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2003年05月10日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
あっしは出かけるときには二本の足で歩くようにしてて、それを散歩と称しているんだけど、そういう時ってあれこれ考え事をしているわけで、昨日も出かけたときにあれこれ考えているうちに昨日の「日記」について長すぎた割に最後の方は端折っちゃったし、あまり上手くなかったなぁ、などなどとつらつら考えていたんですよ。そのうちイニシエーションをパソコン用語で初期化って書いたけど、「初期化ってフォーマットじゃないの?」と言う突込みが来るかもと懸念し始めたけど、幸か不幸かリアクションもなく、ちょいと複雑な心境です。

まぁ、気になったことから順次言い訳していくと、パソコンにおける初期化と言うのには二通りあると思います。それはパソコンをまっさらな状態にしてどんな風にも出来るようにすることと、その状態から一歩進んでパソコンを使用可能な状態にするってことです。前者がフォーマットであり、後者がイニシャライズです。何とかinitとか言うファイルがありますけど、パソコンが正常に動くための環境を整えたりしています。まぁ、初期化といってもパソコンが使えない状態のままで放って置くんじゃなくてその後必ず正常に動作するように整えるわけだから、パソコンとしての機能を有した状態にするって意味でイニシエーションを初期化って置き換えてみたんです。

ところで、これはパソコンの話がメインじゃなくて人間のアイデンティティがメインです。が、人間のアイデンティティもパソコンのイニシャライズと似たような感じなんですよね。このあたりは性善説と性悪説にも関係してくるんですが、人間は生まれたばかりのときは善いも悪いもないまっさらな状態なんですよね。生存本能以外のものはまるきりない、無垢な真っ白なキャンバスみたいなモノかもしれません。そこに親が言葉や態度を通じていろいろと書き込んで言って一人の人間として生きていけるだけのイニシャライズをしているんですよね。もし誰もイニシャライズしなかったならば、パソコンで言えばフォーマットされてOSすらインストールされていない状態ですよね?BIOSすらもなかったらパソコンとして何もできない、人間なら生きていくことすらできないことになります。

ところでこの親によるイニシャライズはその後の生育過程で様々な葛藤を生みます。社会は常に変化しており、親のイニシャライズしたアイデンティティがそのまま通用するとは限らないし、時にはまるきり正反対の価値観が社会に蔓延してることだってありうるんです。学校生活や社会生活を通じて自分のアイデンティティに疑問を持たないのはある意味成長がないことですから逆に困るんですが、フレキシブルで受容性に富んでいないアイデンティティしかもっていない人の場合には、多様な価値観の混在に困惑してしまい、自分と社会のどちらかが正しいと言う二者択一をしてしまいがちなんですよね。そして大概は自分のほうが正しくないことになり、自信を喪失し、生きていくことになんら目標を据えることが出来なくなってしまうんです。

そんなときにひょいと「絶対的な価値観」を提示されたりするとのめりこんでしまうんですよね。これが宗教によるイニシエーションになるんです。それまでもっていた価値観を一旦すべて破壊して、まっさらな状態になったその上に全く新しい価値観をイニシャライズするわけです。この新しい価値観をイニシャライズされた人はそれ以前に持っていた価値観など唾棄すべきものだと信じきっているからこそ、イニシャライズされたんですから、新しい価値観が間違いであるなんてことを他人から言われたって耳を貸すわけがありません。新しい価値観の柱となっているものが実は前の価値観以上に唾棄すべきものだと教え込み、価値観をフォーマットしなおさない限りは何一つ変えることなどできないんです。かつてサリンを撒いて世間から後ろ指を指されることになった教団でさえ、いまだになくならないのはある意味価値観のリセットが出来ていないからなんです。この価値観のリセットは下手をすると精神に異常をきたし、元に戻らなくなることもあるので、あまり積極的に推進しようなんて人はいないようです。昨日も書いた「クラダルマ」のシャクティ教団のイニシエーションと教団から離脱することで発生する「恐ろしい現象」なんかを見ていると、いろいろ考えさせられちゃいます。

人は弱いものです。自分に絶対的な自信をもてる人などいません。常に周りとの関係で不安に晒され、自分を見失いそうになりながらもどうにか生きているわけで、そんな自分に差し伸べてくれる暖かい手に思わずすがりつきたくなるのは仕方のないことだと思えてなりません。それがどんなものであれ、その人は精神的な安らぎを得られているのですから、その人にとっては悪いことではないんでしょう。ただ、傍の人から見れば自分を捨てて社会からも見捨てられても幸せだなんて考えたくないから、気持ちの悪い得体の知れないものとして排除したくなるのだと思われます。あんな形では幸せだなんて思いたくない、とするのは、あんな形での幸せに潜在的な憧れがあるのを認めたくないからこそ、一層激しいものになるんでしょう。苦痛も苦悩とも無縁な暮らしと言うのは、一種の痴呆状態ですけど、それは傍から見てるからわかることで、当人は自分が痴呆だなんて思いも感じも考えもしないんだから、ある意味幸せなのかもしれませんね。

人は自分なりに幸せになる権利があって、他人は傍からあれこれ口出すことなどできない、って前提に立つと白装束で暮らしても放って置くしかないのかもしれない。もう壊れて修復不可能なパソコンは手元に置いておけないけど、「壊れた」人も身近な人でなければ触らないのが一番なのかもね。身近な人だったら… それ以上壊れないように徐々に治していくしかないのかもしれません。あるいは壊れないように日頃から注意するしかないんでしょうね。幸せのためには不断の努力が必要なんですねぇ…





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最終更新日  2003年05月10日 13時30分31秒
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