炎の記憶
正月に帰省した折り,ようやく日も暮れようとする頃、ふと気がつくと母親の姿が見えない。ガラス戸を開けて外の様子をうかがうと、遠くでぱちぱちと火の粉のはぜる音がかすかに聞こえる。そのまま庭履きのサンダルをつっかけ、その音のする方へと歩いていく。「なんばしようと、正月から」「暮れの贈りもんやらなんやらで、空き箱のたまったけん、ちょっとだけ燃やしようと。この頃は灰の飛んでくるやら、ダイオキシンやらなんやらで庭でゴミば燃やしちゃいかんごとなっとうとやけど、今日はお隣さんも留守やし、ちょっとだけ燃やさせてもらおうと思って」そういえば、家のはずれのこの場所は、昔からわが家の「ゴミ燃やし」の定位置であった。家のゴミの大半はここで燃され、ゴミ回収に出されるのは純然たる台所の生ゴミだけ。2,3日分の生ゴミといっても、スーパーの中くらいのポリ袋に十分収まるくらいの分量だった。それ以外の紙くずはすべてこの場所で焼却処分され、その灰は周囲の畑にまかれて野菜類の肥料として再利用されていた。ゴミ燃やし担当は兄だった。彼は何事によらず、あまり執着心をみせないタイプだったが、ことゴミ燃やしに関してだけはほとんど宗教的使命感すら感じさせるほどの情熱をもって業務に当たっていた。ゴミ山の築き方から、点火ポイントの確定、炎の管理、追加するゴミの配分とその適切な挿入箇所の探索、焼却作業の見届けまで一貫して行い、他者の容喙を許さなかった。当然、私もあまり口出しはできなかったが、たまにやってみると、このゴミ燃やしという作業は意外に奥が深く、興趣が尽きないものだった。私は母親に代わって、ひさしぶりにゴミの焼却を最後まで見届けることにした。先の曲がった鉄の棒を片手に炎が途中で消えないように、少しずつ内部に空気を送り込み、完全燃焼できるように細心の注意を払う。炎の中心部には真っ赤な「おき」があり、時折吹きつける風につれて、まるで生き物のように、あるいは心臓のように、赤みを増したり、灰色に青ざめたりという消長を繰り返す。考えてみると、このような「生きた」炎を見るのはひさしぶりだ。均一に整えられたガスバーナーの青い火しか日常生活では目にしていない。私は久方ぶりに「生身」の炎を目にし、その動きに強く引きつけられた。激しく火が燃えさかっている時にはそれほど強い興趣は感じない。それは単なる燃焼にすぎず、盛んに燃えさかる火があたりに飛ばないように気をつけるだけのことで、それを見ながら物思いにふけるというような余裕はない。興味深いのは炎の勢いが徐々に弱まり、やがて消えるか消えないかという段階に達した時である。火の勢いは弱まり、ゆらめく炎が周囲の燃えかすから出る白い煙に包まれて、一時的に火が消える瞬間がある。折良く、そこに風が吹きつければ、炎は再び生き返るのだが、風がないとぶすぶすとくすぶりながら、白い煙に覆われて鎮火してしまう。燃え残るのを防ぐために、こちらが「ぷー」と火の中心部に向かって息を吹きかけると、人工呼吸が功を奏し、炎はふたたび息を吹き返す。しかし、それを繰り返すうちに中心部の鼓動は徐々に弱まり、ついには最後のオレンジ色の明かりも消え、薄く軽い灰の山だけが後に残る。かすかに漂うぬくもりを除いては、炎の記憶はどこにも見られない。その一部始終を見ていると、ひとつの事物が与えられた使命を終え、静かに息を引きとる場に立ち会ったような気持ちになる。生命活動の静かな終焉。そういう感慨がこころをかすめる。思えば、われわれ生命体も体内で緩やかな燃焼を営むことによって生のエネルギーを得ているのであり、程度の差はあれ、生命活動はすべて「燃焼」だということもできる。だから、何かが燃えるさまを見て生命活動を連想することにはなんの不思議もないし、むしろそれは同じひとつの現象のふたつの異なる現れ方とみることもできる。日常生活から日に日に「死」が隠蔽されていくように思える。大家族での暮らしが一般的だった頃には、年長者の死は日常生活の延長線上にあり、多くの子どもは自分とは一世代の隔たりをはさんだ、祖父、祖母世代の死に遭遇することを通して「死」と出会い、その意味を考え、その受容の方法を知った。だが、核家族化の進行に伴い、もはや自分の家の内部で、生活の一部として、人間の死に向き合う機会はごく稀なものとなってしまった。