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一昨日、シェーンベルクやアントン・ウェバーンのCDをプレゼントしてくださったS氏に、そのとき私は、自作の絵に合わせる音楽としてエリック・サティを挙げたのだった。じつは前日、サティのピアノ曲集を仕事場に流していた。流しながら昔を思い出していた。いや、昔を思い出したのでそれを聴く気になったのかもしれない。
1976年1月5日から14日まで、私は「ギャラリー銀座三番街」の企画による最初の個展「卵神庭園」を開催した。会場にかすかな音量で流したのがエリック・サティだった。若かったせいもあり、エリック・サティの選択は衒学的でもあった。彼は薔薇十字騎士団であり、おそらくグノーシス派の影響を受けていたと思われる。たとえばピアノ曲連作「グノシエンヌ」は、表題に端的にそれを表している。北野武監督第一作「『その男、凶暴につき』(1989年)の冒頭に使用されているのが「グノシエンヌ No.1」だ。
私は当時、グノーシスを研究しはじめていたこともあったが、ほとんど直感的にというか、セレンディピティーというか、レコード店のラックから指差すようにたちまち2枚のディスクを抜き取ったのだった。(明日、倉庫のキャビネットからそのレコードを出してこよう)
ところで「グノシエンヌ No.1」を、今夜も耳にすることになった。土曜の夜ということもあって、仕事は夕方までで切り上げ、9時からテレヴィでマーティン・スコセッシ監督の「ヒューゴの不思議な発明」(2011)を観ていた。日本語の題名はあいかわらずトンチンカンだが、ジョルジュ・メリエスへのオマージュと芸術愛にあふれた映画は私の好むところ。そして、---おやおや、エリック・サティ「グノシエンヌ No.1」が聴こえてきたではないか!
なんという符合だろう!
と、この日記、ここで終わってもよかったが、「ヒューゴの不思議な発明」に「グノシエンヌ No.1」を使用したマーティン・スコセッシ監督の考証の確かさを述べておくのも無駄ではあるまい。映画史の最も早いページを飾るジョルジュ・メリエス(1861-1938)とエリック・サティ(1866-1925)はまさに同時代人、二人は出逢っていた可能性が十分考えられる。しかもメリエスは手品師、魔術師にして自動機械人形(オートマッタ)の制作者だったのだから、実際にグノーシス説を信奉していたかどうかは兎も角、後のシュルレアリスムにおけるように、魔術的なることとグノーシス主義は精神的な臍帯でつながっていると言える。つまり、メリエスとサティは単に同時代人であるというだけではなく、「観る夢」は非常に似ていたと言えるのだ。
「ヒューゴの不思議な発明」の時代設定は、第一次世界大戦(1914-1918)後しばらく経って、となっている。メリエスもサティも、まだ存命だった。
映画音楽として北野武監督とマーティン・スコセッシ監督とは、同じ曲を使った。しかしスコセッシ監督の考証による物語とのあらゆる符合性は、北野作品ではまったく閑却されている。いや、私は北野作品での「グノシエンヌ No.1」は、この映画を決定的に観客の脳裏に焼き付けるに大きな効果があったと、舌を巻く。他の人はもう「グノシエンヌ No.1」を使えないだろう。「タラランラン・ラーララン・タラランラ・ランララン」と、北野自身が扮する刑事が坂状になった橋の下から姿を現す冒頭【後註】。そして最尾にも「タラランラン・ラーララン・タラランラ・ランララン」と、冒頭とまったく同一のイメージで、しかしすでにして汚れてしまった若い刑事が姿を見せる。これは一種のフレーム・プレー(額縁演出)だが、このスタイリッシュな作品を北野映画の最高傑作として、私は愛する【後註】。---だが、スコセッシ監督の衒学的符合の魔術性にも、今夜、私は陶酔したのだった。エリック・サティでつないだ私自身のここ三日間の符合にも驚きながら。
【註】
ついでだから書いておく。このシーンは、もしかするとこの作品より6年前につくられた川島透監督『竜二』からの引用、あるいはヒントを得ているかもしれない。ヤクザ者の竜二(金子正次)とその舎弟・直(桜金造)と弘(北公次)との冒頭の関係紹介シークエンス後に、三人そろって登場するシーンである。中央線のオレンジ色の電車が横切る下に、三人の姿が陸橋からせりあがってくる。この三人のヤクザ者を、北野武監督は刑事に替えたのではないか?
【註】
『その男、凶暴につき』と同様に、北野作品『OUTRAGE; アウトレイジ』(2010)も、中程のシーンとエンディング・シーンは同じである。北野武監督は、社会悪を、底流に存在するかのようであるが表の社会に纏綿し、表社会からも自らの利のために裏社会に纏綿する撚り合わさった縄のようなイメージでとらえ、その時間的連続を成すコア(核)は同じパターンであると見据え、断ち切ることができないもの、と考えているかもしれない。
ついでに述べれば、『OUTRAGE』にも私が『竜二』を想起したシーンがある。椎名桔平演じる大友組若頭水野が逃走前に情婦とセックスするシーン。水野の背に彫られた刺青が大写しになり、すぐに引きになって交合中の絵になる。『竜二』も、背にどす黒い大きな鯉の刺青がうねる交合シーンがある。私は『竜二』のこのシーンの絵を映画的にすばらしいと思っている。しかし、水野の背中の刺青は、安っぽすぎた。ヤクザの若頭はこの程度の刺青と考えたのかどうか。せっかくシーンがいきなりの刺青の大写しから始まっても、いかにもチャチな絵だ。暴力シーンが圧倒的に重いのだから、チャチな刺青には笑ってしまう。
さらについでだ。
北野監督『座頭市』のエンディング・シーンの農民たちの下駄タップダンス。これは歌舞伎舞踊『高杯』の下駄タップダンスからヒントを得ているかもしれない。さらには黒澤明監督の『七人の侍』のエンディング・シーンとのミックスで。『高杯』は17世中村勘三郎さんのみごとな下駄タップが私の記憶にある。
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