カテゴリ:教養・学術書(西洋史以外)
アンドレ・モラリ=ダニノス『性関係の社会学』(白水社文庫クセジュ)読了。
一行目から、なるほど、セクシュアリテには「性現象」という訳語があるのか、と勉強になった。この二日そうとう濃密な時間を過ごしたので、今日(三日)には『愛と憎しみ』を読んだこともあって、すらすらと紹介はできません。すみません。 ので、付箋をはった部分について言及しましょう。 人間どうしが、相手に「身を委ねきるのは危険と言わねばならない。相手に吸収され、個体性を失ったあげく、知りつくしたもの、価値のなくなったもの、役に立たなくなったものとして棄てられるかもしれないのだ」(29頁)。耳の痛い方もいらっしゃるのではないでしょうか。えっ、私は、さぁ、どうでしょうか。 先日友人と恋の話(になるのかな?)をしたのですが、その友人は、恋人に甘えるのはよいけど、依存してはいけない、と言っていました。まったくそうですね。依存してしまうと、上で引用した事態になりかねません。この記述が生々しいととられないことを祈るばかりです。 「女性がこうして人格を完成し、男性と平等になろうとするのは当然の権利だ。しかし、この願いを、男性との空しい競争、必ずや有害な結果を持ちきたらす役柄の転倒で実現しようと考えるべきではない(中略)男らしさ、女らしさを認めてこそ、感情的・性的非分化に世界が陥るのを妨げ、ひいては世界を破滅から救いうるのである」(72頁) 前半部には賛成です。この期に及んでのぽねこはネット上では性別非公開でいくつもりなので、私の性別自体はあげませんが…。女性が男性より低く見られていた時期があったのは(むろん、そんな時代の中でも、尻にひかれる男性たちはいたことでしょうが)歴史的事実と言ってもよいと思います。現段階の私の知識では、そう認識しています。男女平等の思想は中世ヨーロッパに広く浸透していた、なんて、とても言えません。日本の男尊女卑も歴史的事実でしょう。もちろん、男尊女卑の思想は非難されてしかるべきだと思います(これは、現代日本の価値観では、という意味で、あるいは男尊女卑の思想が根強く残った部族はあるかもしれませんし、その社会はその思想でもってうまくまわっているのだとしたら、その部族の思想自体を非難することには抵抗を覚えます。もちろん、その部族の中の女性たちが男尊女卑に対する非難の感情を持っていれば別ですが)。しかし、「役柄の転倒」、これを私は女尊男卑になりうる状況と考えるのですが、これは危険でしょう。 後半部にひっかかるのは、「男らしさ、女らしさ」という表現です。学生の頃の知識でいえば、現在は、こういう発言はセクハラととらえられかねないものと認識しています。私自身が、自分自身の性別「らしくない」ので、他者からそう言われると、あまり良い気はしません。いろんな個性があって当然ですから。「世界」の「破滅」というのが、どういう状況を意味しているのか、私には分かりかねます。仮に(現在社会ではまずありえないでしょうが)女尊男卑の社会になったとしても、「世界の破滅」とまではいかないと思うので。 このあたりの論調からは、私はヴァラニャック夫妻の『ヨーロッパの庶民生活と伝承』を連想しました。ここでも、「女性が家事のみを担当するのではなく、男性と同様に外で働くようになったことに対して、ある種の警鐘を鳴らしている」(1月8日の日記より。なおこの日記は、フェミニズムを勉強していない印象論にすぎない、と指摘されました。はい、そうです。私は、高校のときにメディアで聞きかじった知識を中心に、その日の日記を書きました。新しいフェミニズムの研究を読んだことはありません。軽率な発言だったと思いますし、あるいは今日の日記も同じく印象論から抜け出せていないかもしれません)からです。私自身は、たとえば、男性が家事をやり、女性が仕事をして、家計はもっぱら女性の収入による、という家族のあり方も良いと思っています。 「ところで憎悪とは、周知のごとく、その否定的・破壊的な性格にも拘わらず、相手を自分の中で生かし続け、相手の存在に執着し続けるための一方法にほかならない」(95頁) 本当に嫌いでどうでもいい人間なら、相手にせず、相手のことを考えなければよいのです。しかし、憎悪は、相手のことを考えることです。あいつが憎い、憎い。否定的な感情で、相手に縛られているといってよいでしょう。私の入院のきっかけは憎悪といえますから、これは実体験からの言葉ですが、憎悪は本当にしんどい感情です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.10.15 20:51:25
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