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人間仁科のブログ・八重山見聞録外伝

[旅の記録] カテゴリの記事

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　061

【つづき】いやあ勉強なりました。マジで。なんて思っているところにトモミチ君、面談室より帰還せしめ、握り締めたる帰国証明書なる偽渡航証の如き紙片などを俺に提示しては、これよりタイランド入国管理局へと赴きて帰国の為の諸手続きをせねばならないのであるが、貴兄は如何為さるかと問うので、日本大使館同様、現地入管でも又色々と諸事情を抱えたる迷妄の方々から談話が聞けるやも知れぬと、怖いもの見たさ、独善ぶり伺いたさからトモミチ同行を早々に決め、俺たちは現地入管へと、いざ向かったのである。トモミチ君持参のガイド本掲載のバンコック地図に拠れば、日本大使館から入管まで徒歩にて三十分と掛からぬ筈だった。地図から読み取る限り、そういう距離感でしかなかった。でもやっぱりガイド本の出鱈目さ、いい加減さ、テキトーさなんだろうか、歩けども歩けども入管には辿り着けずに、てっきり俺らは迷子になったかロストウェイ、帰国を目前にして諸手続きを行うことはおろか辿り着くことすら叶わぬのか、嗚呼又も帰国延期か、とトモミチ半泣きとなったところで目処の入管建物を発見、ことなきを得たのだった。しかしながら入管っちゅうからにはお役所であり、お役所ってくらいだから諸手続用の窓口なんかに座したるお役人様各位は、やっぱり、なんだかやる気とか気概とか公僕としての自覚とか一切なくて、タイランドにおいても日本においてもその辺りの事情は大同小異。トモミチ君が書類を一枚書いたところで窓口はお昼休みとなり一時閉鎖。はいはい、終わり終わり。午後から出直しな。ってな具合で、仕方なく俺らは役所建物近くにあるハンバーガーを売り物にしているファウスト・フード店なんかに入って時間を潰すことにしたのであるが、入店後まもなくにトモミチ君は便意を催して店内の便所へ。で、俺はバンコックのハンバーガーを食いながら思ったのである。ちっとも面白い感じじゃないなぁ。期待していた専横放埓な物言いの人たちが此処にはいないじゃないか。うん。つまらん。ま、ある意味お役人様も専横放埓な物言いではあるが、彼らは専横放埓の方向性と言うか、専横放埓ぶりが毎回毎回同じであると言うか、「もう時間だから」「ボクに責任はないから」「決まりだから」「何度も言うけど決まりは決まりだから」と言う具合に専横放埓の紋切り調であれば意外性とか独自性とか創造性の欠片も彼らに見出せず、こちらとしては全然面白くない。と言うかむしろ腹立つ。怒。憤。そのように俺の意識野に『憤』の文字が現れたところでトモミチ君が便所より戻ってきて、俺は言ったのである。「あれ？便所行ってからまだ三十秒しか経ってないよ。便所、混んでるの？」「いいえ。混んではいないンですが、あの、食べてる最中申し訳ないンですが、『糞』がついてるンです。あの、便器に。いいえ便座に。便座に糞がべっとりと…あの、食べてる最中にホントすいません」「いやいや、キミが謝る事じゃないよ。それは便座に糞をつけた奴が悪いンだから」なんてことを言いながら俺はハンバーガーを中断して、かの便所を視察したのであり、やはりそこにはトモミチ君が主張するように様式便器の便座部の奥あたりに『べっとりと』と言う状態で糞が付着しておれば俺はげんなりとなるのと同時に笑っちゃったのである。あそこの場所には普通、付かんだろ。うん。あそこに糞が付くということは、付けた奴もただじゃ済まなかった筈。自爆じゃ。阿呆。尻糞まみれ。ハハハ。【つづく】

2007.04.19

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　060

【つづき】待ち合わせの時刻。宿の外へと出てみると既にトモミチ君が笑顔にて待機。今日の手続きが首尾よく運べば今夜の帰国便に早速も搭乗できるらしく、一刻も早く帰りたくって帰りたくって仕方のない彼にしてみれば、そりゃあ笑みも自然に零れちゃうってもンなのでしょうが、でもまずは印度大使館へと立ち寄り、申請が下りた俺の印度ヴィザを頂きに。俺の印度ヴィザ。その響きに何ゆえかガキの頃を思い出す。そう。俺の仮面ライダーカード。正にそんな響きなのであるが、さておき、申請時は欧米人の旅行者なんかで死ぬほど混雑していた印度大使館館内であったが、何ゆえか本日は人影もまばら。ばらばらとしか人が居ない。掃除のおばちゃんと言った風情の現地女性が二名のほかは大使館員が数名、旅行者然とした欧米人が三名。それに俺とトモミチ君だけで、貰うものを貰っても五分間と掛からず、俺らは早々に印度大使館を後にしたのである。一方、日本大使館は大混雑。ざっと数えても四五十名のエスニックな面立ちが各種申請窓口周辺で右往左往しているのである。トモミチ君は早々に呼ばれて面談室なる個室へと消えてしまい、特にやるべきこともない俺は右から左から聞こえてくる周囲の話に、そっと耳を傾ける。結婚するンだけど、どうしたらいい？え？誰とって、決まってンじゃん、この娘と。そうだよ。タイ人だよ。なに？タイ人と結婚しちゃいけないの？ダメなわけ？法律で決まってんの？そうだよね。決まってなんかいないよね。じゃあ、どうしたらいいのか早いとこ教えてくンないかなぁ。いやいやいや。あのさ、余計な能書きはいいから、婚姻届とか出しゃあいいンでしょ。ね。じゃあさ、早く書類くれよ。何？他になんかいるの？何さ。何なのさ。え？戸籍抄本？印鑑？そんなもの持ってるわけないじゃん。オレさ、旅してンの。今。旅中。わかる？戸籍抄本とか印鑑とか持って旅なんか誰がするわけ。あんた、言ってる事おかしいよ。と、あくまで不遜な物言いのバックパッカー風情の若い男は日焼けした貧相な顔立ちを殊更に歪め、おとなしげな大使館員に因縁をつける。わたし宛の荷物は届いてないとおっしゃるのですね。それはおかしいですね。だって、荷物を出したくれた日本の友人は、もう二週間も前に送ったと、そう言ってるんですが。そうです、エアです。だから二週間も掛かる筈がないんです。日本の友人、幸代ちゃんって言うのですが、幸代ちゃんは確かにわたし宛の荷物を在タイ日本大使館へ送ったと言ってるんですね。そうです。幸代ちゃんは決してウソをつくような子じゃありませんし、わたしは彼女を信じます。ええ。信じますとも。あなたは幸代ちゃんを、わたしの友人を疑うんですか。そうじゃありませんって、実際そうじゃないでしょうか。え？何を言ってるかわからないと？それは別にわかっていただかなくても構わないのですが、ともかくもわたし宛の荷物、改めて探していただけますでしょうか。絶対に届いてますから。おそらくはあなたがたの見落としか、もしくは勘違いか、そんなところではございませんか？わたし、荷物が此処に届くのに合わせて長期滞在先の印度からわざわざ来ているのです。ないでは済まされませんよ。などと妙な断定調をで大使館員を詰問するこれまたバックパッカー風情の若い女。その口調は無礼なほど丁寧なのだが、視線は大使館員を見るでもなくひたすらに虚空をふらふらと彷徨っている。彼女の目、所謂ところの魚の腐ったよう。困ってるから此処に来てるんだよ。わかんないかな。とにかく一回見に来てよ。ね。隣の奴、絶対に犯罪者か何かだから。危ないの。え？タイ人かって？知らないよ。わかんないでしょ、そんなこと。中国人かも知れないし、マレーシア人かも知れないし、でもバンコックのマンションに住んでいるンだからタイ人かもね。でもね、タイでも中国でも何処でもいいンだけど、とにかく変な連中が大勢出入りしてて、どいつもこいつも目付き悪いし、あれ、絶対犯罪してるよ。本当に。間違いないね。うん。アジアの連中は信用ならないもの。僕もね、短期出張を命じられたから仕方なくバンコックに来たンだけど、海外出張先で犯罪被害とかに遭うの絶対に嫌だから、こうして相談に来てるわけですよ。ね。だから一回ちゃんと見に来てくださいよ。ね。それが日本大使館の務めでしょう。ね。邦人を護る義務があるでしょう。え？警察に行けって？いやいや現地の警察なんて行ってもダメでしょ。無駄でしょう。だってね、連中なんか腐敗してるンだから。あいつら賄賂もらってますよ。そうでしょう。あなたもそう思うでしょう。などと相手にお願いしてると言うよりも自分勝手な理屈、思い込み、被害妄想ばかりを声高に語る商社マン風のおっさんは完全に差別意識丸出しであり、今この場には現地の人間も居るだろうに、おそらくは想像力の欠片をも持ってはいないのだろう。日本大使館。どうも大変な場所なようである。様様な人が様様な理由で此処を訪れるのだろうが、誰も彼も此処日本大使館を日本人庇護センターなんかと勘違いしているようで俺はすっかり怖ろしくなったのである。【つづく】

2007.04.17

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　059

【つづき】明日の待ち合わせ時刻を決め、トモミチ君に「おやすみ。また明日ね。see you 」みたいに、へらへらした挨拶で別れた俺は思い立って近所の旅行代理店へ。そこでは古本を扱っていて、帰国した旅行者らが残していったガイド本が廉価で売っていた。俺は『地球の歩き方～インド～』などという大仰なタイトルのガイド本を一冊落手。宿へと戻った俺はさっそく開いてみたわけであるが、何故ガイド本なんかを落掌せしめたかと言うに、明日はトモミチ君の付き合いで日本大使館へと行くし、そこから近所のインド大使館では申請していた滞在ヴィザが下りる予定日であり、そう思うとなんだか俺の内部に奇妙な感覚が興るのであり、そう、それは言うなれば印度感とでも名付けるべき斬新珍奇な感触のものだったのであるが、その珍奇が俺にガイド本を買わせたのある。少しぐらい印度のことを知っておいたほうが善いって。間違いないって。な。騙されたと思って買っちゃいなよ。読んじゃいなよ。な。最初の渡航国タイランドじゃ不安と焦燥、それに恥辱にすっかり塗れちゃったじゃない？でしょ？ね。だから買っとこ。悪いこと言わないからさ。ね。と珍奇が述べるのである。だから俺は買って早速も読んだのであるが、俺の目にしきりと映り込んだ単語群は以下の通りである。　　　　　　　　ぼったくり　　　　　　　　　病気　　　　　　　　モンスーン　　　　　　　　　注意　　　　　　　　ぼったくり　　　　　　　　　被害　　　　　　　　情報交換　　　　　　　　　格安　　　　　　　　ぼったくり　　　　　　　　　睡眠薬　　　　　　　　ドミトリー　　　　　　　　　病気　　　　　　　　ぼったくり　　　　　　　　　犯罪　　　　　　　　マーケット　　　　　　　　　絨毯　　　　　　　　ぼったくり　　　　　　　　　 40℃　　　　　　　いいひと　　　　　　　　　素泊り　　　　　　　　ぼったくり　　　　　　　　貧困　　　　　　　　マーケット　　　　　　　　病気　　　　　　　　ぼったくり　　　　　　　　　王宮　　　　　　　　ガンジス川　　　　　　　　　火葬　　　　　　　　ぼったくりと、まあこのような按配なのであるが、俺はガイド本を小一時間も読み進めたあたりですっかり体調不良を覚えて頓挫。本を閉じ、頭を抱え込んだのである。気分は、もうすっかり後ろ向き。否定的。過剰な挫折感。俺の読み方が悪いのかガイド本の編集方針が狂っているのか旅の中で敢えて判断はしないが、それにしても俺にはネガティブでナンセンスな言葉の羅列としか見えなかったし、投稿か取材か知らぬが一個人の記事を引用しての好悪の評価が紙面全体を通してあまりに多すぎて情報というよりは煽情、ガイド(案内)というよりはアジテート(扇動)といった風情である。ともかくも変にアジテートされた挙句、杞憂に暮れてしまった俺は生涯初の海外渡航において斯くも混沌と混迷を極めた迷妄の民どもが住まう印度亜大陸へとどうしても行かねばらないのか。行かなくとも別によいではないか。そう。印度を迂回したって全然構わないとすら思ったのであるが、よくよく考えてみるに、仮に迂回路が拓けたとてその迂回した先もまた大同小異、所詮は混沌と混迷に翻弄され、迷妄の民どもと渡り合っていくより他に道はなさそう。うん。多分ない。きっとない。間違いなくない。うんうん。うんうん。などと俺は誰も居ない部屋の中、独り言が口をついたりして全くもって情緒不安定。やっぱり堂々巡り。今日も堂々巡り。それにつけてもガイド本の野郎…ガイド本ならガイド本らしくだな、黙ってガイドだけしてりゃいいんだよ。美味いだの不味いだの、綺麗だの汚いだの、面白いだの最高だの、きついだの、遠いだの、近いだの、評価や批評なんかやるな。阿呆。その建物は駅出口から何十メートルのところにあるのか無いのか。目印、ランドマークは何か？何処に行けば手に入るのか？色は？数は？長さは？そのような情報こそが万人にとって共通に、等しく必要なのであり、誰が良い人で誰が悪い人なのか、どの店の食事が美味いのか不味いのか、その宿が快適か否かなんて情報は不必要であり、正しく蛇足。それらはあくまで旅行者各人が決める筋合いのものであって、案内ごかしにガイド本からご教唆いただく筋合いのもんではないのである。情報だったら何でも書きゃあいいってもンじゃねえンだよ。ちくしょうめっ。てめえっちの本なんか読んだおかげで、こちとらぁの地に着きかけてた足が又離れちまったじゃねえか。どうしてくれる。ああ腹が立つ。業腹。憤怒。買うンじゃなかった、こんな本。とか何とか憤ったり下向きになったり、そのうち俺は夢魔の国。小学校時の同級生である新ちゃんが登場。彼は愚にもつかぬ情報を掻き集め、間取り一坪のプレハブ店舗でそれらを並べ売っているのである。声を掛けた俺に向かって新ちゃんが述べた言葉。それを目が覚めて後も俺は覚えていた。いわく「働かない奴よりはマシ」なんだか虚しい気分の朝だった。【つづく】

2007.04.15

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　058

【つづき】なぜに初対面の彼に対してそのような辛らつな物言いをするかと言えば、トモミチ君、まず外見がよくないのである。外見といっても所謂ルックスの事ではない。ご面相などはなかなかの好男子であり、背丈はゆうに六尺に及び、すらりと伸びた長い手足、こざっぱりした服装と頭髪、はきはきした物言い、とまったく申し分のない容姿容貌を持つ彼なのであるが、どうにも甘ちゃんなオーラを身に纏っているのである。三人兄弟の末っ子とか、夫婦が歳をとってから授かった一粒種で滅茶目茶に甘やかされて育ってしまいました。はい。みたいな雰囲気を体中から発散しているのである。つまり、まったく厳しさのない顔つきなんである。甘ちゃん。これは詐欺や窃盗などの犯罪を行う者にとって恰好の獲物以外の何物でもなく、人を騙したり盗んだりする側もやはり組し易い相手を選ぶのであり、甘ちゃんは正に好餌である。なんて言うと俺が詐欺や窃盗をはたらく者であるかのように聞こえるやも知れないが中学生時分に窃盗に手を染めたことはあっても詐欺のほうは未経験である。ま、厳密に言えば若い時分に若い女性を騙したりしたことは幾たびかあってもそれは詐欺と言うよりは痴話。ましてやこっちが一方的に騙したと言うよりは男と女の話であれば騙し騙されみたいなことであるから法を犯したと言う話でもない。由って甘ちゃんが犯罪者に狙われやすいのは普遍的摂理である。合理なんである。ま、俺が殊更に言うまでもなくそれが道理ってもんで、トモミチ君みたいな人は、ただ単純に道理を知らない人、我と我が身を俯瞰できない人と言うことであり、旅の身こちらはぎりぎりのところで踏ん張っているのに、いくら渡航証金品一切合財とは言え窃盗ごときで勝手に心身喪失して「やられちゃいましたよ～」なんて唐突にやられた日には、てめぇが甘ちゃんだからだよ。わかんねぇのか、それくらい。荷物から目ぇ離して眠りこけてたら盗まれるかも。って覚悟ぐらい最初っからしとけよな。アホ。平和ボケ。鎖国ボケ。この甘ちゃん。などと俺も少々いらいら。で、トモミチ君、明日は日本大使館へ赴き、帰国への手続きを執るのだと言う。で、俺も甘ちゃんだから、そんなトモミチ君にお供してあげる事に。ま、渡航証も金も盗られた奴がどうやって帰るのか興味を覚えるところでもあるしと。【つづく】

2007.04.14

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　057

【つづき】でも一人、眼前を通り過ぎない奴がいた。火が付かない百円ライターを無闇に擦り続け、顔ごと斜めにしてみたり反らしてみたり風上に背を向け己を風防としてみたりと、とにかく色々とやってみるのだが一向点火しない若い青年がいたのである。俺から離れること二間ほどの至近距離に彼はいたし、そんな間近で悪戦苦闘を続けられては助け舟を出さぬわけにもいかず、つまり煙草を吸う俺の傍にて付きの悪いライターと戯れるという事は、つまりほぼ間違いなく俺が有しているであろうライターを当てにしているわけであり、その期待に応えるべく声を掛けてあげたのである。「日本人か？」「え？あ、はい。日本人です」「ほら、ライター」と俺が百円ライターを差し出すと彼は礼を言わずに変なことを言うのである。いわく「やられちゃいましたよ！」やられちゃいましたなんて言うから俺はてっきり欧米系のホモセクシャルにオカマでも掘られたのかと勘違いしたのだがそうではなかった。やられちゃったのは財布やパスポートやトラベラーズチェックである。つまり盗まれたのである。一切合財持ち去られたと言うのだ。彼は。俺から煙草の火をもらいつつ。だから、ま、窃盗被害の話を立ち話で済ませるのも、ま、なんだからと言う事で我々は近くの飯屋へ。席につくなり彼が堰を切ったように始めた話によれば、タイ南部のビーチから長距離バスでバンコックへと戻る道すがらを殆ど眠りこけて過ごした彼がバンコックへと到着後、財布財布とバックバックをまさぐったところで被害が発覚。同行の友人は無事であったが友人は結構つれない奴で、自分は用事があるので先に帰らせてもらうね、とパスポートも金もない彼を置き去りにして帰国。ま、せめても救いはあって、先に帰国しやがった友人の姉がバンコックに職を得ている人で、その姉が当座の資金を工面してくれたとの事。それが二日前のこと。で、二日後の今日に至って彼、嘉弥馬トモミチ君はすっかり体調不良。頭痛吐気悪寒発熱下痢食欲減退性欲雲散などの症状に終日悩まされ、まるで重篤な赤痢にでも罹った人のよう。と言うのもトモミチ君が主張するには「まさかこの僕が旅先にてそのような卑劣漢の毒牙にかかるとは思いも寄らなかった。想像だにしなかった。これぞ青天の霹靂である」らしく、それだけに犯罪被害を被った精神的衝撃もそれ相応に甚大なもので、帰国が叶うその日まで自身の体調が回復することはないだろうと述べるのである。蓋し、自らそのような暗示を強いるのだから渡航先に於いてトモミチ君の心身が元気を取り戻すことはまずもってない筈である。タイランドにいる限り彼の体調も精神も次第と病んで行くのである。ひと月も経つ頃には聴覚障害、つまり幻聴やラップ音などが聞こえるようになり、三ヶ月目には幻覚、つまり小人が複葉機のコックピットに鎮座してホテルの中を飛び回ったり、お茶を飲もうとしてカップの中を覗き込むとそこにピンクの鰐が居たり、パスポートも金も盗まれた自分を置き去りにして友達が先に帰国したりと、もう何が何だか、何処から現実で何処まで幻聴幻覚なのかすっかり訳がわからなくなって、つまりすっかり気が狂ってしまったトモミチ君は何故か北朝鮮の第四十九号病院へと収監される羽目に。そのまま家族とも再会することなく収監から三年後、二十五歳の若さで他界することにもなりかねないのであるが、トモミチ君にはそうは言わなかった。そこまで言うと更に体調を崩してしまい、しまいには目の前で嘔吐痙攣失神失禁などの劇症を呈されたりしたら困るし迷惑だからである。だって俺とて結構ぎりぎりのところで持ち堪え、なんとか帰国せずに済んでいるような不様であるのに、目の前でそのような事に及ばれた日には俺まで嘔吐痙攣失神失禁などの劇症を起こしかねないのである。それだけは何としても避けねばならぬ。だから此処はトモミチ君を刺激するような事は言わぬが我が身のためなのである。昔の人はこういう事を指して『触らぬ神に祟りなし』と言ったであろうことが今の俺には痛いほど理解できたりした。【つづく】

