|
カテゴリ:日記のようなもの
日本全国がヨウ様との(一時の?)別れに湿っぽくなっておりますが、
とりあえず私の方は通常営業に(そんなものがあったとして)戻ります。 といっても今日は、 朝目覚ましで一旦起きてのに二度寝したら、 7時半だった表示が8時半に+1表示されてて 超遅刻が確定したりとか、 仕事が一日中すごく平和だったとか、 でも定時後に発生したウィルス撃退作業で退社時間が結局9時になったりとか、 でも月末タイムシート処理楽にする為にタイムカードは6時半に押してあったりとか、 江國香織の『ウエハースの椅子』読み始めたりとか、 そんなとこくらいです。 で、『ウエハースの椅子』はまだ読んでる途中なのですが、 その中でも気に入った一節があったので、そのままご紹介。 『 かくということ、それは、閉じ込めることよりもむしろ解き放つことに似ている。私は 自分を、無責任な多産女のように感じる。あるいはしょっちゅう妊娠してしまう娼婦の ように。旧い友人の絵の前で、私は自分の仕事と人格の区別を見うしなう。 私は彼女に会いたいと思う。会ってもきっとどちらも話すことがないのだが、それでも とてもとても会いたいと思う。』 表現するということ。 何かに触発されるということ。 それにのめりこむということ。 自分=自分のしたいこと=自分の形作るもの、であるかも知れないということ。 その触発された対象への 他に類を見ないどうしようもない想い。 そのまんま自分に当てはまるわけでは無いけど、 でも、すごく共感できる部分があった。 もう亡くなられたけど、 私の最も敬愛する作家は、ミヒャエル・エンデ。 例えば私が彼に会えたとしても、 何がどうなるという訳は無いけど、 彼の作品に応えることは出来る。 自分の作品を書く事によって。 もう死んでいる人に自分の作品を読んでもらえるわけもないのだけど、 そうやって 人の思いは、響きあって後代に伝わっていくのだと思う。 それが言葉であれ 絵画であれ 音楽であれ。 そんな風に思った、一晩でした。 (ウエハースの椅子の感想は読了後に改めてUpします。) おまけ:故途乃葉(コトノハ) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[日記のようなもの] カテゴリの最新記事
|
|