テーマ:ワイン大好き!(30237)
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先日、トリーアで知り合った方と久し振りにワインを飲んだ。
正確に言えば、トリーアで開催されるワインのオークションで知り合った不動産さんである。 仮にAさんとしておこう。 かれこれ30年ほど毎年トリーアとベルンカステルで開催されるモーゼルのワインオークションに通っていて、「これは」と思うワインを落札している。長年の経験を積んだAさんの舌は肥えている。一口含んだだけで、そのワインが高くなりそうかどうか、何年も熟成するか、それとも味がすぐに落ちてしまうかどうか判ってしまう。 オークション当日の午前中にある事前試飲では、開始時間より遅く悠然と現れたかと思うと、いつの間にか一通り試飲を終えている。「あれ、まだ終わってないの」と、貴重なワインの味をなんとか記憶に留めようとメモをつける貧乏性な私に声をかけてくれて、オークションが終わった後はいつも夕食をおごってくれた。いい人である。 そんなAさんのお宅にお邪魔してワインを飲もうということになった。 昨年の暮れにセラーを整理していたら、1971年のシャルツホーフベルガーTBAが出てきたのだという。エゴン・ミュラーのもので、リリースから間もなく購入したそうだ。 「当時はハーフで500マルク位だったかな。安かったんだよ」と言う。 ちなみに、Aさんはモーゼルで落札したり購入したりしたワインは全てハンドキャリーしている。 落札したワインは醸造所のセラーにあり、すぐに持ち帰ることが出来ないので、翌年の早春に、気温が上がらない肌寒い時期を選んでモーゼルまでワインを引き取りに行くのだ。場合によってははからずも一本10万円を超える値段がついてしまった貴重なワインだけに、一般的な輸送手段ではリスクが高すぎるのである。保険がかかっていようがいまいが関係ない。ある意味、お金には代えられないものなのだ。 そうしてワインボトルと梱包材で一杯になったスーツケースは、非常に重い。あまりにも重くて腰や手首を痛めたことは数知れず、一度は列車の中で転びそうになった時、スーツケースを守ろうと妙な具合で体をねじりながら椅子に胸をうちつけた。その時は痛いなぁと思いつつなんとか帰国したが、痛みが引かないので医者に診てもらったら肋骨が折れていたそうである。 そんなAさんのお宅にお邪魔するのは初めてのことであった。 日曜の昼過ぎから地下室で飲もうということだったので、きっとモーゼルのボトルが所せましと詰まったセラーだろうと思っていたのだが、案に相違して殺風景で狭苦しい(失礼)事務所であった。会議室にあるようなそっけないテーブルと折りたたみ椅子が並び、壁際にはなぜか卓球台が立てかけてあった。庭に面して明り取りの窓があるがシャッターが下りて、蛍光灯が冷たい光を投げかけていた。 想像と現実のギャップに半ば茫然としながらも、ワイン会でしばしば顔を合わせる友人二人とあわせて4人でまずは乾杯。1998 のグラーハー・ヒンメルライヒ、リースリング・アウスレーゼFass24 (S. A. プリュム)であった。私がトリーアに留学した年に収穫されたワインで、おそらく初めて参加したオークションで試飲したはずのワインである。熟成していても老ねた香りはなく、落ち着いた甘みといぶし銀のようなミネラル感で、飲むほどに美味しくなっていった。 「やぁ、どうも遅れまして」と、しばらくしてもう一人のゲストT氏が現れた。 ドイツワインにも造詣の深い、私が密かに尊敬するワインジャーナリストである。彼はグラスを手にとるなり天井を見上げて「蛍光灯は消した方がいいよ」と言った。「ワインがまずくなる」 それは雰囲気の問題だけでなく、蛍光灯から出る電磁波が味覚に悪影響を及ぼすからだという。そこで蛍光灯が消され、半地下の部屋は薄暗くなった。窓の上の方から午後の遅い時刻の陽射しが差し込み、辛うじてエチケットの文字は判別できるが、参加者の表情は薄闇の中でおぼろに浮かび上がっている。そしてワインの味は気のせいか、いくばくか落ち着きを増したように感じられた。 極めて濃厚でほとんどアイスヴァインのような2011 クレーファー・シュテッフェンスベルク、リースリング・アウスレーゼ(フォレンヴァイダー)と繊細で華やかで完熟したリンゴの甘味がとても美味しい2007ユルツィガー・ヴュルツガルテン、リースリング・アウスレーゼ** (カール・エルベス)を十分に味わった後、真打ちの1971トロッケンベーレンアウスレーゼがグラスに注がれた。 薄闇の中で40年の熟成を経た貴腐ワインは暗い褐色をしていた。香りは極めて繊細で華やかに鼻孔をくすぐる。すっきりとした舌触りで、中盤まではややストレートだが次第に凝縮感を増して、糖蜜と品の良い酸味がタンニンの軽いざらつきとともに喉をすべりおち、舌の上に40年の歳月を経たとは思えない力強さと長い余韻を残した。甘い香りはグラスの中でもいつまでも消えず、飲み干した後もしばらくは香りだけで十分楽しむことが出来た。 ふと横をみると、T氏は左手でグラスを傾け、右手にワインを注ぎ受けていた。 「ワインは本当はこうやって飲むと一番うまいんだよ」 と言うなり、口をつけてズズッと音を立てて啜り込み、瞑想するように目を閉じた。私はなかば驚き、なかばT氏らしいと感心した。彼以外の誰がこんな発想を出来るだろうか。 思い返せば今年の5月。とあるインポーターの試飲会でも、T氏はいつの間にか白磁の湯呑茶碗を手に持って試飲にいそしんでいた。「ほら、染み渡るだろう。君もやりなよ」と、周囲の人々に勧めていた。私も試してみたのだが、慣れない感覚でどうもしっくりこなかった。今回もまた、物は試しと少しだけTBAを手のひらに受けて啜り込んでみたのだが、グラスと違って香りを先にとれないのと、唇にあたる手のひらの妙に柔らかい感触が邪魔をしてワインに上手く集中出来なかったが、体温とともに一種の生々しさを感じた。 考えてみれば、ワインを手のひらに受けて飲むということは、ワインと自分の間に何も介在させない、直接的な接触でもある。通常はグラスを手に持ち、しかもボウルになるべく体温を移さないようステムを持って、一定の距離をおいてワインに接する。その時、我々はいわばワインと対話をしている。対話には距離が必要である。しかしワインを直接手に受け、その距離をなくすことは、ワインとより親密に、理性ではなく直観と官能で交わることのような気がする。そこに分析の働く余地はほとんどない。 などと、薄暗がりのなかで濃密な甘口リースリングを啜りながら考えたのであった。 しかし結局のところ、ワインは口の中に含まれ飲み下されるのであるから、グラスを介そうと介すまいと、行き着くところは同じなのだが。 余談だが、グラスを右手に持つのと左手に持って試飲するのとでは、心なしか印象がわずかばかり変わる気がする。どちらかの手に持った方がワインの味にまとまりが出て、どちらかの手では拡散するような気がするのだが、気のせいかもしれない。そのあたりは私も自信がないし、先入観を与えたくないので、どちらがどちらとは書かない。もっとも、すでにこういう気がすると書いた時点で十分先入観になっているかもしれないが、一度試してみては如何だろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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