2007.04.14

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　056

【つづき】で、鳩眞子に送る凧を買い込み意気揚々と宿へ戻った俺は宿の前にて「ふ～っ」と一服。一服と言っても普通に市販されてる煙草の一服であって薬物関係の一服ではない。薬物ではないのだが、往来の喧騒を眺めながらの一服は何故か好い気分。独りであること。無知無学であること。初であること。ほとんど衝動的とも言えるいきさつで旅立ったものの、渡航先へと向かう道すがら既に捉えどころのない不安と焦燥に駆られ、独りだわ、無知だわ、初だわじゃ、これ単なる無謀と言うか出鱈目と言うか、犯罪者が犯罪を犯したのちに捜査の手が及ぶ以前に火急にて高飛びするのと内容的に殆ど変わらないのではないかと言う有様だ。で、高飛びまがいだから高飛び先でもろくな事にならない。空港に着いても英語と現地語で記された各種表記はまるで読解が叶わず、喋られたら余計に解らず、得体の知れない人たちと見慣れない風景と便座のない便器とが俺を更なる不安焦燥渦の中へと突き落としたのである。それがどうだ。ハローとサンキュー以外に英単語を幾つか覚え、例えばゲストやハウス、ホットやコールド、チープやエクスペンシブ、クレイジーやステューピッドなんかであるが、言葉の意味が解ると周囲で起きていることや得たいが知れぬと断じていた人物の理解分析なんかが促進され、更には覚えた英単語を幾つか組み合わせて簡単なフレーズまで操れるようになるとさながら僕は英国人。って例えばそれは「ノー・プロブレム！」「アイ・ロスト・マイ・ウェイ…」「ハウ・マッチ・イズ・ジス？」「アー・ユー・クレイジー？」「シー・ユー・レイター」「ジャパニーズ・イズ・ワーカホリック・ミー・オー　ルソー」なんかで、他にも色々と教えてもらったのであるが自分で驚いたのは、これまでの学業的人生において暗記したり学習したりした英語などは時を置かずしてすべからず忘却または抹消、および削除されてきたのに、縞雄や鳩眞子、宿の兄ちゃん、オート三輪の運転手、通りすがりの人などなどから教わった英語は忘れないのである。みんな頭に入っちゃうのである。これは非常に不思議な現象なのであるが、入っちゃうもンはしょうがなく、俺ってもしかして英語の天才！？とか断じそうにもなったのであるが、そんなわけはなくて、必要に迫られたから覚えたに過ぎないのであって、天才ならばこれまでの学業的人生において修得せしめた英語を悉くも忘却または抹消、および削除できる筈がなく、抹消や削除なんて単語を用いるとまるで自らの意志でそうしたみたいだが、全然そんなことはなくて自らの意志とは無関係に正反対にどんどんどんどん抹消されてしまい最後に残ったのがハローとサンキューだけだったのである。悲しいことではあるが、今は悲しくない。もう悲しくなんかない。だって海外渡航先に在る今の俺は、日々英語を覚え続けているのである。だから気分の好い一服がこうして出来ると言う次第なのである。そうしてカオサンロードは今日も英国人やら独人やら仏人やら瑞人に溢れ返り、我が眼前を行き交いつつ。【つづく】

2007.04.12

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　055

【つづき】またも渋滞に巻き込まれつつ夕刻前にバンコックの喧騒へと再び舞い戻った俺は、定宿と化したクラッシック・プレイスで荷を解き、鳩眞子と一緒に夕刻のひと時を過ごした王宮広場へと向かった。どうにも彼女のことが頭から離れないのであるが、離れないのだからそれ以上どうしようもなく、好きとか愛してるとかそういう軽率極まりない断じ方ばかりは尚早であろうと自らに厳に言い聞かせ、でも取りあえずは多少の感傷に浸るも好しってことで王宮広場で独りぶらぶらと。広場に凧がいっぱい上がっていた。鳩眞子と来た時も凧が一杯あがっていた。小学校の先生である彼女が、タイランドの凧揚げを教え子たちにも見せてやりたいな。とか言ってた事を思い出したる俺は一考。タイ人の皆さんが行う凧揚げそのものを見せるのは少々困難を伴うと言うか、まさかタイ人の皆さんを凧持参で日本へと向かわせるわけにも行かないのであればそれは無理として、此処は取りあえず鳩眞子先生へ凧を送るのが宜しかろうと俺は屋台の凧売りのおばちゃんから凧を購入。ついでにおばちゃんと何やら談笑。途中からおばちゃんの娘も加わり、その娘がこれまた美人で年頃の女性であれば談笑にも更に力が入ると言うものであり、ついさっきまで鳩眞子、おお鳩眞子よ。YOU ARE EVERYTHING.なんて具合に心の中で呻いていたのも綺麗さっぱり忘却し、いやあタイランドの女の子もなかなかどうして魅力的だわな。とか呟きながらデレデレとやる体たらくであり、デレデレついでに写真まで撮らせていただき、親子のツーショットでなく娘単体ならもっと良かったのであるが、母からはタイ語で凧のことをウァオと言うことなんかも教えていただいて俺はすっかり感謝感謝。サンキュサンキュ。コープクンカップ、ありがとう又会う日までごきげんよう。なんて具合にして広場を後にしたのであるが、なんとなれば俺はいつの間にやら片言の英語と少々のタイ語なんぞを操っているのであり、十日前とはまさに隔世の観、別人の趣すら漂わせていたのであるが、それもこれも縞雄や善児、鳩眞子との出逢いがあればこそと俺はあくまで謙虚。謙遜。恐懼を尽くして彼らを想い、少しだけ自信なんぞも覚えた渡航十日目のわたくしなのであった。【つづく】

2007.04.11

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　054

【つづき】旅の記録"TOO HOT"も五十回を超え、ここらあたりまでくると気付いている方なんかも多々いるであろうと存ずるが、実はここまでほとんど風景の描写や叙事的視点なるものが欠落しているのである。記録文や紀行文など旅がらみの文章の常として風景描写は避けて通れないような暗黙の了解が書き手、読み手の双方にあると思うし、俺としても出来るものなら多彩な形容詞なんかを自在にこれ操りて美しき一枚の写真を思わせるかの如き精緻で至妙な描写なんかしてみたいし、又、目前で展開する物事を冷静かつ冷徹な視点で以って捉えたシンプル＆クールな叙事文なんかも書いてみたいのである。書けるものなら書いてみたい。確かに書いてみたい。間違いなく書いてみたい。でも書けないのである。なんで書けないかって率直に言うに文章力が甚だしく欠如しているからであり、それ以上でもそれ以下でもないのである。悲しいことである。で、もう一つ理由があって、とてもじゃないが周りの景色や人物を見通す余裕など旅を始めた頃の俺にあるわけがなく、只只ひたすら流されているだけ、と言うか、毎時毎時毎日毎日が圧倒されたり、変にはしゃいじゃったり落胆したり浮かれたり苦悩したり、かと思うとやっぱり苦悩したり、で、もひとつ苦悩したりするばかりで殆どの時間を苦悩することに費やしていたから風景も叙事もへったくれもなかったのである。悲しいことである。悲しいだけでなく情けないことに自分自身と向き合うだけで精一杯。一杯一杯ってやつ。のっけからの数日間は人に囲まれ過ごせたから、ややもすると己にばかり向きそうになる視点が多少はずれてくれもしたが、タイランド到着時から一緒だった善児が消え、鳩眞子が帰国し、縞雄は未だ宿を共にはしているものの日中の行動の大半はそれぞれであれば単独で街を通りを浜辺をうろうろ。勢い我が心の襞に見え隠れする葛藤不安悲観混乱焦燥ばかりに目が向き向きて、つまらぬ、取るに足らぬ心の呟き戯言繰言の類に耳朶は傾き性懲りもなく堂々巡り。悪循環。精神のデフレスパイラル。等々、抜けたくて抜けたくて、でも抜けるに抜けられぬシャブ中アル中の如き厄介漢と成り果てていたのである。くどいと思うが悲しいことである。しかし俺とていつまでも周囲の方々の御好意やら心遣いやら、気遣い、協力、代理手続き、通訳と翻訳、ゼスチャリング等々所謂ところの人の情けにばかりに依存してばかりいるわけにもいかぬのであればと、ここらで何としても一本立ち。ってなわけに容易くは行かぬまでも慣らし運転。今時のエンジンは性能が良くて慣らし運転など必要ないらしいが、俺などは昭和中期に製造されたエンジンであればその性能も推して知るべし。たいしたことないのである。慣らし運転なしでエンジンをぶん回した日には容易くもエンジン部から白煙→異臭→オーバーヒート→焼き付き→ピストンの破砕→廃車という悲惨な末路が待つばかりであるし、こういう負の連鎖と言うか悪い想像ばかりをしてしまうあたりが葛藤不安悲観混乱焦燥に心が支配されている証であり、これらからの支配に終止符を打つべく、内なる俺は徹底抗戦、パルチザン活動を開始したのである。で、歓楽の明かりばかりが目に付くパタヤを三日で引き払った俺は九日間を共に過ごした縞雄とも此処でお別れ。さようなら。また逢う日まで。今年の秋は北海道二泊三日大麻採取ツアー、絶対行こうな、任して、俺が案内するから、なんて固い約束を交わし握手で別れたのである。【つづく】

2007.04.08

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　053

【つづき】でも所詮は取り繕ったような景色。白々しいビーチ。人工の匂いがそこ此処に立ち込めてやがる。すべてが観光的。なぜ俺はこんな場所にいるのか。こんなくだらない処へ来るために俺は大陸へと渡ったのか。そうなのか。それでいいのか。嗚呼、鳩眞子。きみは今どこにいるのか。日本か。そうか。ならば俺も日本へ戻るべきか。いやいや、そうじゃないだろう。それじゃまるで女を求め海を越えてきたみたいじゃないか。違うのか？そうさ、違うさ。鳩眞子はあくまでたまたま、偶然、思い掛けなくも気が合ったに過ぎず、一緒にいると不図楽しくなった。とても楽しかった。ひどく楽しかった。これ上ないほど幸せな気分だった。ならば俺は向後の幸せを求め、やはり帰国の途へと付くべきなのか。鳩眞子のもとへと馳せ参じるべきなのか。いやいやそうじゃないだろう。帰っちゃだめなんだよ。意味ないだろう。いや、待てよ。旅に意味なんかあるのか。意味のある旅ってなんだよ。そもそも何がしたくて日本を出たンだよ。答えてみろよ。ええっどうなんだよ。ほらみろ、答えに窮してンじゃねえか。馬鹿がっ。仕事も女も煮詰まっちゃって、どうしようもなくなって、なにもかもが抜き差しならなくなり、思いつきだけで旅って場所に逃げ込んだだけなンじゃねぇのか。違うのかよ。ええっ、どうなんだよ。馬鹿がっ。阿呆がっ。ならばいっそのこと潔くも日本へと戻ってだな、まずは鳩眞子と誼を結び、二人で幸せな気分に浸り、充分にも浸り切り、それから又改めても旅へと思いを馳せるってのもありじゃねえのか。そうだろ。ありなんだよ。な。じゃあ帰ろうよ。日本戻ろうよ。な。いやいやいやいやいやいやダメダメダメダメ。だってタイランドへ渡るためのパキスタンエアラインの航空運賃四万五千円もしたのに。もったないよ。まだ渡航して一週間だよ。いくらなんでも帰れないよ。でしょ。うるせー、馬鹿っが。幸せになるのと航空運賃を比べンのか、おまえは。金の問題かよ。違うだろ。そうじゃないだろ。な。いや、でもね、鳩眞子とはこの旅が終わってからでも又逢えるし。それに鳩眞子はともかく、地元の友達なんかに会わす顔がないじゃない、一週間で帰ってきたりしたら。え？おまえ、イスタンブールまで行って来るなんか言ってたよな。言ってたよ。うん。間違いなく言った。うん言った。確かに言いました。はい。それが、なに、一週間で帰ってきたわけ？うそだろ。送別会＆壮行会なんかやってくれた会社の若い子たちに何て言い訳するわけ？イスタンブールまで行く筈だったんだけど、渡航二日目にフィーリングばっちしの女の子と出逢っちゃったンだよねえ。うん。だから俺もその子の後を追いかけて帰国しちゃったンだ。アハハとか言うの？そうなの？おまえはアホか。いいか。フィーリングばっちしなら、何ヶ月後かわからないが、この旅を終えてから逢いに行っても、やっぱフィーリングばっちしなんじゃねえの。違うかね。いやいやいや、まずそのフィーリングばっちしって何？そういう言葉で言ってほしくないな、僕としては。最も適切な言葉を捜すなら、愛、かな。愛は早期帰国理由になるでしょ。ね。って何言ってんだよ。ならねぇよ。愛も糞もあるか。初の海外渡航でわけわかんなくなってるところへ可愛い子なんかが現れ、ちょっと話が合っちゃたりしただけで舞い上がってンだろ。冷静になれよ。あほ。あほじゃない。いいや、アホです。アホじゃない。いいや阿呆です。阿呆じゃない。みたいにして延々葛藤。葛藤しながらも宿に荷物を置き、葛藤しながら乗り合いタクシーを拾ってビーチへ到着し、葛藤しながらビーチチェアに寝そべると気分はもう南国リゾート。青い空。碧い海。インド洋。現地パタヤの若い女子達もすぐに現れ、笑顔の接客。お飲み物は何かお持ちしますか？みたいな問い掛けに「うん。僕はコーヒーをもらおうかな。コールドでね」とか言ってるといつの間にか葛藤も沈静化。たまにはリゾートってのもいいもんだよね。ね、縞雄くん。連れて来てくれて、ありがとね。いやぁ感謝感謝。あはは。こりゃいいわ。快適だわ。リゾート最高。パタヤ万歳。そのような台詞を吐きつつ、ビーチに寝そべりつつ、ネイルケアなどしてもらいつつ、もうしばらく旅を続けようと思える俺がいたのである。単純と言うか軽薄と言うか、ともかくも旅を続けられることにもう一人の俺は安堵。胸を撫で下ろしたのである。【つづく】

2007.04.06

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　052

【つづき】でもホントは飛び乗ったなんて威勢のよさがある筈がなく、実際のところは「え…？パ、パ、パタヤね…あ、うん、そ、そ、そう　だね。行って…み、みようかな。かな。うん…」みたいにして、さも歯切れの悪くして、所々口篭ったりして、飛び乗るどころか足取りも重たげにとぼとぼとミニバスに乗り込んだのである。しかしながら縞雄の気遣いがとても嬉しかったのは確かである。　　　　　　　ありがとう、縞雄。　　　　　　　うん。ありがとう。　　　　　　　だから俺はそのように心の中で縞雄に手を合わせ、言葉は伴わないものの正味深く深く、海よりも深く感謝をしたのである。では何故本人に直接言わずして心の中だけで手を合わせているのか訝しく思う向きもあるやも知れないが、そこンところがまさに屈折なのであり、育ちの悪さがあればこそ獲得し得た俺の性癖なのである。ま、言うなれば罪を憎んで人を憎まずではないが、罪を訝しく思うのではなく人を訝しく思っていただければ幸いである。って誰に話し掛けているのかよくわからないが、ミニバスであるパタヤである。乗り込みたるそのミニバスであるが、正味、壊れかけたワゴン車である。塗装はあちこち剥がれ落ち、内装は腐り、エンジンが時々爆発し、かと思うと信号待ちの度にアイドリングが無くなったりする逸品であるからして到底これからリゾートビーチへと向かうご一行様の風情ではなかった。車内には俺と縞雄のほかにも欧米系白人が二名、現地系モンゴロイドが四名が乗り込み、狭い車内は満員と言うか、正味、定員オーバー。であればやっぱりリゾートビーチへと向かう風情ではない。走る道もひたすら都市空間の中、バイパスの上って風景が続くので本当にリゾートビーチへ向かっているのか途中何度も不安に襲われもしたのであるが、進路は概ね太陽の方へ向かっているから南へ走っているのは間違いなく、途中何故か渋滞にも巻き込まれながら四時間がかりで辿り着いたるがパタヤビーチであった。おお、まるで写真で見たハワイのようではないか。車から降りた俺の第一声である。イメージ、貧弱である。【つづく】

2007.04.04

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　051

【つづき】そういうわけで渡航五日目にしてすっかり落ちぶれてしまった俺を尻目に縞雄は独りタイランド南方のビーチを目指すべく着々と準備を整えていた。彼はそこで一月あまりを怠惰に過ごすのだと言う。そこはパタヤという名のビーチなそうな。リゾートピーチなそうな。パタヤ。勿論、俺は知らない。育ちが悪い俺にしてリゾートなんぞ生涯只の一度も行ったことがない。三十代を前にして生涯を言うのは、ちと尚早であるが、なにはともあれ縞雄はひとまずそこパタヤにてビーチに寝そべったり、現地の若いご婦人を冷やかしたり、ビキニ・ウェアを装着した観光客風情の女を誑し込もうという腹づもり、算段なのであろう。きっとそうなのである。多分そうする筈である。ま、縞雄にそう尋ねても決して認めないのであるが、それ以外の目的、指針、テーマなどを持たずしてリゾート・ビーチに行く奴なんているものか。戯けたことは言うな、馬鹿者が、痴れ者が。女あっての男なんじゃ。女なくして男が語れるかっ！くそっ。人をバカにするのも大概にしやがれ。ちゃんと認めろよ。僕は女が好きです、大好きです、女のことばかり気にして生きていますって認めろよ。しまおーっ。おいっ！聞いてンのかよ。聞いてたら返事ぐらいしろよ。畜生めっ！などと、ひとしきり心の中で叫んだ後憔悴。鳩眞子がいなくなってからの俺を一言で言い表すに「憔悴」なんである。憔悴とはまさにこの時の俺の為にあるような言葉で、どのように俺の為かと言うとこのようにである。一寸気を抜くと憔悴。ものを考えているうちに憔悴。苛立ち、手当たり次第に物を破壊しては憔悴。ご飯を食べては「嗚呼、この料理は鳩眞子のお気に入りであったよなぁ…」と憔悴。道を歩いては「嗚呼この道は二人で歩いた道であるよなぁ…」と又憔悴。何をやっても何を見ても何を考えても行き着く先は一つ。やっぱり憔悴なんである。俺のそのようなあまりの憔悴ぶりを縞雄は不憫と思ってくれようで、単独で行くはずだったパタヤビーチに縞雄は俺を誘ってくれたのである。「気分転換にでも一緒に行ってみませんか、パタヤ？申請した印度のヴィザが下りるまでにまだ何日かありましたよね。それを待つ間だけでもパタヤ行ってみたら少しは気分も変わりますって。ね、すっかりご憔悴の仁科さん」若年の輩からそのような気遣いをされ、俺は情けない事この上ない人間であるが、実際に情けないのであれば致し方ない、その申し出、素直にお受けいたすとしようってわけで俺もパタヤビーチへと行くことに。生涯初のリゾートへ向かうため俺は縞雄を伴い、って実際は縞雄に伴われ、パタヤ行きのミニバスへ飛び乗ったのである。【つづく】

2007.04.03

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　050

【つづき】しかし、まあ、なんと言うのか単純なのか不純なのか鳩眞子が現れてからの俺はまさに幸せの絶頂。旅ってこんなに楽しいものだったのね。俺、なんか誤解してたみたい。あはは。みたいなもんで、飛行機の隣席にいた辛気臭い全身黒尽くめの女も、鼻糞を豪快にほじるイミグレ担当官も、馬鹿笑いばかりの税関担当官も、懇切丁寧な紳士然としてるのに股間を掻き毟る空港警備員も、カーチェイス路線バスも、体長数ミリの小さな蟲が蠢く滲みだらけのベッドマットも、便座のない便器も、客引き運転手も何もかも今となっては全てが良い思い出だよね。あはは。なんて台詞を吐けるとは我ながらまったくの驚きでして、それからの数日は夢見心地、最愛の人と旅してるかの如き錯視幻影の只中にいることになったのである。さりとて他人の幸せは、やはり、我が不幸。当方の個人的で、パーソナルで、浮ついて、読んだ人が思わずむかついてしまうであろう幸せに満ち満ちた日々の徒然なんぞを読まされる諸氏方々の身にもなってみろ、その心労如何ほどのものがあらんや、などと妻が言うので、ここはひとつ読者各位の心情、お立場、心の病などを憂慮して俺の個人的横溢幸福感日々出来事なんかは、一括ざくっと端折ってしまおうと思うわけですが、基本的には端折りつつもこれ一応は旅の記録なので簡単にでもそのあたりの事情に触れておくと以下の通り。あはははは。うふふふふ。と微笑みあったりしながらバンコックの街並みを散策。これ、おいしいよ。食べてみる？きみが注文したのも食べさせてよ。あ！なんでなんで？こっちのほうがぜんぜん美味しいじゃん。料理、取替えっこしようよ等々の微笑ましき語らいが街々で店々で屋台々々で為され、夕暮れの王宮公園で遊ぶ家族連れなどに優しいまなざしを向けては又語らい、ホテルの部屋に戻っては又々語らい、いつしか彼女は俺のベッドの上で寝息など立てるから、俺はベッドの下の床の上、つまり俺のベッドと縞雄が寝ているベッドの間に毛布などを敷いて横になり、途方もなく深甚な至福感に一人浸りながら日記などを認めてはニヤニヤとし、顔を上げ彼女の寝顔を見詰めては又ニヤニヤとしていたのである。しかしである。我が不幸は他人の幸せ。最愛の者を得、まるで旅を我が手中に収めたかに思えた俺は、再び混沌と不安の汚泥の中にずぶずぶと嵌り込み、沈み込んでいく事となったのである。言うなれば三日天下。何故に三日天下かと言えば、出逢って四日目、旅程を終えた鳩眞子が日本へと帰ってしまったからなのである。出逢ってまもなく彼女の旅程は聞かされていたし、すべてはわかっていたことなのに、内なる俺は彼女の帰国をなかなか受け入れようとせず、彼女の帰途を空港で見送ったその瞬間から俺の胸に途轍もなくでかい穴が穿たれ、途轍もなくでかい穴からは何か大事なものがドボドボと流れ落ちるのだが、止めようがなかった。ただただ手をこまねく俺。作り笑顔が引きつり、廃人の如き虚ろな目で以って旅を彷徨う。旅することは彷徨うことと同義であるのに、その旅の中で彷徨っているのだから始末が悪いことこの上ないが、どうしようもないのである。何も考えない感じないようまっすぐ前だけを見てまっすぐ歩いているうちはいいのだが、一寸横を見たり、誰ぞの笑い声につられて後を振り返ったりするとその途端、鳩眞子の顔と声と愛らしげなる立ち居振る舞いが思い起こされ、バンコックの騒々しげなる往来の只中にて俺は独り硬直してしまうのである。【つづく】

