森鴎外『青年』をあらためて読んで、明治時代の、それも半ばを過ぎたころの東京市中の描写がなかなか面白く、散歩をしているかのような気分になる。その道筋は、作中主人公の散歩の目をとおして見ているのだが、『雁』でも同様で、鴎外の小説はたいへんトポロジカルなのである。
この資質については鴎外自身がはっきり意識していたと想えるふしがある。
『青年』は、田舎(Y県とある。ちなみに鴎外は島根県の出身)から上京した小泉純一(どこかで似たような名前を聞いたなー)青年が、在京の郷里の知人やさまざまな人々の思想や生き方にふれて云々というもの。そこに夏目漱石らしき平田拊石(ふせき)という小説家と、鴎外自身を想起させられる毛利鴎村という小説家が登場する。
そして拊石についてこう述べる。「流行に遅れたようではあるが、とにかく小説家の中で一番学問がある」と。
鴎村についてはこう述べる。「干からびた老人のくせに、みづみづしい青年の中にはいってまごついている人、そして愚痴と厭味とを言っている人、竿と紐尺とを持って測地師が土地を測るような小説や脚本を書いている人」と。
諧謔をまじえながら、しかし、鋭い自他の分析ではなかろうか。「測地師が土地を測るような小説」という意味は、トポロジカルであるということではないが、森鴎外の感性にはたしかにトポロジカルなものがあったと私は思うのだ。
ちなみに『青年』は明治43年3月から翌年8月まで雑誌『スバル』に連載されたのであるが、上記の漱石らしき人物に対する短評は小説が始って間もなくのところに書かれている。読者はみな、平田拊石が夏目漱石をモデルにしていることはすぐに分ったであろう。たぶんそれが為にと私は推測するのだが、連載が始って間もなく、雑誌『新潮』が鴎外に公開質問状のようなものを発したのであろう、現在森鴎外全集等で『夏目漱石論』とされている10の質問に対する回答が7月に出た『新潮』に掲載された。鴎外は、いささか意地の悪い新潮編集部の手にはおちず(バカじゃあるまいし、そんな手にのるか)、ごくごく短い無難な回答をしている。
アッ、ついついのっけから私が話そうと思っていることから離れてしまった。
先日古本市で買った名著復刻シリーズの籾山書店刊の『青年』は総ルビの本なのだが、そのルビのおかげで、私はひとつ「オヤ?」と思ったことがある。
「美術家」「美術館」という言葉が出てきた。ごく普通の言葉だ。しかし、それには「みじゅつか」「みじゅつかん」とルビがふられてあった。
「美」の音読みは「ビ」と「ミ」であることは承知している。が、「美術」を「みじゅつ」と読んでいる例を、私はほかに思い出せない。
私自身の語彙のなかに、めったに使わないけれど、「美称」を「みしょう」と発音するときがある。もちろん「びしょう」とも発音する。私自身のなかでどちらともきまっていないのだと、あらためて気付く。どういう場合かと問いつめると困惑するが、場合場合で使い分けてきたようだ。
鴎外が「美術」を「みじゅつ」と発音するのはどうだったのだろう。「みじゅつ」一辺倒だったのか、それとも「びじゅつ」と言うこともあったのか。あるいはまた、たんなる誤植かもしれない。
そもそも「美術」という言葉はいつごろから日本語として定着したのだろう?
鴎外が『青年』を発表する23,4年前、すなわち明治19年から20年(1886~87)にかけて、文部省図画取調掛委員として岡倉覚三(天心)とフェノロサがヨーロッパへ美術とその教授法等について調査に赴いている。帰国後、明治20年10月、東京府谷中に日本で最初にして唯一の官立東京美術専門学校が創立された。
あるいはこのときが「美術」という言葉のはじまりかもしれない。英語の‘the fine art’、フランス語の‘beaux-arts’の訳語として。
そのようにして「美術」という日本語がうまれたとして、さてそれではその当時「美術」はどのように発音されていたのだろう。「びじゅつ」なのか、「みじゅつ」なのか。
今やあまりにも普通の言葉で、「びじゅつ」と言い習わしているので、明治時代にどのように発音されていたか(つまり、どのように読まれていたか)を気にもとめていなかった。鴎外の振ったルビは、私にあらたな疑問を投げつけたのだ。
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