病院という非日常的な空間で遭遇する死は、日常の延長線上に位置する「死」とは異なる。病を得た時点で病人は日常性とは切り離された場所に隔離され、その非日常的な空間でやがて「死」を迎える。そこで味わう喪失感は日常とは分離した地点でもたらされたものと感じられる。かつては生活の一部をなしていた身の回りの自然も徐々にその姿を消していき、小動物の死に出会う機会もめっきり減った。小動物にとどまらず、われわれは事物の「死」からも周到に遠ざけられているように思える。今では、ムダなもの、不用なものは、そのままの姿で半透明のゴミ袋に詰め込まれ、口をくくられ、戸外のゴミ集積場に無雑作に積み上げられる。やがて回収車が来て、それをどこかへと運び去っていく。この過程のどこにも「誕生」も「死」も存在しない。廃棄物は原形をとどめたままで、なんらの質的変化も遂げることなく、そのままの姿でいずこかへ連れ去られる。その行く末がどこであるのか、われわれは知らないし、また知ろうともしない。かつてゴミを自宅で燃やしていた時には、役目を果たし終えた事物の死と消滅を直接、体感することができた。特定の物へと形を変えたさまざまな事物は、火をつけられることによって、その形をとる以前の原始の生命へと戻り、その律動や呼吸をひとときの間、炎の形で表わしながら、自らの葬送の儀式に彩りを添えた。やがて太古の踊りも徐々に弱まり、その鼓動も聞きとれるか聞きとれないかというほどかすかなものとなる。風や人の息の助けを借りながら、かろうじて命脈を保っていた炎もついには最期の時を迎える。ふと何かを思いついたように、忽然として最後の炎が姿を消し、後には蒼白い灰だけが残り、白い煙があたり一面に漂う。そしてその灰はやがて大地へと帰っていく。この一連の過程はすべての生命活動に通ずるものだ。やがてはわれわれも何らかの目的を果たし、身内に灯された炎が徐々にその勢いを失っていくのを感じながら、他者の助力を得てかろうじてその炎を維持し、やがて、最後のひと息を吐き終え、青白い抜け殻だけを残して静かに大地へと帰っていく。われわれがぱちぱちと火の粉をあげて燃え盛る焚き火からしばしば目が離せなくなるのは、そこに自らの生命の消長を見るからなのである。身近な空間から「生きた炎」が消え去ってしまった。われわれは自らの生命の軌跡を想起させてくれる貴重なアナロジーの手がかりを失ってしまった。その時、いったいなにが起こるだろうか。まず人間が「モノ」と見なされるようになり、その価値は有用性で計られるようになる。他人だけでなく、自己に対しても「その存在がどれだけ有用であるか」という基準で評価が行われる。有用性が確認できるうちはまだいいが、徐々にその有用性が減じていくにしたがって、他人の、そして自分の価値は減衰していく。やがて一定の水準を下回った時点で、それらは「廃棄物」となる。不要なゴミとなる。たとえ、それが家族であっても、配偶者であっても、ひいては自分自身であったとしても基本的には同じことである。不要なゴミは処分しなければならない。有用性はある日突然失われ、そのモノはゴミという宣告を受ける。その時点でそのモノにはなんらの存在価値もなくなる。それらは生命装置のスイッチを切られ、ゴミ袋に入れやすい形に寸断され、半透明の袋に押し込まれ、口をしっかりとくくられる。そして、週に二回訪れる燃えるゴミの日に集積場へと出される(それが「燃えるゴミ」として扱われるのは、生命活動が燃焼であったことの遠い記憶にもとづくものである)。そして、どこかへ運ばれていく。どこへ行くのかは、捨てた人間にはどうでもいいことである。とにかく自分の目の前から不快な「ゴミ」が消え去ってくれれば、それで十分なのだ。不要なモノは消えてゆくのみ。そこにはどのような感慨も存在しない。連日報道される殺人、死体遺棄のニュースを目にし、耳にしながら、私はその事件のどこにも「炎」の赤みを感じることができない。マスコミの扇情的な報道にもかかわらず、そこには「熱」も「炎」もなく、あるのは冷ややかなゴミ集積場の風景だけだ。われわれは生命活動の中核にある生命の炎を見失うことで、人間そのものを、そして生命そのものを見失ってしまったのかもしれない。白い煙がうっすらとたなびく灰の山を眺めていた正月の夕暮れを、私はぼんやりと思い出していた。