2007.04.02

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　049

【つづき】タイランド到着からほぼ丸一日。そのようにして俺はすべからず疑心暗鬼で、小心で、腰が引けたままの姿勢で物事に向かっていたのであるが、翌朝ずいぶんと早くから俺らの部屋を再訪してくれた鳩眞子にすっかり気を良くし、次第に彼女のペースに乗せられていくこととなった。男の笑顔なんざ同姓の俺にとってさほど気にも留めないが、女の笑顔、それも若くて綺麗なご婦人の笑顔なんかは向けられただけで何ゆえか大変に気分が楽しくなるのであり、不如意なまでに嬉々としてしまうのであり、嗚呼、こういう空気感を指してこそ『華がある』とかなんとか言うのであるなあ。うんうん。そうそう。そうなんだよねえ。みたいにして、でれでれとなってしまう自分。当今、ともするとそのような自分に抑制をかけそうになるのであるが、考えてみるにこれ動物としての本能が為せる業なのであり、無理に抑制したりするのは心身の為によろしくないのである。しかし、ま、だからと言ってオスの本能の趣くままに若いご婦人を押し倒す、ええい喧しい、減るもンじゃねぇンだから一回ぐらいいいだろがっ、とか言いながらご婦人の横面を二三発も張る、黙らせる、そうだ、わかりゃいいンだ、わかりゃ、とか言いながら服を脱がせるみたいな言動はこれ犯罪であるからやってはいけないのであり、このような貧弱極まりない紋切り調な発想連想に陥るような男性はアダルトーなものの観過ぎであれば、楽しげな気分に抑制をかけるかけないとは、これ又べつの話である。で、鳩眞子のペースに乗せられるとは具体的にどういう事かと言うと、それまで俺のほぼ全身を支配していた海外渡航に際しての不安混乱混沌等々が嘘のように霧消。えっ？悩んでたって？誰が？俺が？いやいやいやいやいや。勘違いだって。うん。そんなふうに見えちゃった？あれ、おかしいなぁ。ぜんぜんそんなことないンだけどねぇ。うん。ほら、見てよ。見た目にも楽しそうでしょ、俺。ね。口も滑らかでしょ。ほら、だから、勘違いだって。うん。そういうことである。具体的に言えば。だからその日、俺は鳩眞子、縞雄、善児を伴って印度大使館なんかへヴィザの取得に出向いたりして、それも結構意気揚々だったりして、でも申請手続きのほとんどは縞雄が横からやってくれたりして、「ふんふん、そうなんだ、そうやってやるわけね。オッケーオッケー。もう覚えちゃったよオレ。ホント、ありがとね縞雄ぉ」などの軽はずみな言動に終始。途中、印度への出発時間が迫った善児がお別れを告げるも笑顔で握手。また何処かで逢えるといいね。お互いに良い旅になるといいね。などの余裕をかました台詞まで出てくるくらいにすっかり調子を上げた俺は申請手続きを終えたのち、日本人街やらアラブ人街やらナイトバザールやらデパートやら屋台、茶店、カフェなどを手当たり次第と回り、がしがしと歩き、各所で精力的な見聞をし、疲れ知らずなところを鳩眞子と共に見せたのである。あれ？縞雄は？と、鳩眞子と二人周囲を見回せば遥か五〇メートルも後方から縞雄がとぼとぼとやってくるのが見える。そう。彼は疲れ知らずではなかったのである。で、俺は又も「なんだよ縞雄ぉ、もう疲れちゃったわけ？はいはいっ。がんばれがんばれ。まだがんがん歩くよ。これからパッポン・ストリートも行くンだよ。飯も食いに行くんだよ。疲れてなんかいられないよお。しまおー、早くこーい」みたいにして基調は完全に『攻めモード』なのであれば、回る場所、目指す場所なんかも鳩眞子からの受け売りであれば、人間こうも容易く変わり身するものかと言うくらいにまったくもって軽佻浮薄なる俺だったのであれば。嗚呼、楽しからずやバンコックの夜。【つづく】

2007.03.29

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　048

【つづき】セクシャル・ハラスメント。鳩眞子が泣いてたそもそもの理由である。タイランドくんだりまで旅行にやって来てまでセクシャルな被害に遭ってしまうとは、女性の一人旅は因果であるよなぁ、切ないよなぁ、タイ人にも終日セクシャルなことばかり考え、セクシャルな行動に打って出るべく機会を伺い、周囲を窺い、隙あらばハラスメントな事をしでかしてやろうと狙ってる中学生時の俺みたいな奴がおるわけだね。男の性に国の別は無いのだね。心中お察し申し上げるみたいな内容の私見を鳩眞子に述べた俺であったが、それはとんだ勘違いで、鳩眞子を性的被害に遭わせたのは日本人男性であるとのこと。それも旅行代理店などを営んでいるおっさんであると。自称、旅の達人。これまで延べにして五十八カ国を巡ってきたツワモノ日本人たる自分が貴方の旅をサポート！気軽に声を掛けてちょ、みたいな内容の店頭広告宣伝文に心惹かれるもの、導かれるものがあったのであろう鳩眞子が、つい、ふらふらっとその旅行代理店事務所内へと闖入したのが最後、旅の達人は貴方の旅のサポートなど何処へやら、鳩眞子を事務所内設置のソファ椅子なんかの上で横にさせ「うんうん。こりゃ、かなり凝ってるなあ。あっ、このあたり。うん。かなりきてるね。旅の疲れは溜めちゃダメだよ。ほら、腕のつけね、わきの下、ここにツボがあるンだよね。バックパックを背負うとさ、どうしてもこのあたりに疲れが溜まってさ。ねえ、わかるでしょ。感じるでしょ。ね。自分でマッサージしてもなかなか疲れって取れないンだよね。ほら、ここらの大胸筋が凝ってるのわかる？ね。すっかり張っちゃってるもの。ほら、よぉ～くマッサージしておかないと。ね。こうして円を描くようにマッサージするのが効果的なわけ。ねえ、いい感じっしょ。ね。そしてね、やっぱり腰ね。旅って歩くでしょ。だからどうしても腰にきちゃうンだよね。うん。きちゃう、きちゃう。腰だよね、腰。あのさ、素人にマッサージしてもらうと、後からやるでしょ？うつ伏せにしてさ。でも、あれダメなんだよね。うつ伏せでぐいぐいやると余計に腰に負担かけちゃうわけよ。腰の疲れ取るときは、こうして前からやるほうが効果的なわけ。ね。こうして。ね。ね。ね。違うでしょ。でね、足の付け根。ここ。ここもやっぱり疲れ溜まっちゃう場所ね。うん。すこ～し脚開いてくれる？内腿やるよぉ。外より内にね、疲れたまるの。だから膝から内腿にかけて、すこ～し、時間をかけてやってあげるからね。ね。もう、眠くなっちゃったら寝ちゃっていいからね。うんうん、もう勝手に寝て寝て。やっぱ、リラックスが一番だから。うん。リラックス。ね」と、そのように旅の達人はすっかりセクシャル・サポートにうつつを抜かし、鳩眞子はうかつにも事務所ソファで言われるがままに横になってしまった己を情けなく思ったり悲しくなったり、私はこのまま犯られてしまうのか。私は犯されるが為に旅に来たのか。私に置いてきぼりを食らわせたあの女が憎い。あいつが置いてきぼりを食らわせなければ私は五十八カ国野郎に手篭めにされることもなかったのに。嗚呼、もう駄目。だめ。お母さん、ごめんなさい。バンコックで犯られる不幸をお許し下さい。とすっかり観念しかけた時、事務所に急の来客多数。寸でのところで事なきを得た鳩眞子なのであるが、逃げるように店外へ出るも、怖かったのと悔しいのと悲しいのと、ごめんなさいが混濁するがままに一気に噴出、泣き崩れんばかりとなったところを、日中、俺と善児に目撃されたのであった。で、聞けば鳩眞子、一緒に旅行していた友だちに置いてきぼりを食ったらしく、つまり一緒に旅行していた友だちのほうは既に帰国してしまったらしく、それで独り途方にくれていたところらしく、それで相乗効果的に余計に悲しくなってしまったらしく、って『～らしく』ばかりで繋ぐ文章が変なのは承知しているのであるが、女性の語る話を鵜呑みにすると痛い目に遭うことをこれまでの人生で繰り返し学習してきたが俺であるから、鳩眞子の身の上話もまたこれを鵜呑みにしないよう十二分に注意を払いつ、少々疑心暗鬼気味などにして腰が引けているが故の『～らしく』連発であれば読者の皆様にあってはどうぞご容赦願いたい。ってところでまた次回【つづく】

2007.03.27

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　047

【つづき】泣き顔の彼女。二十三歳。名前を鳩眞子と言う。彼女もまた子供がらみの職にあるが、重度の障害を持った子供とかではなく、もそっと一般的な子供相手であり、日本中どこにでもいるクソ生意気で何事にも無関心無感動を装い、母親からは過剰なる期待と関心を寄せられるも愛なき父親とは没交渉であるから勢いマザコンの見本の如き呈を為すばかりでなく、テレビゲームと塾を通してのみ世の中を窺い知る過程において相当に若年であるにも関わらず妙に世間慣れした台詞を吐き捨てるなどの所業を身に付け、結果、我輩は特別であると信じて疑わない子供らなんかが相手の職であり、つまり、要するに、所謂ところの小学校教諭なのである、鳩眞子は。ところで。このような書き方をすると、まるで往時の俺が子供嫌いのように思われる向きもあるやも知れぬが、蓋しその通りなのである。大嫌い、憎悪してる、クソ生意気なことを言われると空中飛び膝蹴りを食らわしたくなることもしばしばであり、ましてや電車内や公共の場なんかで他人様にぶつかりながら走り回ったりぎゃあぎゃあと騒いだり飛び跳ねたりしてるお子様を目撃したりすると、当の子供ばかりかその親まで『あれに見ゆる無法なる徒は何者ぞ。あっ。あれはヒトではない筈。あれは多分、日光界隈に出没しては観光客から食い物を強奪する、乱暴狼藉をはたらく、引掻く、空中飛び膝蹴りをするなどの没交渉的で低脳なことをしでかす猿畜生の類であろうや。さりとてヒトの皮を被るなどしてまことに不埒千万なエテ公であるものよのぉ」などと嘆くばかりであるとまでは言わぬが、なんにせよ概ね嫌いであることに間違いはないのであるが、と、こう書き連ねるうち斯様なお子様がたと俺との間に奇妙な符号があることにお気付きになられた賢明なるREADERも多いかと思う。そう。空中飛び膝蹴りである。とどのつまり、俺も又、斯様なお子様方と同類なのであり、類は友を呼ぶのではなく、同類相憐れむのでもなく、同類ゆえの縄張り争いに近いものがあるように思えてならないのであるが、脱線がすっかり長くなったので鳩眞子の旅のくだりは又次回。【つづく】

2007.03.26

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　046

【つづき】職業、看護師。看護師ってからには病院や医院や診療所介護福祉リハビリテーション等々の医療機関に従事するわけであり、斯様な職場空間で勤務する方々にあっては清潔感を求められ尊ばれるのであれば女性でもない限りは、まずもって頭髪を長く伸ばしたりはしない筈であるが、善児は何ゆえか長髪であり、顔立ちもどちらかと言えば南方系の暑苦しさが漂っていて、強い視線を向けるかと思えば、時々ではあるが何処を見ているのかわからないような焦点の定まらぬ目をしたりするし、バックパックな旅のさなかだから当然と言えば当然ではあるが服装なんかもデカイ半ズボンに緩いティーシャツ、如何にも南方系ですと言わんばかりの麻のサンダルを引っ掛け、全身を使い一人芝居の如きゼスチャーなどを処構わずにやってみせる青年であるから俺には彼が看護師などという堅気の職業の者とは到底信じられず、ま、良くてバンドマンもしくは劇団員。妥当なところでフリーターもしくはニートの青年。もしかしたら年増相手の結婚詐欺師とか裏専門のアダルト男優ってな線でも何等違和感のない彼にしてやはり己の氏素性には触れようとせず、触れようとしないからこちらも気を遣ったりして訊こうともしなかったのであるが、当夜の宴も酣、気分もそれ相応に弛緩した時分になって本人が言うに、「俺、養護施設で働いているンです。結構、重度の　障害持っている子が多い施設なんです。そこで二　年間。はい。なんか、友達の話とか聞いてたら俺　も印度行ってみたくなっちゃって、職場に無理言　って、なんとか三ヶ月の休みもらったンです。あの、　仕事はすごいやりがいあるし、障害持ってる子って　すごく素直だし、何ヶ月も抜けるのは心苦しいと言　うか、子供らや子供らの親にも悪いなぁ　とは思う　ンですけど、どうしても印度に行ってみたかったし、　今しか行けないような気がするンですよね。はい。　それに、あの、最近なんか煮詰ま　っちゃって、自　分の置かれてる環境とかを、あの、なんていうか、　がらっと、大きく変えてみたかったンです。はい」とか言いながら善児の視線は又どこか違うものを見詰めているようで、俺には彼本人が養護施設の子と見えたりしたのであるが、養護施設の子なる言葉に回想するところがあり、かくなる俺も養護の子供らには仲間と思われやすかったことを思い出したのである。俺が通っていた中学には養護学級があり、七名ほど当学級の子がいたのであるが、その子らが休み時間になると俺のクラスの入口に屯し、俺を呼ぶのである。「にしなく～ん、遊ぼっ」と三四名で声を合わせて楽しげにしているところをみると俺は何ゆえか彼らから好かれていたか仲間だと思われていたのは間違いなく、さすれば俺自身もまた他人の目からは養護の子と見えるのやも知れず、二十九歳となった当今『養護の子』はないだろうから『養護の青年』ってところに落ち着くのかも知れないが、そう考えると常日頃俺自身の心持が他人様世間一般の方々のそれと乖離しているように感ぜられるのも承知が行くし合点がいくと言うものであり、俺も又善児と同様、時折どこを見ているのか不明な視線を現世へと向け、気がつけば俺たちは似た者同士だったりして、さすれば善児のあの舞台芝居の如き大袈裟なる全身使いのゼスチャーにこそ心動かされる俺がいて。その善児。明日には印度へ旅立ってしまうのである。さびしからずや。【つづく】

2007.03.25

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　045

【つづき】したらば件の彼女、束の間、頓狂なる風情でこちらを窺うも突然破顔一笑言うのである。「見てたわけ～キャハハハハハ」って具合で何故かそこから意気投合となったりしたわけだが、何故か、ってくらいだからどの辺の意気が噛み合ったり、どういう感じで共有感を覚えたり意見思惑感想の合致をみたり、面白がったりしたのかは往時も現在も判然としないのだが、とにかくもほとんど出逢いざまに意気投合。総勢四名となった我々はクラッシック・プレイス201号室へと流れ込んで深更まで談笑。笑い。笑顔。ってなんか笑ってばかりだが、事実笑ってばかりいたわけで、当夜何故にそう容易くも場が華やぎ盛り上がったのか往時も現在も判然としないのだが、ってこう書くとまるで判然としないことばかりのようだが、事実判然としないのであれば判然としないことは判然としないままで放置、時の過ぎ行くままに醸成しておくのが妥当適切なる対処であろうと俺は断じるのである。が、ま、しかし、やはり若く綺麗な御婦人を前にして野郎どもがはしゃぐ、前のめりになる、笑いをとろうとする、自己紹介をする、自己顕示欲の欲するままになる、などの行動一覧は是道理なのであり、俺も縞雄も善児も道理に実直であっただけのことなのだが、俺はその場で初めて『旅』に対する思いや考えが各個人によってそれぞれであるという事を知り、その事実が結構腑に落ちたり喫驚したりしたわけである。　　へ～、なるほどねぇ。みんな、それぞれに　　それぞれの理由で旅に出て、それぞれの旅　　をしてるもんなんだ。ふ～ん、なるほどねぇ。例えば縞雄は大学を出ても就職せず、東京の実家にて余暇をもてあまし、もてあましたまま二年間の時が漫然と過ぎ去れば、つまるところ、このままでは僕は単なるニートに過ぎぬ。社会に積極的進出を図らねば僕は社会人失格だ。それは嫌だ。大学を出てぶらぶらしてるだけでは周囲の風当たりは強くなるばかりではないか。正直やばい。母はともかく、昨今では父は僕のことを座したまま腐りゆく奴、ぐらいに見限ろうとしているかに思える。それは誤解というものである。僕とて座したまま腐りたいわけではないのだ。ちゃんとした就職もしたくないわけではないし、ちゃんとした結婚だってしたくないというわけではなく、僕はちゃんとすることだって実証しようと決めた。うん。決めたのだ。なればここは一念発起、社会進出を図るべく気持ちをば切り替えようではないか。そうだ！切り替えるには旅はうってつけではないか。うん。そうだそうだ。そうしよう。大学二年の夏休みにパッケージツアーで訪れたタイランドへ今一度行ってみようではないか。うん。そうだ。それがいい。でも今度はパッケージツアーではダメだ。時間が短すぎる。であれば、大学の友人知人どもが就職先の決った順に卒業旅行などと称してやっていたバックパッカーなんてのが宜しかろうや。うん決まり。タイランドの南、インド洋の碧きさざ波が打ち寄せたる砂浜ビーチにて独りのんびりと、まったりと月間を過ごさざれば気分気持ちを切り替える手掛かりとならんや、なんて具合にして旅に出てきた男だったのである。で、例えば善児の場合。ってあたりで【つづく】

2007.03.24

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　044

【つづき】否、まてよ。混乱してるより迷妄のほうがましなのだろうか。本当か。確かか。うん。わからない。でも、とにかく迷妄だ。俺は迷妄だ。迷妄。めいもっ。めーいも。俺はメイモ。らららららぁ迷妄するって素晴らしいのさああなたも私も迷妄みんなもどうせ迷妄らららららぁららららら、らららららぁとか何とかそれっぽい節回しを付けつつ鼻歌まじり。と、ことほど左様にして迷妄状態にあるの俺と、全身を使って航空券を無事に入手した善児の両名は宿へ戻ろうと当該路線バスを探したのである。エア・インディアの事務所を出たのが三時過ぎ。それから夕刻七時近くまでかかって、ほうぼう手を尽くして我々はそれをば探し続け、求め続け、例えばタイ人の若い女性ばかりを殊更に狙って声を掛け、「バス停、ドコデスカ？アナタ、シッテマスカ？アナタ、カワイイネ」と、概ねそのような内容の身振り手振りを善児が駆使することで路線バスの情報入手に努め尽力し、延べにして三十人以上のタイ人婦女子にしつこく尋ね回るなどの労力を惜しまなかった我々なのであるが、何ゆえかこれがまったくの空振りに終始するから、遂にはバンコック市内における現在位置、座標点をも見失った俺と善児の両名は此処に万策尽き果てて、やむなくも小型オート三輪トゥクトゥクへと乗り込み、今度の運転手は稔寺の如き客引きまがいでなかった事に胸を撫で下ろし、縞雄が待つ宿へと戻ったのである。俺と善児は当然のこと、縞雄も随分とあちらこちら歩き回ったようで三名とも激しい空腹感、飢餓感に苛まれており、取るものも取りあえずと宿に隣接したコンビニエンス・ストアへと流れたのであるが、手っ取り早く空腹を満たそうとコンビニへ行っちゃうあたりが現代日本人然としているわけだが、この時の俺はそのようなことには露ほども気が付かない、考えが及ばないのであり、つまり自分にとって左様にもコンビニが生活の一部で、最早それはコンビニエンス・ストアがニシナタカシと言う自我の一部と化していたことの証左であり、わたくしは後日そのコンビニ自我の崩壊を迎えることとなるのであるが、当夜縞雄や善児らと流れ込んだコンビニにおけるコンビニ自我の俺は、それこそ水を得た魚の如く楽しげと振舞うのであった。そんな楽しげなところに昼の彼女が現れたのである。あの、バックパッカー風情。長い黒髪と美白な面立ち。でもその顔は半泣き。否、半泣きを少々超え、今にも大声で泣き出しそうな堪え顔で歩き去ったあの彼女である。「あ、今度は泣いてないね。昼は、すっごい泣き顔で歩いてたのに」などと俺は楽しげなる気分のおもむくまま彼女に声を掛けたのである。【つづく】

