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カテゴリ:Usual topics
いつも思うことなのですが、
創価の話を伺うと“宇宙のリズム”を基準点にして甲乙を決め付けてようなのですが では、創価の申し上げていた「宇宙のリズム」とは、何を指したStandardなのでしょうか? 因みに軌道の周期と言うのは星によって時間が違いますし その基準も地球の時間で計算した、つまり人間の頭で考えた範囲の計算方法なのです。 そのため、厳密に言ってしまえばStandard compassと言うものが 相対性だけでしか成り立たないわけです。 この事は創価学会の書物でも確認する事が出来ます。 また、創価の「宇宙のリズム」で考えていくと かって池田氏の著書にも書いてありましたが 男性と女性の既存の状態を「宇宙のリズム」と規定して絶対化させ Standardとして固定してしまっている上 額面どおり読めば変化を無視し 「不変」と言う言葉を用いて、強引に押さえつけた表現にもなっているため 皮肉にも戦争や殺人も、実は「宇宙のリズム」にも なってしまうんですよ そうなって来ると「平和」を望むという事は「宇宙のリズム」を壊す事なんですか? また皮肉な事に「人間革命」も「宇宙のリズム」に逆らってしまう事にもなりますよね~ こういった矛盾も生じてもくるわけです。 その事を考えれば「宇宙のリズム」と言うのは、先日もお伝えした「永遠」と同様 まったく基準点もなければ、抽象化することも出来ないわけです。 但し、宇宙は28次元で成り立っているようですけれどね~ しかし、創価の人はのような事を書くと 「永遠」と「宇宙のリズム」を否定しているんだ ・・・と勘違いして捉えてしまうから、説明が増えていく文章が長くなる 「否定」している訳ではなく 基準が相対的で変化するため「決められない」と言うのが答えです。 つまり数学的に言えば「解なし」なんですよ ところが 先の事も含めて、創価学会の指導は それを反故するかのように その矛盾に気付いていないのか惚けてるのか存知しませんが しっかりと抽象化してStandard compassを決め付けた「物の言い草」が意外にも多いのです。 たとえば「リズムに合わない」とか「リズムがおかしい」とか 立正安国論の講義なども含め、過去の指導集を掘り起こせば それ等の言葉が出て来るのですが よくよく考えたら“元から基準点がない”わけですから 「合う」とか「合わない」とか言う発想自体が「おかしい」んですよ ところで、創価学会の概念による「宇宙のリズム」を考えたら Albert Einstein 曰く「時間とは光の強弱」であり Stephen William HawkingやAlexander Vilenkin曰く 「宇宙=時間」と、現時点では申し上げているのですから もし、「宇宙のリズム」と言うのを規定し固定するのであれば 皮肉にも「阿弥陀如来が御本尊になってしい、念仏は正しかった」・・・と言う とんでも解釈が出来てしまうですよ、何せ、阿弥陀如来の由来は「光」ですから (但し Alexander Vilenkinの場合は「無」から出来たと打ちたててはいる。 「では、その無は?」と言うと、あの本を読む限り「別の物質が複合して無になった」という考え方みたいなんだよね~) そういえば、大聖人の十章抄には、こんな「注意書き」が説かれており これを理解しなかった日蓮系の坊主が慢心や惰性に流され 安土宗論で念仏と阿弥陀如来を混同して 「念仏も法華経の一部」だと答えたがために、失敗したわけですよね (因みに五時継図には阿弥陀如来について言及している) ― 十章抄 ― 止観に十章あり大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰なり 前六重は修多羅に依ると申して大意より方便までの六重は先四巻に限る これは妙解迹門の心をのべたり 今妙解に依つて以て正行を立つと申すは第七の正観・十境・十乗の観法本門の心なり 一念三千此れよりはじまる、一念三千と申す事は迹門にすらなを許されず 何に況や爾前に分たへたる事なり 一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る 爾前は迹門の依義判文・迹門は本門の依義判文なり 但真実の依文判義は本門に限るべし されば円の行まちまちなり沙をかずへ大海をみるなを円の行なり 何に況や爾前の経をよみ弥陀等の諸仏の名号を唱うるをや。 (堀日亨編纂:新偏御書 P.1274) http://www.sokanet.jp/sg/sn/gosho_text.html?key1=1274&ref=null そういえば、上と同じ疑問を別のブログのComment fieldで申し上げた処 Junk dark氏がのっかり「宇宙=光」だと・・・ 見事な答えを披露していました. 私は「宇宙=光」とは言い切っていませんし、決め付けて書いたつもりもありません。 あくまでも創価が申し上げる視点で書いた宇宙観です。 つまり創価の宇宙観は その程度だったと言う事ですよね 因みに宇宙は4つの力で構成されていたはずです。 