思う。 「ツレがうつになりまして」 一家を支える夫がうつ病という長期療養を必要とするかもしれない病気になって、ほとんど貯金もないときに、「会社を辞めなかったら、離婚するからね」とほとんど悩む間もなく夫を脅すことのできる妻というは、おそらく普通にいるのだろうな。僕なんかは、うじうじ悩むほうだから、妻が居た場合は会社を辞めようなんて、決して思わず、病気をさらに悪化させ、万が一妻がそういったとしても、気の迷いだとして聞かなかったことにする性質だ。きっとうつ病の体質を持っているほうかもしれない。もし僕が妻だったら、そうは言ってもあれこれ考えて、休職とかを考えるのが関の山だったろう。でも、宮崎あおいのぐうたらな可愛い妻はそんなことは当たり前のように説得力をもってそういう選択をする。堺雅人のツレも非常に素直に応じる。彼らが演じるから説得力がある。 割れないで残っているビンだから素晴らしい。 その他、一杯珠玉の言葉があって、原作よりもさらにメッセージ性の高い作品になった。 今年を代表する一作ではないけれども、普遍性のある夫婦愛の話である。 それにしても、あおいチャンは可愛いなあ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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