2007.03.22

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　043

【つづき】斯くして俺はバンコック初日にして既に己も旅をも見失い、安宿に居座りたる迷妄の徒として旅を始めることとなったのである。いやぁ、取りあえずはよかったよかった。だって、飛行機に乗ってからこっち、自分が迷妄しているという自覚すらなく、ただひたすらに混乱混迷し、自意識は過剰の領域を超えてどろどろと白濁するに及んでいたわけだが、エア・インディアの事務所で善児が行った一人芝居が如き大袈裟極まりない身振り手振りをまざまざと見せつけられて、俺は向後の己の振る舞いにある種の覚悟と決断を迫られ、覚悟も決断も出来ていない己が今此処にいることに気付き、気付いただけでは済まされず遂には己が迷妄状態であることが自覚できたのであれば、これは一定の進歩進捗であり、精神的な進化の黎明期にあると言っても過言ではないのだから。否、過言かも知れない。本当は、おそらく過言なンである。そう容易く進化出来るのなら誰しも苦労はしないわけで、出来ないから誰しも他人から世間からバカ扱いされたり無能呼ばわりされたりして、バカだの無能だの傲慢だの身の程知らずだの言われるから頭にきて、頭にくるから余計に失敗や過失や間違いを犯し、ほどなくも幾つかの失敗や過失や間違いは重大な事故や凶悪な犯罪へとつながることとなり、妹や夫の身体をばらばらに切断したり、子供や老人を十名二十名と車でなぎ倒した挙句「気付かなかった。人だと思わなかった」なんて破廉恥なことを真顔で言える人間が出来上がってしまうのである。俺もそうならない保証も確証もないわけで、今のところ知り合って間もない事情もあるから縞雄も善児も俺のことをバカだの無能だの不能者だの人間の屑だのとは言わないが、これがもし、もうしばらく付き合う羽目となれば彼らにして俺の混乱ぶり迷妄ぶりを嘲笑し、俺が居合わせていない場にて以下のような会話に及ぶやも知れないのだ。「いやあ、仁科さんって、あの人、ちょっとやばくない　っスか。どうっスか、縞雄さん」「そうだねぇ。やばくない？って言うよりは、完全に　やばいでしょ。そのまんまでしょ。まずいよ彼。　善児くん知ってるかなぁ？仁科さんって寝言でさ、　『あ、千円みっけ。ラッキーむにゃむにゃ…』とか　言うンだよ。あの人、絶対お金に困っているって。　間違いないと思うな。多分、そうだと思うよ。善児　くん、あの人にお金貸したりしちゃダメだよ。ね」「へ～、寝言で千円みっけ、ですか。ラッキーですか。　なんだか可哀想な人なのかも知れませんね。きっと　スラム出身なんじゃないンですか。俺、北海道にそ　ういう場所、あの、つまりスラムがあるって人から　聞いた事あるんですよ。仁科さん、おそらくそうで　すよ。ま、どうみても育ち悪そうじゃないですか。　あの人」「だねぇ。育ちは間違いなく悪そうだよねぇ。目つき　とか良くないもの。すぐ眉間に縦ジワが寄るでしょ。　あれって昔ヤンキーやってた名残なんじゃないの」「え、仁科さんってヤンキーだったんですか？」「いやいや、本当にヤンキーかどうかは知らないけど、　両親に愛され何不自由なく育ってきた人ならあんな　縦ジワ眉間に寄せないって。でしょ。ちがう？」「そうっスね。それに、やっぱ挙動不審っスよね。縞　雄さん知ってますぅ？仁科さんの日記。書いてンの　見たことありますよねぇ？小さい字でびっしりと大　学ノートに毎晩書いてるやつ。あれって日記に題名　つけてンの知ってます？」「え、日記に題名？徒然草とか？方丈記とか？紀貫之　は土佐日記だっけ。そんなのみたいにってこと？」「いや、あの、徒然…って何ですか。はぁはぁ、へ～　古典っスか。そんなのあるんですねえ。俺、看護師　だから知らなかったっス。で、話戻しますけど、俺、　仁科さんの日記にタイトルが書かれているの見た時、　思ったンっスよ。バッカじゃねぇの、この人って。　だって日記のタイトルＴＯＯ・ＨＯＴですよ。ＴＯＯ・　ＨＯＴ。ＴＯＯ・ＨＯＴ、暑過ぎってなんっスか、　暑過ぎ次って。日記のタイトル暑過ぎってどういう　意味か全然わからなくて、仁科さん大丈夫ぅ、特に　頭のほうとかって思ったンですよね～」「あ、ＴＯＯ・ＨＯＴね。あのフレーズは僕が教えて　あげたやつ。仁科さん暑い暑いってうるさいでしょ。　で、二三日前だったかな。やばいくらいに暑いって　言うのは英語では何て言えばいいんだ、なんて訊い　てきたから教えてあげたんだけど、なんでまた日記　のタイトルになっちゃったンだろうね。意味わかん　ないね」うん。確かにそうかも知れない。育ちが悪いのは間違いない。家庭に不和があったのも事実である。ヤンキーってのは間違いで、正味パンクである。パンク。これはある意味、ヤンキーより性質が悪いかも知れない。ヤンキーは妙に義理堅いところがあったり、年功序列的なものを受け入れる素地素養があったりしてヤンキー気質を尊ぶ傾向が社会一般にあったりするわけだが、一方、パンクはどうかと言うと、これはもうただただ支離滅裂で、破壊的で、意味もなく一升瓶を往来に投げつけ、これを粉微塵として無意味にバカ笑いしてみたり、バンド活動に必要なもの一式を万引きしてみたり、バンド練習でスタジオへ通う為の自転車を盗んでみたり、嫌がる婦女子を無理矢理手篭めにしようとしてみたり、もうこれはほとんど犯罪者に等しい行為であるから社会的にはまったく受け入れてもらえず、街を歩けば後指を指され、地下鉄に乗れば化粧を施した顔を見ず知らずの婆婆に覗き込まれ、それもその筈、パンクな少年であった俺の格好ときたらまんぼーズボンみたいに脚ぴちぴちの革パンツに、腰からは鎖をじゃらじゃらと垂らして歩き、びりびりに引き裂いたＴシャツを着て、紅く染めた髪は電気ショックを受けてばりばりに逆立ってしまったかの如き状態を保持するが為にスーパーハードスプレーで固められ、目元にはデビルマンを彷彿とさせたる隈取なんぞを施せばその姿を見る者の多くに一定以上の不快感不愉快感、または嫌悪感や恐怖感を植え付けるのは避けられず、ある時、ススキノ某店にて斯様パンキッシュな格好にて飯を喰らっていると関係者を引き連れた松山千春が現れたので「千春さんのファンです」とか何とか言い募りサインを求めたのだが、俺が差し出した大学ノートを彼は無言のまま押し返すのである。そうして彼、松山千春は俺の爪先から頭の先まで舐めるが如くガンをくれると「けっ」とか何とか言いやがったので俺はその夜、自宅に戻ってから愛聴盤「大空と大地の中で」をゴミ箱へ打ち捨て、「どうだ、こうしてやる！こうして粉々にして、けちょんけちょんにして、ジャケットもびりびりに引き裂いて、おまえのその薄い頭髪に呪いをかけてやる。どうだ、この野郎、偽善者野郎、死ね、死にやがれ、ど阿呆がっ、見たか豚野郎、はぁはぁ、はぁはぁはぁ、死ね、音楽家としてのオマエの命運は今ここで尽きたのだ。どうだ、はぁはぁはぁ、思い知ったかこの野郎、はぁはぁはぁはぁ」と息を荒くした夜もあったことを今思い出したりするわけだが、では翻って、なにゆえそのような、つまり一般社会に受け入れてはもらえそうにないおぞましき格好振る舞いの者であったかと言えば、これはもう育ちが悪かったから、としか言うより他なく、明哲強固な意志でもってパンクな野郎を志したわけでもなんでもないのである。が、すっかり長くなっちゃってもう何を書いているのか自分でもわからなくなってきたわけだが、ま、なんにせよ、俺は、今、迷妄してるって明確なまでに自覚し、それを把握しただけでも混乱してるよりは少しは、まし、ってもんなのであれば。はぁはぁはぁはぁ。【つづく】

2007.03.21

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　042

【つづき】ぴかぴかの革靴に黒の革パンツ。シャツは大阪人が喜びそうなド派手極彩色の花柄。そこへもってきて真紅やら紫やら原色使いばりばりだし、肩幅出してるし、みたいなダブルジャケットを羽織り、束ねた髪は長髪黒色、セカンドバッグの類は絶対に持ち歩かないのを信条に仕事一筋生きてきた俺が、東南アジアの地にていったい何を企てようというのか。バンコックの街並み、ショーウインドウに映った我が身を見れば、以前交際していた女性から誕生日にいただいたコムサデモードとやらの黒色を基調としたティーシャーツに、ユーラシア各国はきっと暑いだろうと二日前慌ててダイエーの紳士服売り場で購入せしめた黒色の半ズボンを履き、足元はティンバーランドの重厚なブーツで固め、なんと腰にヒップバッグなんぞを装着せしめているのを改めても確認することとなった俺は思わずして半泣きとなる。なんと言う珍妙な出で立ちなのだろう。俺はいったいどこで踏み迷ったのであろうか。何を遅疑逡巡して職場からの逸脱を図ったのだろうか。好きな職に就き、そこそこの月給をいただき、慕ってくれる何名かの部下がいて、俺は一体何が不満だったと言うのだろうか。何が嫌で、何を変えたく何を求めて大陸の旅なんぞを希求したのだろうか。そりゃ確かに俺が籍を置いていたデザインの現場は、深夜真夜中なんて宵の口で、大抵が明け方、徹夜だってしばしばであり、一日二十四時間のうち平均して十九時間と三十分ぐらいは働いているから、勢い周囲の友人らからの誘いは次第と減り、そのうちにまったく声が掛からなくなり、ほどなく公私共に付き合うのは同僚ばかりとなんなんとすれば見る世界に聞く世界、己を取り巻くものの全てが矮小化せしめ、手も足も首も雁字搦め。身動きするのも息をするのも辛苦を伴うに及び、遂には　俺は仕事する為に生まれて来たンじゃなーい。　うぉーうぉぉっぉやがっあばばじょれぁぴょ。と往来の真ん中で気ちがいみたいに叫ぶことで病める魂の射出をしたくなることも珍しくはなかったのであるが、やはりそこは部下を持つ身、立派な社会人としての自覚があればこそ俺は気ちがいみたいに叫ばず、射出もせず、ぴかぴかの革靴に黒の革パンツ。シャツは大阪人が喜びそうなド派手極彩色の花柄。そこへもってきて真紅やら紫やら原色使いばりばりだし、肩幅出してるし、みたいなダブルジャケットを羽織り、束ねた髪は長髪黒色、セカンドバッグの類は絶対に持ち歩かないのを信条に仕事一筋で生きる者としてほどよくも抑制の効いた日常を送ってきた筈なのに…。なのに、なぜ。何故なんだ…嗚呼、もう、自分がわからない。【つづく】

2007.03.20

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　041

【つづき】で、鋼の意思で以って客引き運転手稔寺の執拗なる風俗店への誘惑に打ち勝った僕らは、鬨の声など高らかに上げ、意気盛んにエア・インディア事務所へ闖入と相成ったのであるが、僕らの盛んなる意気なんぞはものの二分と持たぬうちに消沈し、まもなくも俺と善児は新たなる苦悩の時を迎えることとなったのである。なんとなれば我らは航空券の購入が為に来たのであるにも関わらず、我らは共に米語英語は無論のこと他の一切の言語をも解せないのであれば、「あのぉ、こんにちは。明日の便で印度はカルカッタ行きのエア・チケット予約してある小浜善児と言います。今日はチケット代金の支払いとチケットの受取に日本国より参上仕りました。こちらの事務所での手続きで間違いございませんか。ああそうですか。では早速、本題でございますが、現金支払いとさせて頂きたくお願い申し上げます。あと杞憂とは存じますが、明日は貴社労組によるストライキなどは予定されておりませんか。わかりました。左様でございますか。大丈夫ですね。はい。はい。わかりました。では私、二時間前にはドンムアン空港へ参ることと致します。さようなら。ごきげんよう」なんてことを言うのに、日本語ならものの一分と掛からぬのに、善児が知ってる二十個くらいの英単語と、彼の全身を使った身振り手振り、所謂ところのゼスチャーだけで先の会話の代わりと為さんとすれば、これが楽に小一時間を要するのであり、俺はこれを我と我が身に置き換えたるるに苦悶と苦悩と困惑と不安と憂慮のうちに頭脳がごちゃごちゃになり果てて、以後俺も同様の真似、つまり今後覚えるであろう二十個ぐらいの英単語と、全身を使った寸劇の如き大袈裟極まりない身振り手振りを用いて全ての用件を他国の人々、つまりタイランドやら印度やらパキスタンやらイランやらユーラシア大陸各国の国民の方々に向かってやらねばならぬわけであるから、少しばかり、ほんの少しだけ、ほんとに幾許かであるが、俺の視界には暗いものが差し込み、最初から暗所に在るが如き俺の旅により深く重いやっかいな手探り感が加わり、ぐぐぐぐっとその深度を深めたのである。両の脚が地面へめり込んでいく錯覚。白昼夢。はっ、と気付けば此処は何処？俺は誰？なんで此処いるの？あ、もう仕事行かなきゃ。遅刻しちゃ、まずいもの。一応、六名の部下を持つ身なんだし。で、なんで俺、軽装なんだ。半ズボンなんて俺、持ってか？Ｔシャツに半ズボンなんて隙だらけの格好で出歩くなんて、俺は何をとち狂ったんだ。わからない…わからないことだらけだ。まずいよなあ。うん。まずいよ。はぁ…って溜息。【つづく】

2007.03.19

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　040

【つづき】確かに客引きと断じた。断じたのは断じたのであるが俺の一存だけで断じても又それはそれで具合の悪い、自分勝手で他人の気持ちのわからないような断じ方であって周囲にたいへん迷惑を掛けるやも知れないので、断じながらも俺は一応周囲の方に尋ねたのである。「善児くん、どうする？行かないでしょ？行かないよね。　いや、あの、俺に気ぃ使わなくていいからね。もし行　きたいなら行きたいって言ってよ。ね。ほんとにさ。　え？　行くわけないって。　あっ、そう。　気持ち、変わらないンだね。　行かない、かぁ。　行かないんだ…。　行きたくないわけだ…。　うんうん。うんうんうん。そうだよね。だよね。行きた　くないよね、普通は。だって、病気とか、もらっちゃう　と、やっぱ、あの、今後の旅の予定にも支障が出る　だろうし、痒いとか痛いとかの症状が出るのも又つ　らいンだよね。わかるよ、俺。うん。そうだよ。痒いの　は辛いよぉ。うん、辛い。辛いンだよなあ、あれ。　やっぱさ、ここは心を鬼にしてマーチャア行くのは止　めようね。止めとこうね」馬鹿野郎、ノー・マーチャアだって言ってンだろ！この客引き野郎。スケベ運転手。日本人はみんな女買うと思ってやがンな。畜生め。俺と善児くんはなあ、違うンだよ。確かに旅の目的がそれだって奴は多いさ。それは認める。なかには会社組織、各種団体職員一同、役員一同なんてある種の集団がその目的またはテーマを掲げ東南アジア各所を物色して歩いているのも間違いないさ。ああそうさ。日本人はトイレ行くのも買い物するのもメシ喰うのも買春するのもなんでも団体行動さ。ああそうさ。恥かしいよ、俺としても。だがな、俺と善児くんはな、俺らはな、買春目的でバンコックくんだりまで来たわけじゃないンだぜ。そこんとこ誤解なきよう言っておくぜ。だいたいよ、ちょっとばかり小林稔寺似だからってスケベな事ばかり言ってンじゃねえぞ、この野郎。とまでは言わなかったのであるが、稔寺には重ね重ねも辞退の旨、儘、申し入れ、走ること更に数十分にて我らが当初の目的地所エア･インディア事務所へと辿り着いたのである。稔寺に乗り賃を支払い、ありがとうね、さようなら、と俺らは言ったのである。可愛げにも手まで振って見せた。そうやって最後の最後まで礼儀正しき日本人旅行者像を守り通した俺などは少し誇らしくさえあったのであるが、そんな健気な俺らに向かって稔寺は去り際に三度(みたび)、いや四度か五度か今となっては数えていないが、まだ言うのである。「ジャパニーズ・フレンド。ゴー、マーチャア？マーチャア、ゴー、マーチャア。カモン、マイフレンド。マーチャア、マーチャア。ヘイ！マーチャア？」おまえはアホか。しつこいよ。笑っちゃうだろ。だから俺らは無表情に限りなく近い笑顔を、と書きかけて思ったのであるが、限りなく無表情に近い笑顔ってどんな笑顔なのよ。みたいな疑問もないわけではないのだが、儘、置いといて。そうして呆れ返って手ばかりだらだらと振ってみせる俺らに、稔寺は唇の端を少し歪めて少し笑ったのである。しょうがねえ日本人だな。強情っつうか、クソ真面目っつうか、変な、馬鹿な、面白くない連中だぜ。やってられんよ、実際。手ばかり振ってねぇで、日の丸でも振ってやがれ。バカが。おそらくは稔寺、そのように思ったのではないだろうか。【つづく】

2007.03.18

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　039

【つづき】八重山の運転手がどうとか、腕がどうとか、くだらないことをぐだぐだと書き連ねているうちに三日も経ってしまったが、知らぬ間に連れて来られた、稔寺が言うところのナンバーワン・テンプルな寺を連れ回されたあとからの続きである。「善児くん、で、結局のところ今の巨大寺院は何だっ　たのかなあ？俺たちは何で此処に連れてこられた　わけ？ねえなんで？どうして？何があったの？何？　何なの？」みたいな内容の問い掛けに、と言うか、内容と言うべきものも殆どない問い掛けなのであるが、善児もしきりと首を捻るばかりであるから、あまりに捻らせるとそのうちに首を捻挫とかさせちゃうと申し訳ないなぁと慮った俺は、溢れんばかりの疑念疑問の一切をひとまず心の内へと押し込み、沈思黙考してみたのである。　タイランドへと赴き半日が経ったが、判らんことや、　解らんことばかりだ。　官吏然とした糞真面目な顔にて豪快なる鼻糞ほじ　りをするイミグレ担当官。　おしゃべりに夢中で本来的業務の一切にあたろう　としない税関職員二名。　たいへん親切の上に大変愛想も良いのだけれど　話しながら己の陰茎部をまさぐり続ける空港警備。　深夜の公道でカーチェイスに興じる路線バスの運　転手。　毛唐鬼畜米英でごった返した宿周辺の妙な風情。　便座のない便器。　灰色で辛い正体不明の食べもの。　マッサージの意であると類推できる「マーチャア」　を連呼しつつ風俗店へと誘い込もうとする運転手。　小林稔寺似の運転手。　いやいや、こやつを運転手と決め付けるは早計で　ある。運転手なんぞは俺ら旅の者を欺く為の姿や　も知れず、本業は客引きであるかもわからん。否、　もしかして巨大寺院の回し者か？　でも、回し者と言ってもただ境内を回っただけでは　誰の利益になるわけでもなかれば寺側の回し者っ　て可能性は排しても大丈夫か。　言葉による意思疎通が叶わないと世の中がこうも　意味不明なものと化してしまうものとはおもわな　んだ。ああくわばら、くわばら。怖い恐い。　人の世とは、浮世とは、言葉によって成り立って　おるものなのね。　知らなかったよ。そんなこととは。今の今まで。　話すべき言葉。聞くべき言葉。話してあげるべき　言葉。聞かせてあげるべき言葉。　そのような言葉を失った人たちが我が国にも溢れ　ているようなぁ。うん。いるいる。　そういう方々が意味不明な事件事故等を日々起こ　しているよなぁ。　自分はそうはなりたくないなぁ。うん。ないない。　でも此処でそうなっちゃいそうだよなぁ。　ああくわばらくわばら。　南無妙法蓮華経。とか何とか黙考していると又も聞こえて来たのである。「マーチャア！ゴー・マーチャア！レッツ・ゴー！」見れば稔寺、小型オート三輪を走らせながら後の俺たちをしきりと振り返り、風俗店斡旋の言説を再び弄し始めたのであり、危なっかしいことこの上ない彼にしてやはり客引きと俺は断じたのである。【つづく】

2007.03.16

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　038

【つづき】「あの娘、泣いてたね…」「はい。泣いてましたね」「いったい何があったんだろうね…」「はい。何があったんでしょうね」「なんか可哀想だよね…」「はい。可哀想ですね」「まさかレイプ被害に遭ったとかじゃないよね」「まさか昼間っからレイプは、ないでしょう。はい」って具合で、善児に何を話し掛けても鸚鵡返しであるから泣顔のわけ詮索論議は一向に深まりをみせず、そうこうしているうちに稔寺に後を取られ、さあさあ乗った乗った。ジャパニーズフレンドよ。などと肩を組まれたり叩かれたりするので、あっ、こいつやっぱ、客引きに違いないと俺は確信したのであるが、背後を取られた時点で勝負は既に決していたのか、俺と善児は成り行きのままに小型オート三輪後部シートへと押し込まれ、稔寺は意味不明の高笑いなどやりながら勢いそれを発進させたのである。それにつけても気掛かりなのは泣き顔の彼女であり、俺は後ろを振り返り、遠ざかる雑踏の只中に彼女の姿を探せども、そこに見ゆるはもはや群集。喧騒。　　　嗚呼　哀しみのきみよ　今いずこ　　その紅き唇はかみしめられていたね　　　嗚呼　悲しみのきみよ　今いずこ　　　　きっと明日は晴れるだろういや待てよ。晴れるだろう、は変だろう。珍妙だよ。そうだな、明日は明日の風が吹く。いや、これじゃもっと変だよな。まるっきり紋きり調だ。ま、でも、なんて言うか、希望的なものと言うか、何か、あのいわゆるひとつの天啓。啓示。暗示。みたいなものをやっぱり最後に持ってきたいのだけれど、どうしたもんかなぁ。ってな具合に勝手な詩を読んだり、勝手に創作に悩んだりするほどに、件の悲壮なる彼女は至極印象深かったのであるが、そうこうしている間にオート三輪は停車して、おや、此処は何処？エアインディアには見えないけど。なんて辺りを見回せばそこははたして寺なのである。巨大寺院である。「なになになになに？なんなの？なんで寺なの？エア　インディアの事務所ってこの寺の裏にあったりする　の？違うの？じゃ、なんで俺たち、寺に連れて来ら　れたわけ？もしかしてエアインディアって、タイ語で　は寺を指す言葉とかじゃないよね。そうだよね。それ　は考えすぎだよね。うん。俺もそう思う」俺のそのように言葉の速射砲を善児に向けてぶちかましつつも、速射砲を撃たねばならない理由や精神状態、つまり知らぬままに頼みもしない巨大寺院に立ち寄り、そのぶん多額の運賃を請求されるのではないかと言う不安心配怖れが俺の脳裏に充満していたので、言外にそのあたりのことを隣の稔寺に悟ってもらおうと図ったのであるが、そのような回りくどい目論見は見事無念の花と咲き、稔寺は添乗員よろしく俺と善児の前を行き行き、案内を仕切り始めたのである。「え～、こちら左手奥に見えますのが、タイランドの国宝級古代建造物、○○○寺院にございます」と言う喋りがおそらくは稔寺の目指すところなのであろうが、実際に稔寺が喋った台詞は以下の通りである。「タイランド・ナンバーワン・テンプル！」右手の親指など立て、豪快なふうにしてそう言い放つ稔寺であったが、何が、どういう具合で、どのようにしてナンバーワンなのかは教えてくれなかったし、又それを訊くべき言葉を持たない俺たちはまるで幼児の如く稔寺に手を引かれ、いやさ先導され、境内を五分で巡り、そして退場。やはりナンバーワンの理由はわからぬまま俺たちは稔寺号へと再び乗り込んだのであった。【つづく】