また、その力が常に常駐している筈で変化もします。 従って、宇宙=光だけとは限りませんが・・・ 彼等の話を伺うと世の中を全て知っている様子なのですが その経緯や衆生の感情の味を実感しないまま 物事で決め付ける癖があるようで、頭でっかちな部分が否めないのです。 そこで、素人に立った視点に立ち、上記のような素朴な疑問をたてたのですが 私の文章を読んで、あなたは「宇宙=光」と捉えたようですね 外ではナンミョーでも内心ではナンマイダだったんですか?? 因みに大日如来の事については「天魔の判例」の記事で すでにJunk dark氏のような事を書いて破釈してあったのですが 丁度、「十章抄」にも、大日如来が出てきた経緯ついて書かれていたので もう少し掘り下げて 詳しく あなたのソレにもお答えしておきます。 ― 十章抄 ― 華厳宗と申す宗は華厳経の円と法華経の円とは一なり 而れども法華経の円は華厳の円の枝末と云云、 法相・三論も又又かくのごとし、天台宗・彼の義に同ぜば別宗と立てなにかせん 例せば法華・涅槃は一つ円なり先後に依つて涅槃尚をとるとさだむ 爾前の円・法華の円を一とならば先後によりて法華豈劣らざらんや 詮ずるところ この邪義の をこり 此妙彼妙・円実不異・円頓義斉・前三為ソ等の釈にばかされて起る義なり 止観と申すも円頓止観の証文には華厳経の文をひきて候ぞ 又二の巻の四修三昧は多分は念仏と見へて候なり 源濁れば流清からずと申して爾前の円と法華経の円と一つと申す者が 止観を人によませ候えば但念仏者のごとくにて候なり 但止観は迹門より出たり・本門より出たり 本迹に亘ると申す三つの義いにしえより・これあり、これは且くこれををく 故に知る一部の文共に円乗開権の妙観を成すと申して 止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり 爾前の経経をひき乃至外典を用いて候も爾前・外典の心にはあらず 文をばかれども義をばけづりすてたるなり 「境は昔に寄ると雖も智は必ず円に依る」と申して 文殊問・方等・請観音等の諸経を引いて四種を立つれども心は必ず法華経なり 「諸文を散引して一代の文体を該れども正意は唯二経に帰す」と申すこれなり。 (堀日亨編纂:新偏御書 P.1273) http://www.sokanet.jp/sg/sn/gosho_text.html?key1=1273&ref=null つまり、大日如来と一念三千の違いは 譬えれば「Vitamin-B1」と鈴木梅太郎氏が命名した「オリザニン」の名前の違いだけで 比喩の面では同じなんですよ 本当は鈴木梅太郎氏の方が「オリザニン」と命名して 「Vitamin-B1」をいち早く見つけていたのですが 残念ながら外国人にほんの僅かの差で先を越されしまい (日本人だからと言う差別もあったのでしょうが) 「オリザニン」と言う名前が浸透しなくなってしまったのです。 これと同じなのが「一念三千」と「大日如来」の関係です。 従って、真言亡国と申し上げているものの 佐渡以前では真言一部も認めかねないような御文などもあり、 また、善無為の精神は法華経の心を持っており 信而不解だった事も「但し書き」で書いてあった筈です。 もっと譬えると「竹島が韓国の領土か?日本の領土か?」とか 或いは、尖閣諸島が台湾の領土か?日本の領土か? 世界地図に「日本海」と書くのか「東海」と書くのか 認識の差異が、真言VS法華経の認識が出てきてしまった為 収集がつかなくなって、種脱相対が出てきたんですけれどね~ ただ、見解を変えれば「大日如来」は「架空仏」ではなく 読んで字の如く 太陽とも受け止める事が できますが・・・ 因みに その記事で開目抄のソレを持ち出したのは 真言宗ばかりでなく、世の中には、あなた達みたいな 詭弁ばかり振舞って横取りするような連中がいるので その警告を含めて あの御文を引き出してきたわけ しかし、それを逆手にとって 盗みましたよね、計算どおりでした まるで・・・・・ 「方座第4に念仏が組み込まれている」 「ならば方座第四の法華のソレを捨てるのか?」 ・・・と言う安土宗論のような失態を繰り広げ、織田信長に頚を撥ねられた 身延の法華みたいな振る舞いを見ているようで、心が痛いです。 でも身延の人達も、面白い事に「自分達の失態」を「法難」と言うんですよね~ 創価の人間みたいに・・・・ ところで罰と法難、如何、違うのでしょうか? 答え:同じなのですが、開目抄や佐渡御書を読む限り そこに「己の命に慢心があったか?否か?」の違いだとは思います。 そして 「己の命に対し、何処まで懺悔が出来たのか?」 「己の命に対し、何処まで四表の静謐の大願が出来たのか?」・・・で大きく変わります。 あくまでも「南無妙法蓮華経」は無作三身如来の御当体なので 使用者の一念によっては「毒」にも「薬」にも変化します。 カンカンカン☆\(・∀・) 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009年03月21日 20時25分45秒
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