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M17星雲の光と影

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M17星雲の活動記録

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2006.09.05 楽天プロフィール Add to Google XML

鴨川の川床にて 旅のあれこれ(113123)」
[ その他 ]    

思い立って京都へ出かける。

東京を出発する時には、空は雲に覆われ、時折ぽつぽつと雨が落ちていたが、新幹線で西に向かうにつれて、空が明るくなってくる。京都駅に降り立つと、雨は降っておらず、涼しい風が肌に感じられる。厳しい残暑を予想していただけに、やや意外である。

京都駅の七条口からバスに乗って、ホテルへ向かう。四条通を東進、その後、河原町通りに左折し、鴨川沿いに北上していく。鴨川の景色を眺めていると、何か以前とは風景が変わっているように感じられる。なんだろうと思ってよく見ると、川沿いの店が川へ向かってひさしのように床を張り出した、いわゆる「川床」が設営されている。この時期に京都へ来たことはないので、川床を見るのは初めてだ。ちょうど屋形船の座敷部分だけをやぐらの上に載せて、川の上方へ張り出したような格好である。視覚的に浮遊感と涼しさが感じられ、なかなか風情がある。

ホテルでチェックインを済ませ、知恩院、円山公園、八坂神社、清水寺と、洛東を徒歩で南下する。滞在するホテルは南禅寺を眼下に見下ろす位置にあるので、周囲をぶらぶら歩くだけで十分に名所旧跡を辿ることができる。部屋の内装はやや古びてきているが、山の中腹に位置しており、眺望にすぐれたお気に入りの宿である。

知恩院はいつみても巨大だ。日本中の富がここに結集しない限り、こんな建物が建つはずがない。専修念仏を唱えた法然がこんなばかでかい威圧感のある建物を必要とするはずもなく、これは徳川家の財力と権勢が築かせた「どうだ、でかいだろう、すげーだろー」というメッセージが濃厚に感じられる建造物である。三門も本堂もとにかく巨大であり、本堂内の広大な空間は黄金色の鈍い輝きに支配されている。ただし、そのような権力と富の象徴でありながら、観光客や地元の人々がふらりと入ってきて、土間で靴を脱いでポリ袋に入れ、本堂の中でいつまでもぼんやりしていられるところはいい。東本願寺もそうだったが、ぶらり、ふらり、ぼんやりという人間の所作を許容しているところは懐が深い。色の浅黒い体育会系の高校生が一人でバスケットシューズを袋に入れて、背後に置き、正座して手を合わせている姿など、なかなかいい光景である。巨大な空間が寛容性と結びつくと、「懐の深さ」を感じさせるということは覚えておいていいことのように思う。同じ空間が厳格なボディーチェックなどと結びつくと、まったく正反対の印象を人々に与えることはいうまでもないが。

清水寺もまた空間を楽しむ場所だ。幸い修学旅行の集団もおらず、目につくのは関西風味のヤンキーのカップルの方々ばかりである。おそらくは途中にある縁結びの神と関係があるのかもしれないが、なぜか妙にその手の方々が多い。

この建築物は巨大な構想力の具現化である。近くにいたヤンキー(女性)が「よーも、こんなとこに、寺つくろうなんて思うたもんやなー」と率直な感想を漏らされていたが、まさにその通り。山を切り開いてあそこに舞台をしつらえ、それをこっち側からこの角度で見られるようにしたらと妄想をたくましくするところまではいくかもしれないが、それを実際に作ろうとは正常な感覚の持ち主ならばまず思わない。かなりの奇想力と強靱な実行力が合体しない限り、こんな建築物が地上に出現することはなかっただろう。清水の舞台を見ながら、ふと、この形状はどこか「川床」に似ていると思う。ひょっとすると川床は「清水さんの舞台を鴨川の上に作って、その上で飲み食いしたら、ええ気分やろーなー」と誰かが妄想した結果なのかもしれない。いずれにしても宗教的感情というよりも「無謀さの具現」が印象に残る建造物である。

清水坂を下りながら、七味と山椒を買って、抹茶アイスを舐め、抹茶煎餅などを囓っていると、なんだかものを考えるのがめんどくさくなってくる。まあ、こんなとこでぐちぐち考えててもしかたないよなーと思いつつ、ぱっぱらぱーな観光客気分に浸される。

坂を下りきったところで八坂神社へ向かう道を右に見ながら、ふと気まぐれでその道を向こう側に渡り、ふらふらと路地の中に迷い込む。そのあたりには格式の高そうな料理屋が軒を連ねている。道に迷うかもしれないなと少し気になってきたあたりで、右手に忽然と建仁寺の建物が現れる。一度行こうと思いながら、いままで行きそびれていた場所である。偶然ばったりと出会ってしまった。ガイド本に頼ることなく、自力で探し当てることができて気分がいい。境内は広々としており、通勤、通学の人々が自転車ですいすいと通り過ぎていく。暮色の迫る空を背景として、建仁寺は質実簡素、閑寂な世界の中にすっくと屹立している。思考停止状態のおかげで御仏のお導きにより、望みの場所にたどりつくことができたようである。