2007.03.12

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　037

【つづき】俺の問い掛けに振り返った善児の顔は、行きたきゃ勝手にどうぞ、みたいな冷ややかな顔であったから俺は咄嗟の軌道修正。「だよね。行かないよね。エアインディア行くンだったもんね。そうなんだよなぁ、うん。そうしよ。ね。やっぱここは初志貫徹が肝要かと。うん。渡航日初日からソープじゃ、何しに此処まで来たのかわかんないものね。うんうん。俺もそう思うよ。うんうん。うん」で、そのような妙な言い訳を言い終えた俺は唐突のうちに稔寺が執拗な連呼をする『マーチャア』の翻訳語に思い当たったのである。蓋しマッサージである。稔寺は先ほどからマッサージに行こう。マッサージに行こうと勧誘しているわけで、ついでにおねえちゃん写真まで用いて幻惑のうちに当方男二名ばかりを淫欲世界の彼方へと運び去ろうとしているわけで、こやつ、ただの運転手じゃねえな。もしや売春Ｇメンでは。などと変な勘繰りをするも売春Ｇメンなどという職種が実在するかどうかも極めて怪しいのでそれ以上深く勘繰るのは止めにし、こいつやっぱり客引きじゃねえか、と俺は断じるしかなかったのであるが、実際にオート三輪のハンドルを握っている以上それはやっぱり運転手であるから、売春Ｇメンと客引きと運転手とが三者混濁の様相を呈し、俺の頭脳も一緒に混濁した結果、周囲のタイ人が皆、怪しき人に見える始末で、俺は善児の肩を叩きながら言ったのである。このおっちゃん、やめとこ。な。別なの当たろうや。斯様な提案に賛同の意を表す善児と俺とが立ち去ろうとすると稔寺は件のリーフレットを折りたたみ、それを胸ポケットに仕舞いながら言うのである。「ＯＫ、ＯＫ。ノー・マーチャア。ＯＫ」で、俺と善児は顔を見合せ『どうする？』と目配せなんかで無言の協議を行った結果、『じゃ、乗ろっか』と言うことになったわけであるが、その時、俺らの目の前を美しき若い御婦人が通り過ぎて行く。おそらくは日本人。バックパッカー風情。長い黒髪と美白な面立ち。でも顔は半泣き。否、半泣きを少々超え、今にも大声で泣き出しそうな堪え顔で彼女は歩き去っていくから俺と善児は再び顔を見合わせる。………。………。はい…。ええ…。あのぉ…。と言う具合で、まるで埒が明かない。俺も善児も、見ず知らずの美しい御婦人が大泣きしそうな場合に何をどうすればよいものかまるでわからずに、ただ指を咥え、華奢な背中の彼女を黙して見送ったのでありました。はい…。ええ…。いったい彼女の身の上に何が起こったのか。感極まった面立ちにてバンコックの往来を独り行く日本人女性のその後姿が目に焼きつき、稔寺のことなどは、もはや忘却の彼方の彼方、遥か遠くへと飛んで行ったのである。【つづく】

2007.03.10

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　036

【つづき】はたしてその印刷物はソープランドの宣伝用リーフレットであった。然るべくして稔寺の手元を覗き込めるに、そこには若い裸体を惜しげなくも晒した二十名ばかりの御婦人たちが妖艶なる笑みなどを浮かべ表紙集合写真と収まっているではないか。思わずして顔を見合わせる俺と善児の様子に、脈ありっ！と断じたか稔寺は、にたらぁ、などという具合に昂然と笑うのであるからそのような稔寺の所作に俺は古里札幌は、すすきの界隈に巣食う客引たちの姿をつい重ねたのであり、彷彿とさせてしまったのであり、懐かしくも思い出したのである。懐かしいと言ってもそれはつい二日前のことである。俺は、会社の女の子たちが催してくれた送別会にたいへん気分を良くし、元来がカラオケ嫌いであるにも関わらず、会社の女の子たちに「仁科さん、もう二度と会えないかも知れないンだから最期に歌って下さい。お願いします。先輩の歌声を思い出にしたいンです。だから」なんて具合に、落とされてるか持ち上げられているのかよく判らない声に背中を押され、反カラオケの信など簡単にへし曲げた挙句に調子よくもカラオケなんぞやっちゃう始末で、それもその筈、当夜集まりたる会社の女子と言うのは前年度の短大新卒者ばかり六名であるし、補強説明するならばその六名の中には明眸皓歯な感じの子も数名いたりするからには、その子らに煽てられ、別離を嘆かれ、ちょっと涙ぐまれたぐらいにすると二十九歳の健康な男子であるところの俺にして気分が良くならない筈はなく、河島英五『酒と涙と男と女』ボロ『大阪で生まれた女』山本譲二『みちのく一人旅』なんか数曲を続けざまに熱唱そして絶唱。　「あんた、どのへんがカラオケ嫌いなの」みたいなことを言われる体たらくだったのである。って、あれ、話が脱線。で、そんな楽しい送別会も朝がた引けるに揚々たる意気で以って家路を歩いているとそこは札幌ススキノであるから客引きに次々と囲まれ、腕をつかまれ、肩や腰に手を回され、百メートルでも付いて来られ「お兄さん、お兄さんって。ちょっと遊んでいって　よぉ。ねぇ。なに、お兄さん、どんな子がいいわ　け？巨乳ちゃん？それともスレンダーな子？教え　てよ。なになに、教えるくらいいいじゃない。獲　って喰おうって言うンじゃないンだからさ。え？　獲って喰うつもりだろうって？なんでなんでなん　で？なんでそうなるわけ？お兄さんだって気持ち　よくなるんだから獲って喰うのはお兄さんのほう　じゃないの。ね。でしょう。ね、ね、とりあえず　さ、写真見る？写真。ほらほらほら見て見て見て。　これ、菜々ちゃん。ほら、巨乳ちゃんでしょ。ね。　バスト95ってよ。え？なに？タイプじゃないの。　じゃ、ほら、この子はどうよ。元モデル。隣の綺　麗なお姉さんって感じでしょ。ね。タイプでしょ。　やっぱり。どんぴしゃ。え？なに？違うの？じゃ　誰がいいわけ？選んでよ。ほら、見て、ほら、ね、　十六名…じゃないね十五名。絶対タイプの子いる　から。いいから見てよ。ね。ね。ね。ね。ね。ね。　写真見てもお金かからないからさぁ、ほら、見る　だけだから」と言う具合にして、弁舌も滑らかに、放っておけば一週間でも喋り続けるであろう彼らにして勝手に人の腕などを取り、二人三脚よろしくひたすらにススキノの中を併走＆トークを続けるのであり、それでも幸いにして途中に地下鉄の駅があったり、タクシーに乗ったりするから併走＆トークの断念もあるが、これがもし駅もなく、タクシーも来なければ彼らは何キロメートルでも併走＆トークをやめないそんなススキノの客引き特有の『不敵なんだけど、でも、人好きのする笑顔』をバンコックの稔寺も又持っていたわけである。であるが、俺は此処で根源的疑問を覚えるに至ったのである。それは、稔寺が小型オート三輪の運転手であるのか、それとも、はたまた、もしくは客引きであるのかという疑念であり、回答如何によっては当方も稔寺との付き合い方を考えなくてはならないし、ソープに行くなら行くでやっぱり事前の準備というものが必要であろうと、俺は善児に問うたのである。「どう？善児くん、行く？」【つづく】

2007.03.07

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　035

【つづき】然るに俺たちは出発前から躓いた。どのように躓いたかと言うと以下の通りである。タイランドの街々にはトゥクトゥクなる小型オート三輪自動車によって有償で客を乗せ目的地まで運んでくれる制度があり、つまるところそれはタクシーとまったく同様の業態であるわけだが、乗り物が三輪か四輪か、課金体系が言い値かメーター制かの違いがあるのである。で、宿の近くに停車中の小型オート三輪を見つけた善児は、航空券購入の用件を果たさんとして運転手のオヤジを呼び止めたのである。「え～ハロー。ゴー、エア・インディア・オフィス。　オーケー？」みたいにして汲々たる英会話を用いた呼びかけたにも小型オート三輪のオヤジは満面の笑みを以って頷き返したわけだが、何を隠そうこのオヤジ、日本の俳優であるところの小林稔侍に顔も風体もたいへんよく似ており、妙な親近感なんかを醸し出してくれるのであるが、その稔寺が立てた親指で以って『乗れ乗れ。オーケーだからさっさと後へ乗ンな』などとゼスチャーするから善児と俺は、　…オッケーみたいですよ。…そうみたいだね…。などと互いの顔を見合わせ頷きあったのちに、バイク様式の運転席背後に設えられた後部シートへと乗り込んだのであり、稔寺はすぐにも発車させるのかと思ったらさにあらず、彼は俺らのほうへ振り返ると、英語とおぼしき言語を駆使し、しきりと何事かを話し掛けてくるのである。当然のことながら俺も善児もまったく解せない。一語もわからないのである。であれば善児などは仕方なくも両手を広げ、手のひらを上に向け、首を傾げたぐらいにして「はあ～？意味が全然わかりましぇんのですが、どうしたもんでしょう？」とやって見せたのであるが、稔寺もさるもの一向怯まない。と言うか稔寺にも又こちらの主張するところは通じていない筈であるが、彼は俺たち二人の英会話力をただちに見限ったらしく長ったらしい文章表現に見切りをつけ、単語一つで押しまくってきたのである。それでもしばらくの間、俺も善児もやっぱり意味不明で「はて。稔寺はいったい何を言ってるのであろうか。マーチャアとか言ってるみたいだけど、マーチャアなんて単語俺は知らぬ。タイ語なのかな。マーチャア？わからないよね。ね」と頷きあったのであるが、まもなくしてしびれを切らした稔寺が上着の胸ポケットから何やら折りたたまれた印刷物を取り出すと、それを開いて丁寧に折皺を伸ばす所作の後、俺らのほうを見てにやりと笑い、さあ、お二人さん、とくとご覧あれ。と言わんばかりにうやうやしくも開陳したのであった。【つづく】

2007.03.05

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　034

【つづき】で、半ば強行に善児も説得、動転していた俺の気持ちもどうにか収まるところに収まり、堂々巡り脱却の企ては無事に第一段階を遂行したのである。冷房機器が作動するとすぐさま部屋の空気が変わり、町全体がサウナの中にでもあるようなべたべた感、むしむし感、ねっとり感が直ちに霧消霧散していくのと同時に俺を抱合した世界にも又明確な変化が生じ始めた。何か憑き物がとれたように気分が軽やかとなり、壁上部に据え付けられた冷房機器より排出される涼しげなる風に吹かれているとすっかり疲れも飛んで行ってしまうと言うか、此処がタイランドであることなど忘却してしまうと言うか、ともかくも俺は俺にあてがわれたパイプベッドの上にて真っ白いシーツに頬擦りなどをやりつつ「快適。快適。ああ快適」なんてうそぶいたのである。ま、でもそれは無論幻想。と言うか逃避行動。理解し難い目前の現実から束の間でも目を背けただけに過ぎず、まもなくして外出の時刻となり冷房機器の動作を止めて部屋の外に一歩踏み出した途端、そこにタイランドが在ったのである。つまり暑かったのである。べたべた感、むしむし感、ねっとり感に満ち溢れた南国の空気が、北海道で生まれ育った俺の白き柔肌に絡みつき纏わりつき、三歩と歩かぬうちに雁字搦めとなり、不覚にも荒くなった呼吸にまぎれて体内へと流入したタイランドの熱き気体に脳温度を上昇せしめられれば容易くも思考能力の低下を招き、何処かへと霧散した筈であった心身疲労は気がつけば身体各所に至るまで深々と覆い尽くし、快適快適とうそぶかせた精神を蝕み、ほどなくして外出する気力さえ失くす俺なのであったが、善児が背後から言うのである。「はい、はい、仁科さん、だらだらしてても始まり　ませんよ。航空券の購入に付き合ってくれるンで　すよね。どこで、どうやって購入するか知ってお　きたいンですよね。はい、じゃあ、行きましょう。　ね、仁科さん、だらだらしてても時間が過ぎるば　かりですから。はい、行きますよ」と言うわけで善児と俺はエア・インディアなる印度の航空会社事務所へと向かったのである。タイランド周遊の縞雄は同行せず、美味い飯屋でも見つけておきますよ。アハハ。なんか言いつつ一人でバンコック雑踏の只中へと消えていき、その背中に不安げる眼差しを向けたのは俺と善児である。なんとすればこの両名は他国言語の一切を解さないのであり、操れないどころか単語レベルですら小学生程度であり、それも低学年、もしくは昨今の英会話興隆の時世にあっては未就学児童なみかも知れず、何度も繰り返すが俺に及んではハローとサンキューしか知らないのであれば、俺と善児という組合せは言葉・会話・筆談それら情報交換手段の一切を有さぬ二人であるから航空券購入までの前途は黒々と暗雲立ち込めたるものと言わざるを得なかったのである。【つづく】

2007.03.04

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　033

【つづき】とは言え、大の大人が、立派な社会人が、旅先にて堂々巡りばかりしているわけにも行かず、やっぱり堂々と巡ってばかりいるのは嫌だし、格好わるいし、然らずんばここはなんとしても堂々巡りの連鎖を断ち切るべく俺は一考を案じたのである。まずは宿を変えるべし。マットレスが虫だらけ滲みだらけの、こんな糞みたいなゲストハウスは一夜限りとして、もう幾らかでも宿のランクを上げるべや。なんて北海道弁では言わなかったのであるが、縞雄と善児の東京出身者両名ともに袖振り合うのも多少の縁とか、同病相憐れむとか言って、ひとまずもう一泊三名様にて部屋を取ることとし、じゃ、どうせならばもそっとマシな部屋にするべや、と言うことで話がまとまったのである。で、捜すと、いやさ、捜すまでもなくそれは目の前にあったのである。糞みたいなゲストハウスの斜向かいにある『CLASSIC PLACE』なんて悠長な響きの白壁四階建てのホテルがそれであり、縞雄がホテルの受付の兄ちゃんに英語で尋ねたところ部屋代は糞の三倍であるが、便所付き、冷房完備、シーツは毎日お取替えとの事で俺などは部屋を見せてもらうより早くすっかり前のめりで「いいよ、いいよ。ここサイコーだよ。決めちゃお。ね。此処にしよ。決定。ね、もたもたしてると満室になっちゃうかも知れないし、ね。決めちゃおう。此処で決定」なんて強固に主張、両名をどうにか導こうとしたのであるが、両名からまったく相手にされず、「いいえ、仁科さん。ちゃんと部屋見せてもらってから決めましょう」と両名から諭されて俺はおとなしく従ったのである。でも部屋に案内され、ベッドに白いシーツが敷かれているのを認めただけで俺はやっぱり前のめりとなり、「はいっ。決定。此処にしよ。ね。この部屋いいワ。サイコーだワ。ほら、冷房もちゃんと動くし、ほら、ベッドにも、虫、いないみたいだし、壁にも滲みとかないし、共同便所じゃないし。決定でしょ。ね、決定ということで、ひとつお願いしましょう。皆様、ご異存ございませんね」などと俺は少しばかり浮ついたふうにして主張。再び両名を導こうとしたのであり、再三の説得努力が功を奏したか縞雄からは即答にて同意を得たのであるが、善児のバカが今更のように不平不満などを述べやがって俺は少なからず気分を害されたのである。バカ曰く。俺、ここまでイイ部屋じゃなくてもいいンですけど。どうします？俺、明日には印度行っちゃうから、バンコックは今夜だけなんで別に汚い部屋でも全然いいんです。どうします？堂々巡り曰く。どうします？じゃねえよ。語尾上げんじゃねえよ。おまえ、さっき、宿のランクを上げることに賛同したじゃねえか。この野郎ふざけたこと言ってンじゃねえぞ。いいか、あのな、ランクを上げるってことは白壁のホテルになるってことなんだよ。馬鹿がっ。部屋代が惜しくなりやがったな。このしみったれめ。この守銭奴めが。印度に行くかなんか知らんが、印度旅程念頭にあっての節約意識かなんか知らぬが、宿代百円が三百円になるだけの話じゃねぇか。五十万円の資金を用意してきた奴が二百円の差額でつべこべ抜かすンじゃねえよ。だいたいが明日には印度へ旅立つンだから三百円は一泊だけだろうが。せこいこと言ってンじゃねえぞ。バカがっ。けっ。気骨と愛のある男だと賞賛した俺がバカだったぜ。ああそうさ。馬鹿は俺さ。どうせ馬鹿さ。堂々巡りさ。だからなんだってンだよ。堂々巡りから抜け出したいから恥をしのんで言ってんじゃねえか。ちくしょうめ。このままじゃ又堂々巡りに逆戻りかよ。善児が不意の不平不満など述べるからこちらも不覚にも気が動転したりして、やばい、この宿に泊まれないと堂々巡りの連鎖から抜けられないじゃないか。やばいよ。それは困るよ。で、俺は思わず怒り口調で上記の台詞を吐きそうになったのであるが、勿論いくら堂々巡りばかりしているとは言え、怒りや不満を直線的に表現するなんざ立派な社会人たる態度ではないから俺は理を通して善児を懐柔すべく言説を尽くしたのである。「ね、だって、善児くん、変な、汚い、不衛生な安宿　へ泊まって印度へ行く前に病気でももらったら大変　だよ。今夜は此処がいいと思うよ。ね、悪いこと言わ　ないからさ、三百円で騙されたと思ってさ、　ここに　決めちゃおう。ね。そうしようよ。いや、誤解しないで　よ。騙そうって言うンじゃないからね。ほらほらほら　見て見て見て。便器にもちゃんと便座が付いてるし、　決定でしょ、此処で。ね」【つづく】

2007.03.03

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　032

【つづき】しかし善児に気骨と愛のあるところを見せつけられ、我と我が身を振り返ってしまった俺は又しても虚無を目の当たりにしたのである。だって、振り返った己には気骨も愛も、何処を捜しても影も形も見当たらなかったのであれば我が旅路の前途を思い暗澹となるしかなかったのである。初の海外渡航を長期で企て、英会話は全然ダメという二点にのみ着目すれば俺と善児はどっちもどっちである。両者に優劣はない。敢えて言うなら劣劣であるから、共に劣と劣なら我と我が身を振り返ったとて前途を悲観したりはしない。しかしである。小浜善児なる若者はキケンであることを承知の上で敢えても地雷原へと踏み出せる勇気があり、未知のものを既知にすべく行動できる気概や気骨をも持ち、言葉が通じない異国のおばちゃんに愛を以って接することさえ出来ると言うのに、一方、俺と来たら渡航先でメシを喰うだけで猜疑心の虜となり、地雷原はおろか自分の家の前にだって容易には出ようとしないそんな俺が屋台で注文したものと言えば相当に無難な線を狙ったフライドチキン様の料理であり、はたしてそれは確かに可もなく不可もない味であり、俺は咽返ることも涙目になることもなかったが、それがどうだと言うのか。善児をみてみろ。奴は旅先にてわざわざもおぞましげなる逸品を注文し、それは間違いなく現代の日本じゃお目にかかれない料理であれば、様様な困苦を乗り越え奴は果敢にもそれを食べ尽くさんとし、その上に奴はその料理を作った者への気遣いをしたり感謝したりさえ出来るのだ。まもなくして印度へ渡る善児は、旅慣れてもおらず英会話もさっぱりであるからおそらくは当地でも多くの難関に立ち向かう羽目になるのであろうが、彼はその難関のすべてに気骨と愛を以って果敢に立ち向かい、それを乗り越えることが出来るであろう。であれば、気骨も愛もない俺はこれ以後一体どうなるのか。無難とか回避とかの選択肢がない場合、俺は未知の困難にただ押し潰されるしかないのではないのか。それはいやだ。俺も気骨と愛が欲しい。灰色の料理を口にする勇気が欲しい。吐いても咽ても涙目になっても愛を忘れないでいたい。闇雲であろうと無計画であろうと困難が待ち受けていようと突き進んでいける強い心が欲しい。そうは思えども思っただけで手に入るなら誰も苦労はしないし、好き好んで辛酸を舐めたりはしないのである。　　　　　嗚呼、俺は辛酸を舐めるのか。そんな漠としながらも悲観的想像を惹起せしめる言葉を、つい思いついてしまい、俺はすっかり怯え、震え、びびり、又しても『帰国』という選択肢が頭を擡げたのである。　　　　　　　　　ああ、堂々巡り【つづく】

