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M17星雲の光と影

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2006.06.03
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カテゴリ:その他
朝起きて、鏡の中の自分の顔を見る。このところ副鼻腔の具合が最悪で、目の下のところが腫れているのがわかる。KO負けしたへなちょこボクサーの試合翌日の顔だな、これじゃ。ひょっとすると夜寝ているあいだにひそかに小人が顔の上でダンスをしているのかもしれない。やれやれと思いながら、マンションの階下の郵便受けに朝刊を取りに行く。上りのエレベータの中で新聞を開くと、第一面に欽ちゃん似の村上某の写真が出ていたのであわててひっくり返して、テレビ面を眺める。玄関のドアを開けながら、番組表の下にある番組紹介の顔写真を見ていると、ちょっと谷川俊太郎似の男性の顔が目に入る。あれ、どこかで見たことがある顔だな。誰だっけ。そして顔の横にある文章をちらっと見た瞬間に思い出す。「ああ、エイブンさんじゃないか」

木村栄文。福岡のRKB毎日放送(TBS系列)のディレクターだった人である。地元のテレビ局を足場に数々の斬新で独創的で野心的な社会派ドキュメンタリー番組を手がけ、毎年のように芸術祭の賞を受け、「芸術祭男」と呼ばれた人だ。私の高校生時代の憧れの人でもある。私はこの人に「気骨」というものを教わった。

今では多少事情が違っているかもしれないが、その当時の福岡にはローカルな知識人集団ともいうべきグループがあった。東京のアカデミズムとは一線を画し、多くは在野で文化活動を行っている詩人や画家、人形作家、新聞記者、教師、文筆家、歴史家、そういう人たちの集団である。全国的な知名度があるわけではないが、地元の人々は彼らを愛情を込めて「○○さん」「△△さん」と個人的な知り合いのように呼ぶ。そのなかの一人が「エイブンさん」だった。

彼の作る社会派のドキュメンタリーがゴールデンタイムに流されることはなかった。夜の時間帯はすべて全国ネットのキー局の番組が占め、ローカル局の独自制作番組を放送する余裕はなかった。彼の作品の多くは土曜か日曜の夕方にひっそりと放映され、芸術祭の賞を取ると、夏休みの深夜の時間帯に何日か連続で放送されたりした。私は熱心にそれらを見たものである。

石牟礼道子、森崎和江、上野栄信、松下竜一などの名前が浮かぶ。谷川雁もどこかで出ていたかもしれない。エイブンさんのドキュメンタリーはしばしばフィクションの技法も取り入れられ、三国連太郎が何度も出演していた。おそらくたいしたギャラは払えなかったに違いないが、彼はエイブンさんの番組にはしばしば登場していたものだ。子供心にも「志の高い人だなあ」と思った覚えがある。

エイブンさん自身が番組に登場したこともある。おそらく障害を抱えた自分の娘さんを扱ったドキュメンタリーだったと思う。細部は忘れたが、一人で見ていて、見終わった後、号泣したことを覚えている。

エイブンさんは「情」と「骨」をあわせもつ人だった。私は社会のことなどろくに勉強もしていないなまけものだが、あの頃のエイブンさんの作った番組を見ることで、少なくとも社会にどのように対していけばいいか、その基本的な姿勢だけは学びとったように思う。

社会の上っ面ではなく、奥を、底のほうをしっかりと見つめろ。でも激昂はするな。微笑みを忘れるな。そして、あたたかい視線を社会の底辺の人々に注げ。そうすると、何かが見えてくる。おそらくそれは彼らへの同情ではない。同情というのなら、これほどの問題を今まで知らずに過ごしてきた自分自身に同情したほうがいい。そして、彼らの強さを、たくましさを学べ。少しくらい本を読んだから、社会のことを勉強したからといって、いい気になるな。謙虚に社会から学べ。ほんとうの強さはそこからしか生まれてこないものだ。

もちろん春風駘蕩、飄々としたエイブンさんがそんなあからさまで気恥ずかしいメッセージを口にすることはなかったし、作品の表に出すこともなかった。でも、その作品にどっぷりと浸っていると、そこにこめられた彼の思いが自ずからこちらのこころに伝わってくる。そういう作品をひたすら作りつづけた人だった。

今朝の紹介記事によると、エイブンさんはアルツハイマー病を患っているそうである。年齢は71歳。もうそんな年になるのか。私の頭の中では痩身で黒縁メガネをかけた人の良さそうなはつらつとした働き盛りのイメージしかないが、そうか、もう70過ぎか。風の噂で病気だということは聞いた気がする。ときおり、どうしているんだろうと思ったこともある。しかし、最近ではほとんど忘れかけていた。

でも、この人を誇りに思っていたことは忘れない。商業放送の枠の中で自分のとりたい、それも社会派のドキュメンタリーを作り続けることがどんなに困難な仕事であったか。ふだんは地元のニュース番組の制作くらいしか仕事がなかったろうに、毎年野心的な企画を立て、それをなんとか制作にこぎつけ、出演交渉をし、撮影をし、編集をする。ほとんど自分一人であらゆる作業をこなしていたのではないだろうか。芸術祭で賞でも取らなければ、次の作品を作ることなどまず不可能な状況で、彼は唖然とするほどレベルの高いドキュメンタリー番組を撮りつづけていた。

「エイブンさん」とこころのなかで呟くだけで、なんだか少しだけ胸の奥が熱くなってくる。福岡にいた頃、家族が寝静まった深夜、テレビの前で彼の作品に食い入るように見入っていた十代の頃の自分を思い出す。飄々とした風情ながら、不屈の精神と気骨、気概を感じさせる人だった。

今日、6月3日土曜日の夜10時からNHK教育の「ETV特集」で彼の番組が放映されるそうだ。明日は仕事だからビデオに録っておいて、後で見ることにしよう。なんだか少しどきどきするな。

エイブンさん、がんばってください。若い頃、あなたに気骨を教わった軟弱者も心ひそかに遠くの地から応援しております。見る者のこころが熱くなるような、あのエイブン・ワールドをもう一度再現してください。あなたと同じ土地に生まれたことを、私は心の底から誇りに思っております。がんばれ、エイブン!負けるな、エイブン!





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Last updated  2006.06.06 21:01:08
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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