建仁寺を過ぎると、そこはもう祇園の街並みである。そろそろ腹も空いてくるころだが、さすがにこのあたりの店は敷居が高い。もうちょっと庶民的な場所へ行こうと思い、四条通方向へ歩を進めると、正面に「よーじや」が見えてくる。「よーじや」には用事はないのだが、その一本手前の道を奥に入った甘泉堂には用がある。昨年、一舗堂の茶店で食した水羊羹が風味絶佳、舌がしびれるほどのうまさだったので、最終日に買い求めようとして店を訪れたところ「日曜閉店」の張り紙をみて、がっくりと首うなだれた記憶がある。ああ、これもまた仏のお導きと念仏を唱えながら(嘘)、細い路地にそそくさと分け入ったのであった。

ということで「てきとー」が次々と功を奏していい気分の中、昼間に見つけた川床の店が並ぶ鴨川べりに出た。できたらあの上で浮遊感を楽しみながら、京の一夕を楽しめたらと思うのだが、そこは田舎者、はたして「一見さん」で大丈夫だろうかとおっかなびっくり店先を覗き込んでいたが、ここでも即身成仏のうるわしき弥勒菩薩のお導きにより、みごと希望通りの店に入ることに成功する。(都合により委細省略)

比較的カジュアルな店で、店員も若くはつらつとしている。幸い川床の席が空いており、端の方に座る。空を見上げると、青から藍、そして群青へと微妙な青のグラデーションの推移が見られる時間帯であり、うっすらと白い半月も天空にかかっている。鱧(はも)のおとし、イカとネギの酢味噌和え、鱸(すずき)の塩焼きなどをつまみながら、生ビールをあおると、至福感に包まれる。風はときおり涼やかに吹き渡り、とにかく視覚が広々として自由である。

しばらくするうちに、この気分のよさ、さわやかさは、まわりの景色だけによるものではないように思われてくる。たしかに川面を渡る涼風、青みを増しつつある空、ひそやかな水音、遠くから聞こえる虫の音、ほとんど完璧なロケーションではあるのだけれど、どうもそれだけではない。むしろ、そういう微細な物音、繊細な景物の鑑賞を妨げるものが「ない」ことが重要なのではないか。そう思えてくる。具体的にいうと、満席の酔客がまわりにひしめいているにもかかわらず、けたたましい叫び声や嬌声が聞こえないのである。客層はふつうの居酒屋とさして変わらない。未成年とおぼしき集団が顔を真っ赤にしてチューハイを飲んでいたり、けっして上品とはいえない男女のカップルがいたり、会社帰りのサラリーマンが3、4人で卓を囲んでいたりしている。しかし、東京で最近特に耳にすることの多くなった、周囲から浮き上がった壊れたスピーカーのような、耳の遠い独居老人の家から聞こえてくる巨大な音量のNHKのニュースのような、そういう暴力的な騒音は聞こえてこない。ふと背後のカップルの会話に耳を澄ませても「~やね」「~やんか」「ほな~」と、語尾や相槌は聞こえるのだが、「~」の部分は聞き取れない。自然な賑わいはあるのだが、けっしてうるさくない。

そのような空気の中にしばらく身を置いていると、「これがふつうなんだなー」ということをあらためて感じる。別に不思議に感じるようなことではない。これがふつうであり、あたりまえのことなのだ。皆、一日の仕事を終え、疲れを癒しにここへ来る。気の置けない仲間や恋人や家族とひとときのくつろぎを求めて鴨川縁を訪れる。親密な会話を交わすのに大声は必要ない。ふつうの声で、ふつうの内容を、ふつうに語るだけでじゅうぶんである。

そういう「ふつう」の情景に驚いている自分がいる。自分の日常がいかにふつうではないかということの、それは証明でもある。

わざわざ京都の鴨川の川床で思うべきことでもないのかもしれないが、この自然さ、このふつうさが今日この場に存在しているからこそ、彼らは明日も明後日もふつうで、自然でいられるのである。

ふつうはふつうを生み、異常さはさらなる異常さを生む。

われわれはやはり壊れたテレビのような声でがなりたてる人間の存在をあたりまえと思ってはならないのだ。卑劣なふるまいや恥知らずな行動や無礼や配慮のなさに慣れてしまってはいけないのだ。

日常とふつうはちがう。異常な日常はけっしてふつうにはならない。いや、けっしてふつうにしてはいけないのだ。

そんなふつうのことを考えているうちに、いつしか上空の半月は視界の外へと消え去ってしまったのであった。







Last updated  2006.09.05 20:30:15
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生活空間の違いもあると思いますが   つっこみの母さん


Re:生活空間の違いもあると思いますが(09/05)   M17星雲の光と影さん


Re:鴨川の川床にて(09/05)   ジュンさん


Re[1]:鴨川の川床にて(09/05)   M17星雲の光と影さん


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