2007.03.02

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　031

【つづき】しばし苦悶する善児の背中などを摩る縞雄であるが、彼にして目が少し笑ったりしているところを見るにやっぱり少なからず面白がっているのであり、屋台のおばちゃんが止めとけなんて言うものを強行に、これを摂取に及んだ挙句、一口目にてむせ返るなんざ完全にギャグであり、コメディであり、コントさながらなんでであり、善児がその苦相を深くすればするほど俺と善児は苦笑を深くしてしまうのであった。俺など本当は馬鹿笑いしたかったのであるが、さすがに昨日知り合ったばかりで、なおかつどちらかと言えば状況的にも助けていただいた方に対して馬鹿笑いで返すなんざまさに恩を仇で返すようなものであるから俺はここは、ぐっと、ぐぐっと、ぐぐぐっと堪え、口をなるべく閉じ、目だけで笑うに留めたのである。だが、善児は単なるコメディアンではなかった。口元を拭い、目を瞬かせながら席に戻った善児は、そこから驚嘆すべきその真価を発揮したのである。彼は介抱してくれた縞雄に礼を述べると、やおら灰色の塊料理へと向き直り、それを再び手元へと引き寄せると食べ始めたのである。俺も縞雄も驚いたのである。だって、一口食べて吐き戻した得体の知れぬ料理に善児が再度臨む筈はないと断じていたのであるから当然である。「だ、大丈夫？」と俺と縞雄。「はい。大丈夫ですよ。はい。確かに俺には辛すぎ　るし、あの、少々不味いって言えなくもないンで　すが、でも、俺、出された食事を残すって出来な　いンです。全部食べないと屋台のおばちゃんに悪　いし。はい。だから最後まで食べます」「あ、そう…なの」と俺と縞雄。「頑張って、とし　か言えないけど…」善児は途中、二度ほど軽く咽たりはしたものの公言通りに灰色料理をすべて平らげ、辛すぎた故なのかすっかり半泣きになったその顔で屋台のおばちゃんを仰ぎ見たのである。どう？全部食べたよ。おばちゃんの料理、おいしかったよ。おばちゃん、ありがとうね。目でそのように語る善児はすこし誇らしげすらあり、俺はすっかり彼を見直してしまったのである。ただのバカじゃなかったんだ。うん。なかなかどうして気骨と愛のある男ではないか、と。【つづく】

2007.03.01

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　030

【つづき】俺と縞雄はそれぞれ無難な感じの、鶏肉料理なんかを選んでご飯と一緒に皿に盛ってもらい、我々三名はそれぞれ屋台脇のテーブルへと付いたのである。椅子もテーブルもすっかりへたっちゃって、廃品回収だって引き取ってくれないようなしろもんだが、んなぁこたぁどうでもいいのであって、俺が注目しているのは、ただ一点。善児、強行注文の顛末は如何に。それだけが気掛かりで、興味津々で、怖いもの見たさで、早く喰ってしまってくれ。頼む。早く喰え。喰いまくれぇぇぇぇぇぇと善児が料理を口にする前から興奮してしまい、はっ、と我に返って何気なさを取り繕い、縞雄相手に「このチキン、なかなかイケルよ。ね、うまいよね」なんか言いながら横目で事の次第を見守ったのである。灰色の塊をひとつ、箸で刺し貫きて持ち上げざまに二度三度と鼻を動かせば、如何なる匂いであったか臭いなのか判じるよりも早く口に入れたるは天晴れニッポン男児の鏡ますらお善児であったが、はたして彼は轟沈したのであった。口に入れた次の瞬間に「ヴェェェ、げほっげほっ」とか善児はやりだし、口を覆った両手の中に灰色の物体を吐き出し、そして噎せ返り、次には目を白黒させ、俺は寡聞にして知らないのだが毒でも盛られると人はきっとこのような生理的反応をするのであろうかと言う見本のようですらあった。俺は予想以上の展開に三秒ほど呆気にとられていた。何が起こったのかすぐには判ぜず、立ち上がって善児の隣へと駆け寄った縞雄の姿を目撃するに我に戻り、「だ、だ、大丈夫か。善児くん、大丈夫。やっぱり不味かったの？」などと面白がって訊いたりしたのである。「いやぁ、あのぉ、げほっげほっ、不味いって言　うか、ごほっ、あの、辛いんです、結構、げほ」面白がったのはほんの束の間で、善児のその言葉を聞いて俺は完全に迷妄の虜となる。　　　　　　　灰色で辛い？そんな食べ物、俺はこれまで見聞したことがないぞ、おいっ。なんだよそれ。「なんなのこれ？肉？魚？」「えぇぇぇと、魚です。否、さ、さかな…かな。え　え、多分、魚です。ん。鶏？否、魚です…ね。ん。　そうです。間違いないと思います。俺、こう見え　ても看護師ですから。はい」看護師とこれと何の関係があるのか俺には分らなかったが、善児がそう言うからには何か根拠あってのことなのだろうと軽く取り扱う俺であった。【つづく】

2007.02.27

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　029

【つづき】ステンレスの大きな容器にそれぞれ分けられた料理は全部で十二。そのほとんどが素材感不明の上になんとも脂ぎり、どうにも雑多な感じで、東南亜細亜な風情漂い、一見の派手さはないものの、とたいへん長い説明で読んでいる方には申し訳ない限りであるが、兎も角どれもこれも主張の強そうな連中である。うむむむむむなどと独り唸ってみたが、閃くものは皆無。美味そうとか、不味そうとかの印象に結びつかず、我が脳内に仕込まれた料理データベースに各料理を照会するも回答は何一つ得られず、ま、かろうじて魚類と判るものもあるにはあったが、その魚の種類がアジ系なのかタイ系なのか、はたまたマス系なのかもさっぱり判別できないし、その使用調味料も不知の物らしく色や艶から味を想像することすら叶わなかったのである。此処に進退窮まった俺は又も苦悶。見れば縞雄も善児も一様に浮かない面で料理を覗き込めば俺と同様、躊躇があるのは明白であった。しかし善児は、屋台屋台と率先して騒いだ手前もあるのか及び腰な姿勢はみせず、居並ぶ強面の中でも最もごつい奴を指差して屋台のおばちゃんに決然と言い放ったのである。「これ頂戴、これ。こ、れ、ね。わかる？」他国の言語を一切知らぬ善児にして日本語でのオーダーであるから、タイ人と思しき屋台のおばちゃんがそれを解したか否かは不明であるが、見ればおばちゃん、笑いながら首を横にしきりと振るのである。そう。まるで　やめとけ、やめとけ。悪いこと言わないから　やめときなさい。あんたにゃ食えないよ。と言ってるかのように俺には見えたし、実際にそのように「やめとけって言ってるみたいよ」と善児にも進言仕ったのであるが、彼、善児ははたして日本男児であった。ＤＪオズマじゃないが、ますらおであった。つまり前言撤回などそう安易にはしないのである。一度口に出した言葉は魂を持つ故を解しているかの如き天晴れな齢25歳の若者であったのである。そんな気骨ある男の中の男である善児の姿に、俺は頭が下がりそうになったりはせず、少々呆れてしまったのである。馬鹿か。とも思ったのである。だって、善児が強行指名した一品ときたら、肉か魚か野菜かも判らぬ得体知れぬ灰色の物体にこれまた正体不明の黒っぽい汁と油がまみれているばかりなのであるから。俺はこれまでの二十九年間の人生において斯様に不細工な料理を、ちらりとでも見たことがないばかりか、何をどうやったら食品が灰色と加工できるのかも想像不能であり、ましてや売る側が止めとけ止めとけと言うものを強行注文するなんざ、やっぱり少々頭が弱いのかしら、このお若いの。なんて思ってしまったわけである。【つづく】

2007.02.27

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　028

【つづき】誰も何処の屋台に行きたいだの何を食べてみたいなどの積極的要望は出なかったので三名は行き当たりばったりに、「こちらから美味い匂いがする。/善児談」だの「こういう路地入ったところに美味い屋台があったりするんですよねぇ。/縞雄談」だのテキトーなことを言い合いながら進んだわけだが、言い合うのは主に縞雄と善児であり、俺は発言すべき材料もテーマも気概も何一つ持っていないので黙して聞くばかりであった。こんなことなら、その、旅のガイド本とやらを持参すべきだったのだろうかと、二人の手元を見やれば、やはりそこには【地球の歩き方】などという随分と大仰なタイトルを頂いたガイド本をそれぞれしっかりと携えている。「俺のは93年度版です。/善児談」「え、最新版持ってきたンだ。いいなぁ。僕のなんて90年度版だから情報旧いんだよねぇ。やっぱ買い換えようかなぁ。/縞雄談」などと嬉々として言い合う二人を横目に見ながら俺は開き直るより他なかったのである。　何が地球の歩き方じゃ、ぼけぇ。本になんぞ教　えてもらわんでも俺はもう既にこうして地球を　歩いてるわい。ざまぁみさらせ、ぼけぇ。俺は　そげな本など、よう見んとです。関西と広島と鹿児島弁が適宜混ざった調子でそう呟いたのが聞こえたのか縞雄が俺を振り返った。「仁科さん、仁科さんも買ったらいいじゃないで　すか、地球の歩き方。ね、買ったほうがいいで　すよ。どこ行くにしても絶対持ってたほうがい　いですよ。ほんと。ね、そうしませんか」って言うがね、縞雄君。知ってる事とは思うが此処は日本じゃないのだよ。此処はタイランドなんだからね。勘違いしてもらっちゃ困るんだな、これが。タイで売ってるのはタイ語の書かれた本なのではないのかな。そうだろ。もしくは空港でもそうだったように英語版ならあるのかも知れないが、ハローとサンキューしか知らない奴が英文なんぞ読み解けるわけがなく、ってことは縞雄君、きみは、そんな私をよもや愚弄しようってわけじゃないだろうね。いくら温厚な私といえどもあまりな仕打ちには断固抗議させてもらうよ。いいね。「買ったほうがいいって言われてもね。此処、タ　イランドだからさ、ね、そうでしょう。まさか　一度日本へ戻って地球の歩き方買ってから戻っ　てくるわけにもいかないしさ、ね、俺、二十万　しか持ってないからさ」と少々不機嫌な風を装って俺はそう言い返したのであるが、またも縞雄は？って顔をするのである。見れば善児まで？の顔をしている。何故だ。俺がまたしても何か変なことを言ったとでも言うのか。畜生めっ。こいつらどこまで人を愚弄するつもりだ。いい加減にしないとこっちにも、と思った時縞雄が言うのである。「朝飯食ったら一緒に買いに行きましょうよ。新しいのがあったら僕も買い換えたいし、ね、そうしましょう」うむむむむ、まだ言うか。この野郎ぉ、と歯噛みしてると善児も続くのである。「あ、俺も一緒に行きます。日本語の本、売ってる店とか知っておきたいし。縞雄さん、知ってるんですよね」にこやかに頷き返す縞雄。えっ。そうなの。日本の本がタイランドで売ってるの。へ～。そうなんだ。へ～。そうならそうと最初から言ってくれればいいのに。縞雄も善児も人が悪いンだから。ははは。まいったなぁ。いやぁ参った参った。あははははは。じゃ、俺も一冊買っておこうかな。あははははは。などと照れ笑いしていると路地の一角が広く開いた空間が眼前にあらわれ、二件の屋台がそこに在ったのである。どちらにも俺の見たことのない、つまり得体の知れぬ料理がずらりと並んでいて、もう渡航してから幾度目か数えられぬが俺は固い唾を飲み込み、それとなく額の脂汗など拭ったのである。【つづく】

2007.02.26

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　027

【つづき】このように記述に及ぶと随分と長いが、実際の排泄に至るまでの時間も長かったようで、部屋へ戻ると縞雄も善児もすっかり目を覚ましていた。「もしかして、朝飯、食っちゃいました？」「いや。喰ってないよ。あの…べ…いや、あの、　うん、まだ喰ってないよ」縞雄に今朝の行動を尋ねられて、便所の一件を言うべきか否か逡巡したのだが、便座なし便器の存在をまだ頭の中で合理的に処理できないでいた俺は口に出すのを躊躇った。どこから話を起こしていいものか、笑い話なのか、はたまた苦労話に仕立てるべきなのか、それとも粛々と質疑応答に徹するべきなのかまったく判らなかったのである。「じゃ、散歩にでも行ってきたんですか？」「いや。あの、べ…うん…行ってないよ」「べ…あ、便所に行ってたんですか。あ、そう　ですか。混んでました？」「いや。混んでないよ」「じゃ、僕も行ってこようっと。漏れちゃう漏　れちゃう漏れちゃうよ～」などと軽佻浮薄な調子で言いながら縞雄はステップも軽やかに部屋を出て行き、善児も後に続いたのである。適宜時間が経過する間、俺は思った。あの二名、海外渡航初日にして随分と浮かれた心持でいるようだが、便座なし便器を前にして浮かれてばかりはいられまいて。ふふ。馬鹿が。二人がどんな悲痛な面立ちで戻ってくるか楽しみだわい。適宜時間経過の後、二人がそれぞれ戻ってきた。だが、どうだ。その顔のどこを探しても悲痛さもなければ苦悩も混乱も逡巡もないのである。共に何食わぬ顔で荷物の整理など始めるから俺のほうが混乱し、思わずして妙な台詞が口を衝いて出てしまう。「べ、べん、べんじょ、便所どうだった？」便所、どうだった。と訊かれて縞雄も善児も？みたいな顔で、振り返るだけだし、俺は俺で二の句が繋がらずに、やっぱり？みたいな顔で二人を交互に見詰めたりしても全然要領を得ずに、なにやら救いのない空気が三名の間に流れた始めたのであるが、善児がせめても「さあ、朝飯を食いに屋台に行きましょうよ。屋台屋台。さあ屋台だぞ」なんて無闇に明るく元気よく言ってくれたので場面は無事に展開する。しかし長い。長い長い話になりそうである。だってタイランド到着からまだ十二時間も経っていないのに掲載更新はすでに27回を数えているのである。回毎に長短はあるが、一回800字平均として此処まで20000字あまり。原稿用紙にして五十枚を下らないのである。話をまとめる能力に欠けているのかも知れない。いや。きっとそうだ。そうに違いない。カウンターを三桁としたのは見積もり違いだった気が今している。【つづく】

2007.02.25

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　026

【つづき】我ながら排泄衝動の一件がこんなに長い回想になるものとは思わず、気がついてみれば三日ぶりの本編復帰であるが話はバンコックの安宿の、その便座なし便器からである。つまりは、中学生時分の斯くも辛く切なく屈辱的体験があればこそ俺は差し迫った便意を、その差し迫り度以上に差し迫ったものと捉える傾向があり、もう二度と再び、あの過ちを繰り返すまいと心に固く誓っているところがあり、ぐずぐずしている暇などは俺にはないのだ。さあ、便座なし便器を用いる方策をなんとしても編み出すのだ。おまえなら出来る筈だ。恥辱にまみれた十六年前を思い出せと自分で自分をインスパイアーし、俺は安宿の共用便所の一室で独り便座なし野郎と対峙したのである。でも、やっぱり分らなかった。何度見返しても使用方法は不明だった。正面ばかりではなく、横から見たり上から覗き込んだりとほうぼう手を尽くしてみるも分らないものは分らないのである。はたして他の施設利用者は如何にしてこやつで用を足しているのか？そうして悩み続けている間にも便意は次第と膨らみ、脂汗など額に浮かぶに至っては、矢張り俺は十六年前の呪縛に雁字搦めと生きるより他ないのかと諦観にも似た妙な覚悟などをしたりもするが、ええい、儘よ。とばかりに俺は勢い便器の縁に靴のまま上がってみたのである。つまり、便器の上に立った。高かった。あまりに高く、隣の個室が覗けそうで、誰ぞに見られたら「キャー、変態よ、出歯亀よ、盗撮よ。誰か来てー、早くー、キャー」と叫ばれるかもと不安を抱いた俺はそのまま背を屈めてみる。中腰のような格好だが、尻の位置など振り返ってみるに便器内へ落下物がちゃんと入るであろうとことを確認し、そうか、なんだ単純なことじゃないか。和式便所の如く使えば良いのであると俺は独り呟き納得し、再び立位。ズボンをずり下ろし、俺は改めてしゃがみ込んでみたのである。うん。大丈夫そうだ。否、待てよ。もしかしたら排泄物が便器の縁なんかに乗っかっちゃうかもな。うん。それはまずいよなぁ。まだしもうまく乗っかりゃあいいが、万が一にでも便器を外れて床の上にでも落下したりすると大変始末が悪いよなぁ。うん、悪い悪い。じゃ、も少し前で。待てよ。まだ発射すんなよ。まだ位置決まってないからな。おっと、これじゃ落ちそうだ。もう五ミリ後退。とかなんとか小刻みなアジャストを経たのち無事に排泄。みごとな機転と創意工夫で便座なし便器を攻略制圧し本願成就と相成ったのである。で、俺が安堵したり、何某かの達成感や充足感なんかを得たかと言えばこれが全く以ってそんなことはなく、初日の朝からこの体たらくでは向後の旅程においては一体どれほど困難で難儀な排泄事情が待ち受けているのかと不安と焦燥で俺の心はすっかりしょんぼりとなったのである。【つづく】

2007.02.22

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　025

【つづき】うごっ、ぎょげっぃあがも、ぢょ、ぢょぢょぢょ、ぢょっ。辺りにはそのような音声が響いた。最期の直線の左手に自宅があり、右手には大きなトウモロシ畑が広がっていた。静寂の風景だった。眼前に広がるのは見慣れた近所の景色。それら全てが視界の中をゆっくりと流れていった。俺の尻から太腿にかけては何か熱いものがゆっくりと流れていった。否。流れているのではない。ほとばしっているのだ。もう俺はペダルを漕がない。うごっ、ぎょげっぃあがも、ぢょ、ぢょぢょぢょ、ぢょっ、ぢょっ、ぢょっ。断続音が再び響き、中坊の俺はブレーキレバーを握りしめ、なかなか走ることをやめようとしない宮田くんの自転車を畑の横で止めたのである。そしてゆるゆると自転車を降りた俺は独りトウモロコシ畑の中へと分け入ったのである。おりしも候は早秋。トウモロコシは健やかに成長していて、チビの中坊を一人隠すぐらい雑作もないことだった。二十メートルばかりも踏み入りつつ俺はがに股気味にしか歩けないことに気が付いた。尻も太腿もふくらはぎも全部気持ち悪いのである。見れば股から下、ズボンの色はすっかり濡れ色で、やはり昼までにカップ・アイス五個にソフトクリーム二本、ジュース類七本を平らげ、昼食にチキン唐揚げ八個、卵焼を相当量、ウインナーソーセージ、サラダ、チーズの包み上げ、おにぎり（大）五個は、いくら食べ盛りの中坊と言えども摂取過多であったのを確認したのである。トウモロコシ畑にしゃがみ、濡れてすっかり重くなったズボンをずり下げると、虚しさの香りがあたりにたちこめた。それは風が吹こうと、雨が降ろうと霧散も霧消もせずに、いつまでも、いつまでも辺りに滞留し、その後も俺を随分と苦しめ続けた。苦しめたと言えば、母親も同様だった。帰宅後に然るべくして斯くなる暴発事件を知ることとなった俺の母は、以後もことあるごとに件をネタに俺を責め立てた。俺が少々反抗的な言動や強い自己主張をすると必ずや言うのである。「なにさ、偉そうに。中学生にもなってから運庫　もらしたくせにっ」母はその台詞を俺が二十歳になるまで言い続けた。【つづく】

2007.02.21

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　024

【つづき】歩行すら怪しく、もはや大股で歩くことは叶わない。どこか草むらに飛び込み、事に及ぼうにも大運動会の人波はグラウンド内外のあちらこちらに衆目があるからおいそれとは行かない。自宅へと戻るのが最善策であるのは間違いないのだが、なにせ自宅までは歩いて六分間は要し、小学校からなら三本の二百メートル直線と、二つの角を曲がらなくてはならず、ましてや大股歩行や早歩きが不可能な現状では五割増で所要時間を見積もっておく必要すらああるわけで、九分間ものあいだ強烈な排泄衝動を制することなど到底不可能なことに思われた。生きるとは絶望の連続なのか。中学で人生の落伍者と成り果てるのか。嫌だ。俺は嫌だ。こんなところで汚物にまみれたりするのは我慢ならん。だから我慢する。でも我慢ももう限界かも。いや、それはならん。何がなんでも我慢するのだ。我慢だ我慢あるのみだ。な。されば道は拓かれる。筈。どうかなぁ。ホントに拓いたらいいよなぁ。いや、きっと拓かれるさ。そうさ。そうなんだ。そうな…筈…そのようにして独り迷妄のきわみ、大変困窮しているところへ同級生の宮田くんが婦人用自転車に乗って現れたから、中坊の俺には宮田君が福音を導く天使の如く見えたのである。道はやはり拓かれたのだ。「宮田くん、ちょ、ちょっとちょっと自転車貸し　てくれないか？いい？いいかな？いいよね。　ありがと。すぐ返すから。うん、ちょっと家ま　で。うん、ちょっと忘れ物しちゃってさ。え？　何を忘れたのかって？うん、まあ、あの、え～　と、そう、ちょっとね。大丈夫。すぐ戻ってく　るから。うん。じゃあね。あとでね」そのように有無を言わさず宮田君から自転車を借り上げた中坊の俺は括約筋のテンションに細心の注意をはらいつつゆるゆると漕ぎ出してからちょっとばかり悔悟する。『運動会の最中、それも午後の部に入っての忘れ物って、やっぱりちょっと不自然な言い訳だったかな。だったな。うん。でも、過ぎたことを改悟している余裕なんか、今の俺にあるわけがないだろっ！畜生め』と途中から急に語気が荒くなったのには訳があって、差し迫った大波が突如襲来したからなのである。つまり、かなりやばい状態が訪れ、自転車の上、俺は身悶えた。最初の二百メートルを行き、ひとつ目の角に差し掛かった時だった。　　　　うごっ、ぎょげっぃあがも、ぢょ、みたいな音にならない声が漏れ、ペダルをこぐ足に、もう力は入らない。もう駄目だ、と中坊の俺は思ったが、そこはやっぱり誇り高く志高く自意識の塊の中坊であるから、そう容易くは汚辱にまみれたりは出来ないのである。俺は最後の気力を振り絞って最期の賭けに出た。最初の角で宮田くんの自転車を乗り捨て、視界に入った見ず知らずの人の屋敷へと乗り込んだのである。乗り込んだ、などと言うと勇ましい感じがするが無論この時の俺に勇ましさなどある筈がなく、実はひたすら小股である。まるで股の間に何かが挟まってでもいるかのようにしか歩けず、知らない人が見たら病み上がりの爺さまにでも見えたに違いないだろうが、もはやどう見えるかなど構ってはいられない。便器の上まで辿り着くことこそが最重要課題なのであり、その前段階として玄関前までどうにか辿り着くことに成功した小股の俺は全身を脂汗に垂らしつつ声を気力をふりしぼり玄関チャイムを押したのである。ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンと。「すいま…せん。す…い…ませ、ん、がっトイレ　を、トイレを貸してくださ…さ、くだ、さい。　お、お、お、お、おね、おね、おねが、お願い　しますぅぅぅうごっ、ぎょげっぃあがも、ぢょ」よく憶えていないのであるが、この時、中坊の俺は、見ず知らず人の屋敷入口にて玄関扉に縋りつきつきチャイムを三十回以上も鳴らした筈であるが応答は皆無であり、俺は今にも崩れ落ちそうな心身をどうにかこうにか支えているような状態でありながら、穿ったことに当家住人の居留守などを詮議詮索し、又も小股にてへにょへにょと進みては庭内へと侵入すると、脂汗にまみれたその顔をテラスの窓ガラスに、ぐいっ、と押し付けて、見ず知らずの人の屋敷を、その屋内をじろじろと伺ったのである。まるで変質者である。顔はガラスに貼りついているから視線だけを動かして室内の様子、気配、活動の痕跡などから総合的に査証考察し、多角的分析を試みたわけだが、何時間も前から住民が留守であることが明らかになっただけだった。それに玄関のドアもテラスもすべてしっかりと施錠されていて便所の無断借用という最期の最後の選択肢も潰されていた。畜生。やっぱり変質者みたいである。また一つ、希望の光が…。などと弱音を吐きかけたその時、急に下腹部の締め付けが弱くなるのを中坊の俺は自覚する。希望の光が灯ったのである。再点灯である。よっしゃ、これなら行ける、大丈夫だ、とばかりに再び宮田くんの自転車に跨った俺は、二本目の直線二百メートルを疾走し、ほどなく二つ目の角を曲がり切り、遂に最期の直線となってその視界に自宅を捉えたのである。よし。よし。よし。俺の、俺の、おれの勝ちだあああああっ。と心の中で勝鬨の声をあげ、膝を叩いて喜んだその刹那。それは、中坊の俺の気持ちが、ゆるくなった瞬間だった。【つづく】

2007.02.20

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　023

【つづき】便座なし便器で行くしかない。いやさ、やるしかない。猶予はまもなくして切れるのだから俺は断を下さねばならなかった。選択肢ならば他にも道はある。例えば当ゲストハウスの外に便所を求める。通りに居並ぶ宿や飲食店なんかに駆け込み「スイマセンねー、いやぁホント申し訳ない。ちょっと便所、お借りしますよ。借りるって、使わせてもらうって事ですよ。使用後に『おまえに貸したのは便所だけだ。水と紙は貸すなんて言ってないぞ。水と紙は返せよ』とか変な難癖つけないで下さいよ。そっちが難癖つけンならこっちは雲庫つけちゃうぞ。ハハハ。なんてね」みたいな軽口を叩けるものなら叩いてみたいのは山山だ。が、しかし、俺の下腹部から臀部周辺に懸けてしきりに起こる蠕動にも似た痺れ感、又は疼痛感、又は排泄衝動、又は諦めをそそのかす悪魔の声、又は―――いや、もう止めておこう。とにかくも悠長なる便所探しなど今となっては詮無きこと、儚き夢である。排泄衝動を力尽くで制することなど誰にも出来ぬのだ。制したとしてもそれは束の間のことであり、ほどなくも最悪の事態と見舞われ、その刹那、誰もが後悔するのである。嗚呼。私はなんと愚かだったのか。生きとし生ける物の生理とは、さても力強く、深きものであるのかを知ることとなるのである。と言うのも溯ること十六年前。俺は中学の一年生だった。おりしも小学校は秋の大運動会当日。小学生に弟を持つ俺は祖父祖母両親と共に応援ツアーを敢行したのである。日和よろしく小学校のグラウンドには各種露店などが立ち並び、さながら縁日の活況であるから中坊には堪らない。そこへもってきて祖父祖母から強力なスポンサードを得られるのだから中坊の俺はまさに食い放題に食べ放題。もちろん飲み放題だってＯＫじゃん。アイス喰らわば容器まで、とかなんとか言いながら中坊の俺は悪鬼食鬼の如きありさまと成り果てて、もはや大運動会の応援に来たのか飽食の限りを尽くしに来たのか不明瞭なるまま昼食タイムを迎えるに至っては貪婪の権化へと更なる進化を遂げ、肥大化した欲望心は留まるところを知らずして中坊の俺は飽食の頂を目指し一気に駆け上ったのである。で、午後の部が始まって間もなく中坊の俺は異変に気付いたのである。腹が痛い…みたい。ってことは、つまり便所へＧＯ？英語で言うと、I have to go W.C. ?まずいなあ。非常にまずいであるよなぁ。なんでかって、保護者および家族用に開放されてる小学校の便所前では同級生の女子数名が屯したぐらいにして、便所を使用する者たちへ監視の目を光らせていたからであり、つまり中坊の俺が今そこで排便を強行することになれば同級の女子数名は、大運動会開催中の俺の排便行為を在ること無いこと交えつつ面白おかしい滑稽譚に仕立て、あくる日の中学校内はその話でもちきりとなり、誇り高く志高く自意識の塊みたいな中坊の俺は傷つけられ、汚辱に塗れ、以後半年間は再浮上不可能、みたいな状況下におかれるのは明らかであるからだ。さてどうしたものかと考えている間にも排泄衝動は断続的に起こり、ましてやその間隔が次第次第に短くなる。額と言わず首筋と言わず冷や汗が落ちはじめ、まだあどけなさを残している筈の中坊の面立ちは『あの女子数名さえ居なければ』と言うやり場のない憤りと、下腹部にある苦悶によって強張り歪み切っているのは鏡を覗き込むまでもなく自覚できたのである。【つづく】

2007.02.19

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　022

【づづき】はたして、おかしな便器には便座がなかったのである。デッサンが狂ってるわけでも位置や向きが変なわけでもない。ただひたすらに便座が、あのＵの字の形で、尻をのせる為だけに在るあれが見当たらなかった。。え？便座がない？何処にもない…よね。うん。ないなあ。うんうん。ないわ。じゃあ…これは、和式…便器？否。誰がどう見ても西洋式便器であり、ストロング・スタイルとも言うべき型式であり、資本主義圏に深く根付いている所謂ところの洋式便所の定番中の定番便器である。じゃあ、やっぱり便座がないンだよね。そうだよね。でも、便座がない便器ってどうやって座るわけ？どうすンの？どうやって排泄行為に及べばいいの？俺は今、猛烈に運鈷がしたいのになっ。であるから俺は便座もない便器には直ちに見切りをつけ、直ちに隣の便所へと移動し、直ちに事に及ぼうとしたのであるが、又しても愕然となる。隣の便器にも便座がなかったのである。我が目を疑いつつ俺は残されたもう一つの便所へと身を翻し、翻しながら思った。まさかな。まさか三つ目も便座なしってことはないよな、いくらなんでも。ないよな。ないよ。あれ。ホントにない…。ここにも便座がない…。ってことは、つまり、この下腹部を締め付けるが如き疼痛にも似た排泄衝動を昇天へと導いてやることも叶わず、バンコックはカオサンロードの安宿にて討死にせねばならないのか、それはあまりに理不尽なぁぁぁと諦めかけた時、閃いた。あ、ここは三階だったよな。ってことは二階にも同じ共同便所がある筈で、それに気がついた俺は自分で自分を誉めつつも排泄衝動は今や差し迫り、迅速なる動作で以って階下へと駆け下りる。はたして二階フロアには三つの便所が横一列と並び、俺はそのうちの一つに飛び込んだのであった。え？便座がない？じゃあ…俺は討死に…ってこと？そうなのである。そこにも便座なしの便器があったわけであり、隣も、その隣も、つまるところ便所全滅であり、もはや抜き差しならざる処へと足を踏み入れていた俺は独り苦悶した。悶絶しそうだった。時間があまりないことは薄々気付いていた。つまり、俺には便座なし便器で用を足す以外に方法はなかったのである。【つづく】

2007.02.18

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　021

【つづき】部屋やマットレスはどんなに無惨でも一応はダブルだからベッドは二つ。それが俺と善児に割り当てられ、縞雄はベッドとベッドの間、床にマットレスを敷いてそこに寝る。二人とも直ちに寝息など立て始め、俺は結構呆気にとられたりする。だってこのような劣悪な環境下にてすんなりと眠りに入れるなんざ、奴らは一体どのような神経をしているのか。がさつである。神経が太すぎる。善児だって俺同様、初の海外渡航なのになんちゅう図太さか。彼をして神経の直径は二センチを下らない筈である。まったくもって許せん、とか思ったわけであるが、正直、羨ましかったのである。一方の俺はというと全然眠られないのであるから。まずもって極小の蟲が這い回るマットレスの上で如何にすれば眠られると言うのだろうか。それに、ぬらぬらもある。然るに寝返りは無論のこと、顔を横に倒すことすら叶わないのである。マットレスが臭いそうだから鼻から息をすることだって憚られるし、壁の上の開口部からは隣近所のひそひそ声やら歯軋りやら漏れ聞こえてくるし、さすがに交歓系の音声がないのは救いというか、残念と言うか、どちらにせよこのような緊張下で何を聞かされても素直に悦べる筈も面白がれる筈もなく、いつまで経っても一向眠られないのだ。やばいな…。昼まで眠るのを心配してる場合じゃないな。これじゃ昼になっても眠れていないかも。やばいよな。旅の計は初日にあるのに…。のっけから徹夜かよ。それも徹夜したくて徹夜になったわけじゃなくて徹夜したくないのに結果的に徹夜になってしまった、みたいな徹夜は心身共に善くないよ。うん。善くないね。ダメだね。最悪。ど壺に嵌るパターンだな。ほら、首のうしろの辺り、なんかもぞもぞしてないか。気のせいか。いや、やっぱりもぞもぞして…ないな。気のせいだな。嗚呼ダメだダメだダメだ。全然寝れないって。糞。糞。糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞…。と糞を百と三十二回連呼したあたりで意図せぬ『羊かぞえ効果』が現れ、俺は無事眠りに落ちたようだった。で、糞がしたくて目が覚めた。午前の八時半だ。睡眠時間三時間少々。決して充分ではないだろうが、頭と身体が機能する最低限ではある。その証拠に俺は糞がしたかった、ってそれが証拠になるのかどうかよくわからないのだが、そのあたりの考えている内容が自分でも定かではない感じが睡眠三時間の為せる業であり、何はともあれ俺は便所を探そうと部屋の外へとまろび出たのである。縞雄と善児はまだ寝てやがった。やっぱり図太い二人だ。直径二センチだ。羨ましい…。部屋は三階で、フロアには共同便所らしきドアが三つあって、そのうちの一つをおずおずと開けてみるに矢張り便所であったわけだが、一見すると何かがおかしい便所なのである。何が変なのか。デッサンが狂ってる？否。矢張りそれは便所のことであるからデッサンも糞もなく、便器の様式は西洋式であり、至極普遍的な形であるからして大量生産を以って作られた工業製品であり、そのような無粋なものにデッサンの狂いようなどはない。便器の位置、もしくは向きが変？否。けだしそれは正しい。便器もタンクも壁も正確に設置され、この共同便所を作成した大工さんの腕の確かさが確かめられるというものである。では何がおかしいのか。ほどなくして俺はそれに気付いたのである。【つづく】

2007.02.17

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　020

【つづき】縞「善児くんは印度に行くわけね。何処らあたり　　を回るつもりなの？」善「いや。何処って、あんまり決めてないんです。　　決めてもどうせその通りに行かないだろうし」縞「そうだね。そう思うよ。印度あたりで計画的な　　旅は難しいよね。困難だよね。もう少ししたら　　モンスーン始まるし」善「はい。そうですね。ところで仁科さんは何処に　　行くんですか。このままタイ？それともやっぱ　　印度ですか？」仁「え…俺？あ…俺だよね。うん。あの…何処って　　云うか、あの、イスタンブールまで…行こうか　　な、なんて思ってるンだけどね。うん」縞「えっ。イスタンブールってトルコの？いや、ト　　ルコにしかないですよね、イスタンブールは。　　そこにどうやって？タイから飛行機で？」仁「いや、あの、陸路で行こうかなって。ま、とり　　合えず印度入って、そこから陸路でイスタンブ　　ールへ、って思ってるんだけど、どう？難しい　　のかな？難しそうだよね。そうだよね」善「仁科さん…英会話ぜんぜんダメですよね。ま、　　俺もそうですけど。でもイスタンブールまで　　長いですよ。かなり。大丈夫ですか？」仁「アハハ。大丈夫かな？どうかな？大丈夫じゃな　　い気が俺もするンだけど、どうなんだろうね」縞「いやぁ、それは無謀ですよ。無茶ですよ。これ　　が初の海外旅行なんでしょ？初めてで、英語も　　ダメでは難しいでしょう、やっぱり。ところで、　　資金的には？旅費はいくら持ってきたんです？。仁「えっ旅費？あ、うん、二十万円」縞＋善「二十万円？」仁「うん二十万円。少ないかな？」縞「かな？じゃなくて少ないと思いますよ。全然、　　少ないと思いますよ、僕は、僕的には」善「俺は回ろうと思ってるの印度だけで、期間的に　　は三ヶ月くらいって考えているんですけど、そ　　れでも一応五十万円は持ってきましたよ。五十　　万は全然かからないだろうけど、やっぱり海外　　ですし、余裕ってもんがないと危ないじゃない　　ですか。ね。仁科さん。二十万円でイスタンブ　　ールは、あのぉ、どうなんですかね。キケンな　　んじゃないですか。途中で資金切れたらどうす　　るンですか。印度だってそうだけど、パキスタ　　ンや中近東なんかでカネなくなっても電話一本　　でどうにかなるもんでもないですよ。マジ、路　　頭に迷いますよ」縞「そうそう」仁「縞雄くんは、ちなみに幾ら持ってきたの？」縞「僕ですか？百万はありますよ。はい」仁「あ…そうなんだ。百万円…。そういうもンなん　　だね。ふ～ん」縞「仁科さん。悪いこと言わないからタイとか印度　　とか回るのは何処か一国にしておいたほうがい　　いンじゃないですか？ね。そうしたほうがいい　　ですよ。初めてで、英語ダメで、資金不足で、　　どう考えても無謀ですよ、仁科さんの話」善「ところで仁科さん、ガイドブックは何を持って　　きたんですか？地球の歩き方？ロンリープラネッ　　ト？それとも…」仁「え、え、え？ガイドブックって何の話？なんの　　ガイド？」縞＋善「ガイドブック持ってないンですか？」仁「え？だからぁ、何のガイド？もしかして、旅行　　のガイドブック？そういうジャンルの本あるわ　　け？」縞＋善「し、知らないンですか？う、嘘ですよね？」仁「はあ…知らない…かな」縞「じゃ、じゃ、じゃあ、あ、あ、あれですか。初の　　海外で、英語ダメで、資金不足で、その上にガイ　　ドブックの存在すら知らないで旅に出てきたって　　わけですか？そうですか？」仁「そ…そうだね。そういうことに、なるのかな、言　　ってしまうと。やっぱり。うん」善「仁科さんって、本はあまり読んだりしないほうで　　すか？」仁「し、失敬だな、きみは。僕はこう見えても読書家　　なんですよ。小説こそあまり読まないけどね、ノ　　ンフィクションは大好きだし、特に科学エッセイ　　なんかは好きで好きで堪らないね。うん。あ、そ　　うそう。だから小説ではＳＦが大好きだね。でも、　　あんましハードなのは読まないね。ハードってあ　　れだよ、所謂ハードＳＦ。科学知識バリバリで、　　道具立て異常に凝っちゃって、でも話おもしろく　　ないじゃん、みたいなやつ。ああいうのはダメだ　　ね。状況ＳＦみたなのは好き。道具立てはどうで　　もいいから話が大事だよね。ね。で、なんの話し　　てたんだっけ？今？」気が付けば縞雄も善児も浮かない顔で、視線を虚空に彷徨わせている。二人とも疲れているのだ。ならば話はこのへんで切り上げて、今夜はもう寝ようではないかと俺は提案したのである。とり合えず、寝る。今夜はそれが肝要であろうと。【つづく】

2007.02.16

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　019

【つづき】で、俺はマットレスに顔を近づけて、まじまじと凝視。やはりそこには直感的危惧にたがわず体長二ミリメートルほどの正体不詳な奴が数匹ばかり蠢いているし、虫の蠢く表面は無数の滲みに覆い尽くされていてその幾つかの滲みは何やらぬらぬらとしていて乾いていないのが明白であるからそれは前回使用者の体液かそれに類する何かの油脂か、何かのたんぱく質か、それを考えるだけで怖ろしくなる俺は、叶うものならこの場にて速やかなる卒倒などしてみたくなるのである。ふらっ、ばたん。と言う具合にやれるものならやってみたいのだが、やれない俺は然るにこの辛き現実といつまでも対峙し続けなければならなかった。「なんだか、すごいマットレスだね。見てよ、　これ、ほら、虫がいっぱいいる…」「う～ん…まぁ、こんなもんじゃないですか。　料金なりですよね、安宿って」言い含めるように俺に頷いて見せる縞雄。それに同意するかのように、もしくは自らにも言い聞かせているのか少々遅れて頷く善児。「しょうがないですよね。はい」などと二の句を継ぐが善児であるが、最後の『はい』が誰に言ってる『はい』なのかよくわからない。でもこの時の俺にそのような瑣末事に気に留める有余は皆無。深い溜息が思わずして出そうになるのを必死にも堪え、とことん堪え抜きて、それを二人に悟られまいと今度は言葉が出なくなった。ふらふらだった。既に午前三時を回り、これから宿を探すには、体力はともかく気力がまるで足りなかった。渡航先の人たちとの意思の疎通も叶わず、空港施設各職員は人をなめた真似をしつつも飄然としてくれるし、路線バスは錆の塊なのにカーチェイスをやらかし、浮浪者や徘徊者や物乞は都心の闇の、只中に大勢いてくれるし、泊まった宿はおぞましき惨状を露呈してくれるし、だから俺には潤いや光、希望なんかが一筋も見えなかった。見えなくなっていた。旅にまつわる一切が判らなくなりかけ、タイランド到着時の混乱に強制送還もやむなしとしたのは勿論半ば冗談であったが、ってことは半ばは本気であり、安宿の惨状を目の当たりにした此処に至っては早々の帰国も選択肢上位としておかなくてはなるまいと考え出す始末であった。とは言え初日にそれを決定するには時期尚早であると俺はしばしのあいだ寡黙なる男を演じるより他に術なしと断じ、虫が這うベッドに浅く、できるだけ浅く腰掛け、叶うものなら腰を掛けたくさえなかったのであるが、せまい部屋の中、ミッドナイトに渡航地へと到着した旅人らが、さあ何はともあれゆるりと致しましょう。一息いれませんか。という空気の中、部屋の中、俺だけが直立不動で話を聞くと言うのも、それはそれで大いに辛そうなことであるし、虫であれ体液系の滲みであれ別に死ぬわけじゃあるまいと腹をくくり、俺は同室者縞雄と善児のやりとりに耳を傾けたのである。【つづく】

2007.02.15

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　019

【つづき】何事もなかったように受付のおばはんが階下へと消え、縞雄と善児も部屋の中へ入ってしまうと後に残されたのは俺だけです。いや、俺ですだった。いや違う、俺だけだった。などと言い回しまでおかしげとなるほど激しくも動揺した俺であるが、部屋がどうであれ俺如きがどうであれ旅の夜はさらさらと更けゆくのであり、そうだ。俺は眠らなければならないのだ。眠らないと社会人不適格者として残りの人生を…そうは思えど、ただ強迫観念に背中を押されて諦観に至ると言うのも、これは面白くないし、だいたいが、そう容易に割り切ったり切り替えたりがパッパとシャッシャと出来るんなら誰も最初から苦労苦悩動揺躁鬱の症状なんかは発症しないわけで、今宵の選択肢は此処をおいて他にないものと腹など括り、いや、括りたいなぁ。括れたらいいのに。俺もいつかは括れるかなぁ。なんか思いながら自分に対して目の前の現状を誤魔化したりしながら、俺は部屋の中へ。しかし、である。部屋の内部の全貌が視界に映ろうとするその手前のところ。そこで俺はもう日本へ帰りたくなってしまった。これは尋常ではない。俺はそう思ったのである。汚辱と塵芥に塗れたが如き部屋だった。なかでも最初に俺の目に入ったのはベッド。パイプ組みの簡易寝床であり、そこに敷かれたマットレスが先んじて俺の視界へと映ったわけだが、そのマットレスがすごいのである。どうすごいのかと言うに、おそらくは大量の煙草の煙と汗と涎と涙に鼻水鼻糞耳糞に体液、それに各種分泌物に塗れた挙句、使用から十年以上が経過するも只の一度も洗浄したこともなければ、陽光の下で干したこともないのがほぼ間違いないと推察されるしろもんなのである。育ちのいい俺が、いや、それは嘘だが、このような惨状を呈するマットレスを目の当たりにしたのは生まれてこのかたこれが初めてだった。又も動揺。【つづく】

2007.02.14

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　018

【つづき】バンコックは午前三時になろうとしていた。時差のある日本なら午前五時。三月の晦日とは言え、故郷北海道はもう東の空が白み始めている頃合いであり、欧米人のあまりの多さに気圧される俺は、気圧されついでに今度は就寝への強迫観念に駆られ始めたのである。寝なきゃ。眠らなきゃ。このままじゃ昼まで眠る羽目になるじゃねえか。だめだダメだ駄目だ。渡航初日からそんなだらしのない生活は断固出来ない。何事もけじめってもんが大事なんだ。一年の計は元旦にあるわけだから旅の計もまた初日にあるべきで、なきゃいけないわけで、然るに初日早々昼まで眠りこけるなんて自堕落な真似をやらかした日にゃこの旅もどうせ碌な旅とはならない筈で、何処へ行っても眠りこけ、寝過ごし、遅刻し、食べ損ね、腹を空かし、又眠りこけ、寝過ごし…みたいな悪循環の旅路と成り果て、しょうがなくだらだらと過ごした結果、俺はボケボケした人間となり、毎日大麻５グラム、ハッシシ２グラムを吸引するだけの旅人に零落し、東京って波動が乱れているだよねぇ、とか呟きながら腐ったマグロの如きまなことなって帰国するも真っ当な人たちからは一向相手にされず、かたぎな仕事にも就けず、であれば余計に世間や社会に反駁することとなり、いきおいアウトサイダーを気取り、又しても大麻やハッシシを吸い吸いするばかりの正業にも就かず就けずに社会人不適格者として残りの人生を這いつくばるが如く生きていかなくてはならないのだ。嫌だ。俺は。そんな人生。そうだやっぱり寝よう。早いとこ宿を決めて就寝の床につこう。うんうん、と独り頷いたりしながら俺は、宿探しにああでもないこうでもない言ってる縞雄へ提言したのである。「何処でもいいよ。って、あの、なげやりに　言ってるんじゃなくて、そうだね、言うな　れば全てを受け入れるって事かな。うん、　そういう事。だってさ、ぐずぐずしてると　やがて朝だから。ね。だから何処でもいい　から決めちゃお。ね」と言うのも今晩はもう遅いし、流れ的に俺と縞雄と善児の三名で宿をシェア、出来ればダブルの部屋なんか見つけてそこを三名で借り上げ、さすれば宿代も安く済みますよ。ね。そうしませんか。との縞雄からのの提言がバスの中であったのであり、俺も善児も素直にその申し出を受け入れ、ここに至っているのである。そういう次第で、通りを入ってすぐの、かなり旧く、薄汚れた外観の、なんとかってゲストハウスに決定してもらい、チェックインその他の諸手続き一切を英会話が可能である縞雄に任せ、受付係とおぼしきタイ人のおばさんとの丁々発止のやりとりを経て見事希望通りのダブルの部屋を三名での奪取に成功、そのまま彼女の先導で狭く薄暗い階段を三階まで上がり、ハイ、ここよ。これがダブルだから。よろしくどうぞ。みたいな事を言う彼女が指差した部屋を見て俺は又も気圧された。三階フロアにまで欧米人が大挙していたわけではない。パーテーションで区切っただけの部屋がずらりと並び、まだしもパーテーションが天井から床まで完全に遮蔽しているならばさして気圧されもしない筈だが、並んだ部屋の全ての壁は天井まで届いてない。つまり、壁上部これ全て開口部であり、三階ワンフロアにある六つの部屋は言うなれば一つながりであり、筒抜けあり、運命共同体であり、人類皆兄弟であり、つまり鼻をかむ音や、欠伸やくしゃみ、屁、鼾、寝言、歯軋りなど音と言う音すべてが丸聞こえなのである、これじゃあ。間違いなく。こんなんじゃもし隣室がアベック。今様に言えばカップルで、なればやはり自然の営み、男と女には壁が天井まで届いてなかろうと音が筒抜けだろうと関係ない。肉欲の虜囚となった二人はいちゃいちゃとやり始めちゃって、いちゃいちゃだけで済むのならまだしも二人が共に欧米系なんかであれば、これは、もう洋物ＡＶさながらとなり、カミング！ワオ！だのグ～ドだのエクセレントだのと大声で呼び交わし交歓された日には二人の隣室の俺らが寝るどころではなくなるのは必定である。やばいことになったな…。俺は天井を見上げて、三十センチメートルはあろう隙間を見上げてそう呟いたのである。【つづく】

2007.02.13

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　017

【つづき】バスを降りたところにセブンイレブンなどが日本のものと寸分たがわぬ格好外観体裁であったりしたから俺は幾分弛緩したぐらいにして、渡航地に措ける第一夜にしてコンビニエンス・ストアを認めただけでほっと、しているようじゃ先が思いやられるし、実際我ながら明日からのことに思いを馳せては憔悴を覚えていたのである。だから取り立てて火急なる用件も用事もなかったが、俺は二人と連れ立ってセブンイレブンの店内にて旅の疲れを幾許かでも癒そうと一息ついてみたのである。ほっ。しかしながら望んだような効果は得られない。ほっ。あれ、おかしいな。こんな筈じゃないなと再試行してみるが、やはり効果らしい効果は現れない。落ち着くとか癒されるとか回復するとかは遅効性なのかと店内にてしばし時間稼ぎ。ただ時間稼ぎとは言ってもそこはタイランドのコンビニエンス・ストアの中の日本人観光客であるから一応物珍しげに「おー！何これ」「あははは。カップヌードルもタイではこう　なっちゃうわけだ」「あっ！爪切り売ってる。買っとこ」などの感嘆の声など上げつつあれこれと商品を手にとってみるのだが、待てど暮らせどと言うほど時間は経たないものの、やはり俺には復調の兆したるものがなんら確認できなかった。だがそれも其の筈である。この早朝の真夜中の、あと一時も経つに曙色とバンコックの空が染まろうと云うに及んでも我がほうは当夜の寝床すら決まっていないのであり、どだいがそんなんで一息つけるわけもないのであり、そうと気付いた俺は縞雄と善児を急かしたぐらいにして利便雑貨店バンコック版をあとにし、宿が一杯建ち並ぶという通りへと向かったのである。急がねば。早く立ち直らねば。俺はここから陸路イスタンブールまで行くのだ。遠大なる道程を行こうという俺がタイランドで躓いてるわけには行かぬのだと、すっかり弱り目となった己を鼓舞していると間もなく目の前の通り一杯にホテルや旅館や民宿、リストランテ、バー、簡易飲食店、雑貨店に各種屋台等等が建ち並び俺を圧倒した。でも建物が圧倒したわけではない。建物内部や周辺部、軒先軒下、歩道車道を問わずとにかく通りの此処彼処に屯している人々に圧倒されたのであり、思わずして俺は心の中で叫んだのである。げ、毛唐ばっかじゃん。毛沢東ではない。毛唐である。英国人や米国人、仏人独人露人などの南蛮渡来の輩である。もっと云うと先の世界大戦にて連合国に籍のあった連中で、かつて我々の祖父や祖母、幼き日の両親が鬼畜米英と呼びならわした敵性国家の民人であり、まぁ確かに独人とは同盟を結んだ味方であったわけだが、我らが戦時スローガン一人一殺一億玉砕贅沢は敵欲しがりません勝まではと同等に独のハイルヒトラーも相当禍々しく大戯けであったからリベラルを標榜する俺は独を同盟国とは認めたくないのである。ま、俺などが認めなくとも歴史的事実に変更および修正はないだろうから話を先に進めるが、此処タイランドは首都バンコックにおいても旧連合国陣営の連中は大挙し、物量にものを言わしめ、通りに居並ぶ各店を首尾よく占有占拠せしめ、かかるにそこを前線とすべくトーチカ塹壕バリケード補給基地等等を速やかに設置、現地タイ人を隷属させ各設備の維持および保守点検の任に当たらせると共に金満日本人観光客から金品の奪取。金満野郎がおとなしく金品の供出に応じないのであれば実力行使、強制的排斥も厭わぬときつく申し付けているのであろう。ってそれじゃあまるで被害妄想であるようだが、蓋し其の通りである。繰り返すが、北海道の辺境にて生まれ育った俺はこれほど多くの外国人を一時に真近にしたことがなく、少なからず俺は渡航地タイランドの安宿街の光景に臆し、平たく言うにびびったのであり、びびったが故に欧米各国の民人を毛唐、敵性国家の～などと殊更に侮蔑的呼称を使うことで偽悪的な格好をしてみせたに過ぎないのだ。所詮は俺など小賢しき小人であり、ただの佞奸であり、牽強付会とるに足らぬ傲岸不遜の徒に過ぎぬのだ。え？意味がよくわからないって。そう。あまり意味はない。要はたいした奴じゃないってことで御理解いただければ幸いである。【つづく】

2007.02.12

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　016

【つづき】初老だろう。多分、六十台半ばってとこ。でも其の男、背中が丸く、くちゃくちゃっとしていて、ぼうぼうと鬚が生えて、髪の毛も長いうえに帽子など目深に被り、相当によれよれの黒ずんだ作業着様の衣装その他を幾重にも重ね身に付けていて、相貌の生の部分などほとんど不明であるから実際の年齢なんてまるでわからない。髪の毛は白髪交じりだし、全体の雰囲気から初老に見えるってだけで、実際には三十路だろうと不惑だろうと壮年と呼ばれる年齢だろうと当時高校一年生の俺に、理屈ばっかこねている青二才の俺に、親に甘ったれているくせにそうとはまるで気取れない糞ガキの俺に、修学旅行先の大都会の駅にて突如として目の前に現れた乞食さんの実年齢を見極める術などあろう筈がない。そう。彼は乞食だった。その行動から乞食と考えるしかなかった。青森行きの列車をプラットホームで待つ四百名からの高校生の集団の只中に唐突にも出現した彼は出現するなりプラットホームに設置されたゴミ箱に顔を突っ込んだ。比喩的な言い回しではなく本当にゴミ箱に顔を突っ込んだのである。で、俺は呆気にとられる。うそ…なんで…上野駅で出逢ったその乞食さんは、北海道の辺境で生まれ育った俺が生涯で初めて目撃した本物の乞食だった。上半身を折り曲げるようにしてゴミ箱に胸から突っ込んだ彼は、ゴミ箱内部で食物飲料等を探索。手にとったものをゴミ箱の外へ排出したり、又は手にとったものをそのまま保持したりしているところを観ると食べられる物とそうでない物の見極めをしているようだった。と言うか野菜は好みじゃないのかレタスだけが残った弁当ガラを打ち捨てたりする。で、時折発見するビン入り清涼飲料類はその底部に数滴分でも残っているとさかさまにして完全に飲み干すところを観ると甘味料には目がないようだった。そんな観察をまじまじとして行うほどに俺は彼から目が離せなくなっていたし、それは所謂ところの目が釘付けってやつで、まもなくしてホームへと到着した列車に同級生皆が乗車を開始してもなお俺だけが彼の傍から離れられなかったのである。それくらいの衝撃をもって生涯初の乞食を目撃した時のことを俺は、バンコックに入ったその夜、思い出したのだ。バンコックの闇の中に見え隠れする彼らが本当に乞食なのかどうかは勿論わからない。昼間は正業に就くが夜はだらだらと過ごしたい人々なのかも知れないし、乞食とまではいかなくて単に貧乏だが暇だらけでやることがないから友人知人の姿を求めて家の周辺をうろうろしているだけなのかも知れない。でも、道の脇で寝転がり起き上がり、歩き回り、何かを食べているのか誰かと喋っているのか不明だがしきりに口を動かし、又、座り込み転がる彼らの姿に上野駅での出会いがフラッシュバックしたのである。成人した後、東京に住み上野駅にも何度も行ったが、あの乞食さんの姿はもうなかった。彼は今も元気で乞食を続けているのだろうか。それとも…と、そんなことはどうでもいいのであるが、バンコックの闇に蠢く者たちの動きはひどく遅く、それはもしかしたら俺が走るバスの中から見下ろすから彼らが遅く見えるだけのなのかも知れぬし、そのような錯覚であるのかも知れぬが、そうであれ何であれ遅いものは遅く、故に蠢くという言葉で俺は理解および記憶し、このような文章を書いているわけで、何を言いたいのかと言うと、バンコックに着いた当夜も乞食さんたちの姿に呆気にとられているうちにバスは宿屋街へと到着し、俺は不安げな足取りでもって見ず知らずの町をよろよろと歩き始めたのである。縞雄と善児の背後から離れぬようにして。【つづく】

2007.02.11

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　015

【つづき】乗り込んだ路線バスは走り出すとまもなくも俺の懸念に違わず周囲の乗用車どもとカーチェイスをやり始めるから俺はもう気が気でない。今回が二度目のタイランド渡航だという縞雄に宿や食事のことなど色々とレクチャーを受けるのだが、バスの運ちゃんがブレーキを踏むたび、急ハンドルを当てるたびに「病院送りか、やっぱ！」ぐらいの緊張感が腰から脊髄あたりを走るまくるから縞雄の話は半分はうわの空だ。いや。半分は誇張やも知れぬ。三割。もしくは二割程度しか頭に入らなかっただろうか。そのようにすっかり見るもの聞くもの体感するもののほぼ全てに己の不安を映し出しつづける俺とは対照的なまでに縞雄も善児も楽しげだ。殊に善児などは看護師との自称が疑わしきほどにアスリートの如き見事な体躯に柔らか気な長髪をなびかせるなかなかの好男子であるわけだが、その容姿容貌が醸し出せる技なのかカーチェイスなどまったく意に介さぬといった風情でにこにこと笑い、時折俺を気遣う余裕なども見せるのである。「仁科さん？大丈夫ですか。なんか顔色悪い　っスよ。調子悪かったら言ってくださいね。　俺、看護師っスから」それでも幹線道路が市街地へと入り、信号の数も増えてくるとバスは次第とその走行速度を落として行ったので俺は一息ついた。バスの窓から見えるのは都会の一角。なんだか東京あたりの景色とそう大差ないんじゃないの。なんだよ、面白くねぇな。などと思っている俺の目に東京あたりの景色とは少々異なったものがちらほらと映り始める。路上生活者。乞食。徘徊者。ホームレスなど世間一般的にそのような呼称をされている方々の居る光景である。無論、東京だって何処だって日本にも沢山の路上生活者乞食徘徊者ホームレスはいる。されど彼らの生活圏行動範囲というのは概ね定まっており、東京の何処にでもいるわけじゃないし、ましてや大都会の動脈みたいな片側三車線の幹線道路周辺にその姿を数多く見るには至らない。それも丑三つ時にならんかとする頃に路上生活者乞食徘徊者ホームレスが大挙している光景を目撃することはまずないだろう。それがタイランド・バンコックの深夜の街並みの只中には大挙とまでは言わなくとも相当数蠢いているのである。都心のど真ん中を伸びる幹線道路にも関わらず、バスから伺える景色の中には光のほとんど当たらない真っ暗闇と言うに差し障りのない空間が此処彼処にあるわけで、その闇の縁なんぞに彼らは居たんである。思わずして俺には高校ん時の修学旅行の記憶がフラッシュバックする。上野の駅での数十秒間のフラッシュバックだ。【つづく】

2007.02.10

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　014

【つづき】世界の広さ、奥深さ、人と言うものの多様性をタイランドへ着いた早々に思い知らされた俺はそれ相応の衝撃を受けていたものの、足だけは交互に動かすことで縞雄と善児と逸れたり、迷子になんか間違ってならないようにと、最低限の緊張感だけは解くに解けなかった。いっそ衝撃を言葉にすることで消化解消発散できれば軽やかなる足取りで歩けたのだろうが、それは叶わずに何やら早くも抜き差しならぬものが自らの内側に形成されていくのを俺は覚えていた。大空港の脇に伸びる幹線道路にバス停は在った。小一時間も走ればバンコック市街地に入ると言うその道には時間帯と言うものを無視したかの如き盛況活況混雑混乱ぶりで、空港内で既に気弱になっていた俺に更なる追い討ちをかけたのである。夜中の一時だと言うのにドンムアン空港横の幹線道路には一分間当たり五十台前後の、相当数の車両が爆音を鳴らしタイヤを鳴らし、たまに絶叫なども混じりつつ轟々と走ってくるのである。タイランドの道路交通法に速度制限が在るのか否か、在ってもそれが何キロが上限なのかは知らぬが、どいつもこいつも速度超過も甚だしく、まるで数十台絡み合ってのカーチェイスでもやっているかの如き走りっぷりである。夜中の一時に、である。けたたましいクラクション。エンジン音。窓から顔を出して奇声を張り上げる輩。輩。でもその風体や為りから鑑みるに、暴走族とかドリフト族とかそういう組織だって反社会的、挑発的行為を断行する者たちではないようだ。あくまで生来身についた走りと言うか、彼らがそのように走るのは彼らのコモンセンスによるものであるように俺には思えた。　いやあ、まいっちゃったなあ。やられちゃ　うよなぁ。こういうの、国民性って言うの　だろうか。まさか、これから俺たちが乗車　するであろう路線バスまでこんな無茶苦　茶な走り、しないだろうな。もしそんな走　りされたら嫌だなあ。事故でも起こされた　ら大変じゃないか。タイランド到着二時間　後には救急車の中とか、救急病院へ搬送　とか、そういうの好ましくないと思うな。　うん。好ましくないなぁ。ほんと、勘弁して　くださいよ。お願いしますよ。バス停一帯に白くもうもうと立ち込めたる排ガス粉塵砂埃その他を深く吸い込みつつ俺がそんなことを考えるともなく考えていると縞雄が声を掛ける。「バスが来ましたよ。仁科さん、これに乗って下さい」そう言われて見上げたバスに俺は又も驚愕する。だってボロボロなのである。塗装もほとんど剥げ落ちた車体は見るも無残なほどに錆び果て、今にも朽ち欠けてしまいそうだ。俺は生まれてこのかたこのようなスクラップの如きバスが走っているのを見たことがなかった。いや。「～の如き」ではない。車体のあちこちに穴なども穿たれ、見れば割れたまま放置されている窓ガラスもあるからして、これをスクラップと呼称するに特に問題はないのである。　嘘だろ。こんなバス走れんのかよ。ま、　ここまで走って来たんだから走れるん　だろうけどさ。でもさ、事故起こすと　か起こさないとかそれ以前の問題で、　40キロ以上のスピード出したら自壊し　ちゃうだろ、このバス。と俺は又も心の中で叫んだのだが、声になって出たのは「な、なんか、すごいバスだね」という短い言葉だけだった。タイランド到着後からこっち俺は心の中で叫びっぱなしであり、どういう次第かは不明だがとにかくもう頭の中がうまく整理できずに思ったこと考えたことが言説化できなくなっていた。【つづく】

2007.02.08

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TOO HOT ～無謀で軽率で自由なる旅の記録～　013

【つづき】彼は微笑んでいた。爽やかに、軽やかに。彼は微笑んでいた。でも…縞雄も善児も宿の当てはあるようなのだが、いかんせん宿がある方面へと向かうバスに乗るバス停の所在までは把握しておらず、ましては俺などは只ひたすら二人に付き従うばかりの身分であるからして俺たち三人はだだっ広い空港一階で右往左往し、そんな時に彼が現れたのだ。「何かお困りなことでも？」笑顔。微笑み。微笑みのセキュリティポリス氏はそのようにして登場したし、おそらくはそのような言葉を掛けてくれたのだろうが、無論のこと俺の耳には意味不明な言説としか聞こえないのは言うまでもない。で、彼は紳士だった。制服をきちっと着込み、頭髪もほどよく清潔に手入れされ、笑顔は実に自然であるからして彼は根っからの好人物に見えたし、もし好人物像が偽りの姿、つまりそれが他人を欺くための虚像だとしても、他人の目に映る己の姿を作り上げられるほどに彼が抜群の演技力を持っているのは明らかだった。それに彼は、決して上手ではない縞雄の英会話に根気よく耳を傾けくれ、至極丁寧なる様でバス停の位置関係を説明および進路指示をしてくれたのである。これが好人物でなければ俺たちはいったい何を信じればいいのかと言うくらいものだったわけだが、そのように好人物微笑みのセキュリティポリス氏にも得手不得手はあるらしく、少々たどたどしい英会話を操る人であった。しかし、とにかくも彼の態度には一生懸命さ、親切さが伝わってきたし、その英語力の未熟さを補うかのように身振り手振りを最大限に駆使する額にはうっすら汗など浮かべ、そしてやはり人懐っこい笑顔がとても素敵なのである。無論そのような態度になんら問題はなく、クレームのつけようもなければ非の打ち所もない。確かに、ない。ないのであるが、彼の行う身振り手振りは右腕のみで行われていることに気付いた時、俺は我が目を疑うことになったのである。つまり、ゼスチャーに使用されていないもう一方の左腕はどのようなポジショニングをとっていたかと述べるに、その手はず～っと、長いこと、ひたすらに、自分自身の男性自身と言うか股間をまさぐり続けていたのである。　おい！待てよ。なんでニコニコしながら　ずっと沈沈いじってるんだよ。へんだろ、　それ。　な、おい、そうだろ。そうだって言って　くれ。その手を止めてくれ。止めてくれ　ないとこっちがニヤニヤしそうだろ。　なんで次から次へと変な人が登場するん　だよ。どうしてだよ。これが世界なのか。　そうなのか。着いたばかりなのに、こう　次から次へと理解不能な人ばかり事ばか　りじゃ本当に日本へ帰りたくなるじゃねぇ　か。ってわけだからまずは、何はともあ　れ、お願いだからその股間をいじる手を　なんとかしてくれよ。なぁ頼むよ。人と、　それも他人と喋るときは珍珍を触らない　べきだと俺は思うのだが、俺はそう両親　から教育されてきたが、世界では違うの　か。日本の常識は世界の非常識の逆か。　そうなのか。いや、そんなことねぇだろ。　そうだよ。日本であろうとタイランドで　あろうと印度、はたまたパキスタン、イ　ラン、トルコ、ブルガリア、ルーマニア　にハンガリー、オーストリアにドイチュ　だろうとも赤の他人と喋りながら朕朕の　位置関係を修正し続けるのは、やっぱり　御法度ですぜ、旦那ぁ。などと俺は心のなかで叫ぶものの微笑氏には届かないし、最後までその顔に微笑みは絶やさない。つまりバス停の場所が何処にあるのか、空港のどの出口から出ればバス停まで到達しやすいのかを理解した俺たち三人の後姿を微笑氏は見送ってくれたわけだが、しばらく行ったところで俺が振り返ると、やはり彼は左手で股間をまさぐり右手でバイバイをしていたのである。【つづく】

2007.02.07

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